「しのっちダメだなぁ。ヘタクソさ〜」
そんなこと、言われるまでもなく分かっている。
「…そうです、私はまだまだ未熟者です」
「いやそうではなく」
何なのだろう。どうも、岸根さんの言いたいことは分からない。
岸根さんは私より一つ年上の厩務員で、丘野厩舎では先輩にあたる人だ。厩舎で女性は先生の奥様を除けば私と岸根さんのみなので、そういう意味では心強い存在ではある。仕事も、いい加減そうに見えて要領良くこなすタイプであり、端的に言えば、私に持っていないものを全て持っている存在である。
「何がですか」
「生き方がヘタだっていうの。名古屋でどんだけ頑張ったって稼ぎなんて大して変わんないじゃん? 下級レースじゃ必死こいて勝ったところで騎乗手当と一着賞金合わせて一万いくかいかないかってトコでしょ。かと言って賞金高い交流重賞じゃ稼ぎにきた中央馬にボロ負けだしさァ。ガツガツやるだけ疲れるよ〜ほどほどに楽しく気楽に生きなきゃ!」
岸根さんはそう、一気に捲し立てた。いかにも彼女らしい考え方だ。私にはとても出来ないというか、そんな発想すらなかった。私に出来るのは、目の前の壁に向かって行くことだけ。そんな生き方しか知らなかったし、ここに来るまで、それ以外教えてもらった覚えもない。
ここまで詳らかに語ってもらえれば、理解は出来た。出来たけれど、それは、今の私には無理な生き方だ。
「いやさ、しのっちが将来中央競馬に移籍したい〜、とかそうゆう目標があるんなら頑張るのも分かるんよ? 中央行くなら、少なくとも名古屋では圧倒的に勝たないと多分試験受からせてもらえないもんねェ」
「…そんなこと、考えたこともありませんでした。今の私に考えられるのは、目の前の課題にどう立ち向かうかのみです。今している馬房の掃除ですら、私はまだ極められていない……」
私は厩舎所属の騎手である。スタッフの数も十分とはいえない中で、私も厩務員さんと同様に馬の寝藁を裏返したり、餌を与えたりとしている。これも馬に携わる者として大事な仕事であり、決して疎かにしてはいけないもの。
「…マジメだなぁ、しのっちは。なんか、なんかな……しのっち見てると、あたし、妙にムラムラするんだよなァ……」
むらむら?
疑問に思うと同時に、岸根さんの手が私の臀部を摩るのを感じた。
「…何をしているんですか!」
「あ〜、いいケツしてる。馬乗りは締まってるよねやっぱ。ケツが。しのっち、化粧っ気のカケラもないけど醸し出すエロさは隠せてないよね、正直。背はちっちゃいけど、実は巨乳だし……腰回りもしっかりしてて……」
岸根さんは明らかにおかしくなっている。いつもおかしいといえばおかしいのだが、春の陽気のせいか知らないが、その傾向に拍車が掛かっている。ついにはその手が胸にまで伸びてきて、さすがにそろそろご勘弁願いたいところだ。
「戯れは辞めてください、先輩」
「あたし知ってるよ、競馬場に来る客の中に熱烈なしのっちファンがいること。数は少ないけどさ。女っぽさのないところがかえってムラっとくるんだって。香水の匂いもしないような女が好きって男、意外といるんだよ。分かるなぁ、あたしにも。もしあたしが男だったら、あるいはオス馬だったら、今すぐしのっちにブチ込みたい……中央競馬の騎手試験で合否を判定する立場だったら、試験の結果をガン無視して受からせちゃうよ。その代わり一回ヤらせてもらうけど」
薄々勘付いてはいたが、岸根さんはどうやら女性に性的興奮を覚える女性であるようだ。そして、大変申し訳ないのだが、私はそうではない。私と岸根さんの間には、広くて深い川が流れているようだ。距離はこんなに近いのに、心は遠く離れている。
「岸根さん、いい加減に--」
「…お前ら、何しとんじゃ?」
その声が馬房内に響いた瞬間、岸根さんは私から素早く離れ、後ろ手に組んで何かを誤魔化すような表情を作った。
「いや〜、山乃木さんの身体がカチコチだったから、マッサージをしてあげてたんですよぉ、風岡さァん」
「そうは見えんかったが……」
風岡先輩。
精悍な顔つき。落ち着いた雰囲気。
岸根さんが風岡先輩を好ましく思っているのが、私にも伝わってくる。所謂恋愛の類には疎いが、これはきっとそうなのだ。男も女も性的に愛せる岸根さんという存在は、私にとっては異物感がある。受け容れられないお前は人間としての器が狭い、と他者から言われれば、否定は出来ないだろうが。
『見習いの身で無理に風岡に戦いを挑むからそうなる』
あの日、丘野先生から言われた言葉が、まだ胸の中に残っている。風岡先輩を見る度に再生されてしまう。
--挑み続けなければ、風岡先輩を超えることは出来ないのではありませんか?
…情けない。そう、言葉として発することが出来ないとは。
躊躇ってしまう。お前如き下手糞が偉そうに、と言い返されてしまう未来が見える。その映像が、私の身体を硬直させる。
「それはそうと、山乃木」
「…はい」
「この間のレースは面白かったぞ」
「…はい?」
「三角でオレに絡んできたレースさ。久し振りに刺激があったわ。最近は他の騎手が大人しすぎて、退屈してたところで……今、"ここで"オレを楽しませてくれるのは、もしかしたらお前だけかもしれん」
「…そうですか」
嬉しい。
風岡先輩は、感じてくれていたのだ。私の思いを。受け止めて、そして、その上で跳ね返してくれたのだ。
かわされたわけでは、なかったのだ。
…いけない。心が弛緩している。油断していると、涙が溢れてしまいそうだ。そんな私を見せてはいけない。
「…また、挑ませて頂きます」
「おう、どんどんこい。挑めるうちに挑め。この瞬間は永遠じゃないからな」
私は頷きながらも、風岡先輩のその言い回しにどこか違和感を感じていた。
永遠ではない、とは?