Neetel Inside 文芸新都
表紙

出町柳心中
おまけ「後藤ニコのラーメン放浪記」

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 これはNO ラーメン、NO ライフを暑苦しく掲げる生活習慣病予備軍のデブ紳士淑女達に捧げるラーメン探訪の記録である。
 私は生まれついてからのラーメン好きとしてごく一部界隈では名高く母乳の代わりに鶏がらと豚骨スープで育ち離乳食として麺をすするなど現在に至るまでラーメンを欠かしたことはない。雨にも負けず、風にも負けず、東に病気の子供があればラーメンを差し入れ、西に疲れた母があればラーメン屋へ連れて行った。もはやラーメンを喰らいすぎて脳脊髄液がラーメンのスープになっているのではないかと思うほどに私の中は常住坐臥ラーメンと言っては過言である。しかし、ラーメンばかり食っていて最早それ以外を食す意味すら見失っているのもまた事実である。
 そんな人間の底辺を地で行く私がお勧めしたいラーメンベスト5をここで惜しげもなく情熱的に書き綴りたいと思う。
 ただ私は諸君もご存じのとおり井の中の蛙に食われた蝿であり全国を行脚しラーメンを食べ歩きながらそれらを得意げに語る鼻持ちならぬブロガーではない。ごく限られた地域のごく限られた店舗にしか足を運ばず見慣れた大将の作るラーメンを食べ続けてきた私だからこその、いわゆる愚直で凡庸な所感であると思っていただき寝ころびながら気持ち半分で読み進めていただくことをここに強く推奨しておく。間違っても意見や批判などをしてはいけない。ラーメンは個性でありその人なりの魂なのだ。十人いれば十色に輝く。蓼食う虫も好き好きなのである。
 なおうどん派強行軍の出汁志向主義者は今のうちに周れ右をして速やかに○亀製麺へご退場願いたい。
 それでは腎臓の具合を危惧しつつ語っていこう。

 ○

 第五位。東龍。
 ラーメンの裏激戦区である白川通り沿いにあるこの東龍は私の思い出深きラーメン屋である。
 私が疎水沿いのクソボロアパートに籠城していた時期に夜な夜な足を運んでは麺をすすった。過去は深夜まで営業しており眠れぬ苦学生たちの憩い場でもあったのだが、最近久しぶりに訪れてみると夜営業は午後六時から九時までの役所勤めも驚愕の超ホワイト営業と化していた。何故だ。
 肝心なラーメンはと言うと白濁したトロミのある塩スープとなっている。数十種類以上の野菜を丹念に煮込み続け、まるでポタージュかと英国紳士たちをも唸らせた逸品である。そのスープに自家製のちぢれ麺が濃厚に絡み合う。
 備え付けである薬味ニラを入れるとより一層スープにコクが出てまた違った味わいを感じることができる。チャーシューも柔らかく脂身の優しい口どけも癖になる。
 しかし私は東龍を食すとお腹が緩くなってしまうという憂事を抱えており、食った後は必ず家で寝ている。深夜に食うにはややリスキーなラーメンであった。

 ○

 第四位。ラーメンあかつき。
 コ・リズムでもモデルで登場したあかつきは東龍と同じく白川通り沿いに店を構える。ていうか東龍の目の前にある。
 私はあかつきラーメンほどスタンダードに位置するものはないと思っている。すべてのラーメンはあかつきラーメンを基準として考えられ、全てはあかつきに通ずる。
 重くも軽くもない鶏がらのスープに極めて食べやすいストレート麺が印象的であり、量も少なめで食べやすい。深夜営業もしており夜中に小腹が空いたら真っ先に思い描くのがこのあかつきラーメンである。
 こじんまりとした店内は綺麗でも汚くもなく、小さい厨房に性欲の強そうな大将と冴えないアルバイトが黙々とチャーシューを切り刻んでいる。客層は学生やタクシー運転手が多く、全く気取らない。
 全てが丁度よく、呼べば応える都合の良い女のようなラーメンである。
 卓上にはすりおろしにんにくや薬味唐辛子が置かれており、私はにんにくをたっぷり入れたスープを飲むのがたまらなく好きである。

