Neetel Inside 文芸新都
表紙

出町柳心中
「また、淀屋橋で」

見開き   最大化      

 この駅へ来ると、決まって楽しいことが起こる。
 最初の記憶は私がまだ小さい時、大阪市中央公会堂の風景だった。アーチ状の屋根と壮麗なレンガ造りが印象的なこの建物は、国の重要文化財にも指定されている日本有数の公会堂建築だ。
 恥ずかしいことに、私はずっと、その赤と白の大きな城に外国のお姫様が住んでいると思っていた。
 頭を真上に捻じ曲げても全容を把握しきれないほど立派な建物は、まるで天まで伸びているかのよう。
 夜になると建物はライトアップされ、土佐堀川に浮かぶようにして映り込む景観は夢みたいに美しかった。
 お婆ちゃんはクラシック音楽が好きだった。幼稚園のバスを待っている時、お婆ちゃんが私を手招いて「結衣ちゃん。今日はお婆ちゃんと大阪に行こうか」と耳打ちをすると、私のお腹は決まってぐぅと鳴り、バスの中で先生に「きょうはおうさかなの!」と胸を張って自慢したものだ。もちろん、幼き日の私は「おうさか」という単語についてこれっぽっちも理解しておらず、とにかくそれは美味しくてキレイなもの! というイメージがずっとあった。
 金曜日の夜に大阪市中央公会堂行われるクラシックコンサート。私はお婆ちゃんの温かい手に引かれ、真っ白なドレス姿で淀屋橋駅に降りた。
 断片的ではあるけれど、きらきらと光る遊歩道や、青い噴水があったことだけは不思議と鮮明に覚えている。たぶんそれが、幼心に最も美しく印象的に見えたのだろう。子どもは光るものが好きだともいうし。
 コンサートが終わると、必ず地階にあるレストランに連れて行ってもらえた。レストラン入口に立つ男の人は絵本で見たお城の使用人、そして、私と同じようにしてドレスを着た女の子が何人かレストラン内にいて、今日は世界中のお姫様たちが集まってご飯を食べる日なんだと思っていた。
 それからお婆ちゃんは、何度か「おうさか」に私を連れて行ってくれ、中之島公園で鳩に餌をあげたり、駅構内にある売店でラベンダーのソフトクリームをご馳走してくれた。コンサート後にはもちろんお楽しみであるレストランでの食事。その帰りには御堂筋の大きな本屋さんで絵本を買ってくれて、京都に帰る車中で絵本を抱いたまま幸せな夢をたくさん見た。
 大学四年生の春、慣れないリクルートカバンをぶら下げて久しぶりに淀屋橋へと降りた時、私は中央公会堂を見上げてそんなことを思い出していた。
 この駅へ来ると、決まって楽しいことが起こる。
 就職活動で彼と出会ったのも、また、淀屋橋だった。

 ○

 地下鉄御堂筋線が淀屋橋駅に滑り込むと、乗客たちは押しあうようにして我先にとドアの前に立つ。荒いブレーキがかかり始め、乗客全員の体が大きく揺れて圧力が一層高くなる。初めの頃はブレーキのたびにバランスを崩し、隣の乗客と衝突しては頭を下げていたが、入社半年にもなるとさすがに慣れてくる。私は両足を少し開いてバランスを取りながら、階段から一番近いドアの前を陣取り、スタートの合図を待った。
 腕時計の針が、ちょうど午後九時を回ろうとしている。少しずつ速度を緩めながら流れてくる乗り場の風景が私の焦燥を加速させていく。
 ドアが開き、私は人波をすり抜けるようにして階段を駆け上がった。ヒールの音が高く鳴るが、後ろから追いついてくる雑踏と乗り場のアナウンスにすぐ呑み込まれていった。
 北改札口を飛び出し、京阪電車の長いコンコースを横切る。コンコースでは前から後ろから、人が急流のようになって、さらなる地階へと吸い込まれていく。私を含め、誰もが気忙しい表情で決して足を止めようとはしない。
 京阪電車のダイヤパネルがちょうど特急の表示に切り替わったのが見えた。いつもなら「ラッキー」と思って歩行の速度をさらに速めるところだけど。
 私はそのまま一番出口から淀屋橋ビルの前に出た。
 金曜日ということもあり、駅出口周