 ○

 京都には名高いラーメン屋がひしめき合っており、どの店舗も競い合うようにして旨いラーメンを提供している。
 しかしながら広い店舗のラーメン屋は数少なく、人気店はだいたい狭い。
 行列に並ぶのがお化けの次に嫌いな私は日夜列を成す人気店に足を運ぶことはない。
 従っていわゆる人気店の味を確かめてみたい方は自身で調べて行っていただきたい。
 極鶏、高安、天天有など一乗寺界隈には常に大行列を生み出すラーメン屋が軒を連ねている。
 私は食べたことはないが、一度ご賞味された暁には感想をいただければ食った気にもなれるであろう。

 ○

 第三位。いいちょ。
 北大路通りの路地を入ったところにある隠れ家的ラーメン屋であるいいちょはいつやってるかわかんない系ラーメンのナンバーワンであると私は豪語する。
 京都の定番である背油入りの鶏スープは深みとコクがあり、これが食いたかったと言わざるを得ない。
 ボリューミーだが重くなく、味が濃い目のチャーハンと相性が良い。またチャーハンに備え付けの漬物を乗せ放題というのも嬉しい。
 ただ本当にいつやっているのか判然とせず、いいちょが食べたいと一か八かで足を運んでみたら閉まっていたという経験を何度もしている。
 駐車場も駐輪場もなく、店は泣けるほどに狭い。たまに学生が集団でラーメンを食った後に長々と話し込んでいるといつまで経っても店に入れないという憂き目にも遭遇する。
 ラーメンは食ったらすぐに出ていけ。話すなら川へでも行けよ阿呆どもが。

 ○

 ここで惜しくもランキング漏れはしたが語るに値する思い出のラーメン屋をいくつか紹介したい。
 まず一つ目はラーメン激戦区である一乗寺に店舗を構える驚麺屋である。
 京都の水と豚骨のみで煮出した純粋無垢なスープは恐ろしく濃厚で胃袋に痛烈な一撃を叩きこんでくる。レンゲが刺さるほどの濃度あるスープにちじれ麺がよく絡んで最後のほうは濃厚すぎて吐きそうになる。ここで嬉しいのは小ラーメンの存在である。少しでいいけれど、めちゃくちゃ濃いラーメンを食べて満足感を得たいときにこの小ラーメンの存在が一際輝いてみえる。店もそんなに流行っておらず、程よく狭く汚い店内も飾らず足を運びやすい。食べ放題の高菜等も備え付けてあって様々な嬉しい配慮が伺える。
 客層もだいたい黒髪で猫背で眼鏡の人畜無害オーラを図らずも放出しまくっている童貞学生おひとり様が多く安心感が半端ではない。「いやだわあの人、いつも一人で来ているわよ」と軽蔑の眼差しを向けてくる家族連れやリア充がおらず安心して麺をすすれる。
 もう一つは消えてしまったラーメン屋たちの存在である。
 左京区の住宅地にひっそりと店を構えていた山さんラーメン。白川の王将横にあった満月堂。
 山さんラーメンは京都らしい鶏がらスープに背油系のラーメンでチャーハンとのセットが最高に旨かった記憶がある。満月堂は鶏豚骨のスープで非常に甘みがあるのが特徴であった。スープを一口飲んだ時の、あの優しくも濃厚なスープの甘みは今でも思い出す。また北山にあったラーメン日本一も思い出深きラーメンである。超大盛りのど根性ラーメンを外人が必死に食していたのを思い出す。死ぬほど旨かったが、店主が変わり味も何故か継承されずに変わってしまったらしい。
 どれも最高に旨かったのになぜ消えてしまったのか。失くしてしまうにはあまりにも惜しい至高のラーメンばかりであった。
 ここでラーメン好きである諸君に一つだけお願いがあります。消えてしまったラーメン屋たちのこと、時々でいいから、思い出してください。

 ○

 第二位。天下一品総本店。
 京都に天下一品あり。左京区に総本店ありと謳われるほど堂々と白川通りに君臨するのが巨大ラーメンチェーンの総本山である。
 天一と呼べば誰もが腹を鳴らし、胃の調子を憂慮しながらも「こってり食べたい」と言ってしまう魔法がここには存在している。これはある種の強迫観念にも似ておりKBS京都で木村社長が「こってり食べてや」と繰り返し発言することにより我々の潜在意識に刷り込みが行われているのではないかとラーメン科学雑誌「メーンネイチャー」にて論文が発表されたのは記憶に新しい。こってりを食べたあとは「もうええわ」となるが、数日するとまた食べたくなるのは社長が大阪ミナミで仕入れていると噂の怪しい粉末ではなく、潜在意識への語りかけだったのだ。天一はひとの深層心理にまでスープの味がしみ込んでくる驚異のラーメンである。
 味はいまさら語るまでもないだろう。とにかく旨いラーメンを食いたいのなら天下一品総本店へ行け。たとえ世界が終ろうとも、我々京都には天下一品総本店がある。
 そしてまた木村社長が言うだろう。「こってり食べてや」と。

 ○

 第一位。ますたに。
 私が食べたラーメンの中でダントツに旨かったのがこの「ますたにラーメン」である。
 白川の疎水沿いにぽつりと佇む汚れた赤い屋根の店舗はなんとも歴史を感じさせる外観で趣と風情を伏せ持つ。
 店内は涙が出るほどに狭く、ある種の安堵感さえ覚える。白い割烹着を召したおばさんの店員が何名か厨房に立っており、その奥で淡々と麺を茹でスープに情熱を注ぐ男が一人。
 絶えず行列が出来ており、老若男女中国人がこのラーメンを求めて足しげく通う。店員のおばさんは客の顔を覚えており、浮浪者みたいな老人が入ってきたときに「並、固め、濃いめね」と客が発言することなく注文が通るのに驚いたものだ。
 私も顔を覚えてもらおうと学生時代に足しげく通い、夏の日差しが刺さる日も冬の凍える夜も列に並ぶのを厭わずますたにのラーメンを喰らい続けたが、結局存在感も薄く幸も薄く社会的にも生きているのか死んでいるのかわからない地縛霊のような私を覚えてくれる店員のババアは一人もおらず「注文何にしましょう」と毎回聞かれるのだけが悔しかった。
 しかしながら味は格別である。
 鶏がら醤油のスープに背油が浮いており、深みがあるもののくどくなく、ほのかな臭みもまた癖になる。私の舌がもうますたにのラーメンの味を完全に覚えており、食べた後に「もういいかな」と思う天下一品とは違い店を出た瞬間から「もう一回食べたい」と思わせるほどに求心力が凄まじい。蛇口からますたにのスープが出るのなら私は全財産を賭しても構わない。もうますたにに抱かれてもよい。めちゃくちゃにしてほしい。それほどまでに私はますたにのラーメンを愛している。
 しかし行列ができていてなかなか入れない時もある。でもますたにが食べたい。こんな時は私はとある方法でますたにのラーメンを食べている。カップラーメンで済ませるなんてそんな低廉たる愚行は論外である。まずますたにのカップ麺は全然ますたにの味じゃない。寄せる気もない。
 ますたにには姉妹店が存在し、すぐ近くに店はある。それがしらかわだ。
 店は同じく狭く、無愛想で接客が下手なコミュ症っぽい店主がほとんど一人で切り盛りしている。
 店主が人間不信のようで不気味だが、味はますたにと遜色ない。
 いつも空いていて、すぐにますたにの味にありつけるため私は両店を行き来しながらますたに欲を満たしている。
 京都ラーメンの味を知りたければますたにへ行けばよいと胸を張って語れる。それほどまでに私はここのラーメンを愛している。

 ○

 諸君もそれぞれ思い入れがあるラーメンがあると思われる。
 数多あるラーメン屋で好きなラーメンがあるということはとても素晴らしい事であると私は思う。
 それは自分だけの大切な宝物を見つけた感覚に近い。
 気に入ったものに愛を注ぎ、それらを大いに語ってほしい。
 そうすれば、君の好きなラーメン屋は今日も君を迎え入れてくれることだろう。
 君と旨いラーメンを語れる日を夢見て、ここらで勘定を済ますとしよう。

       

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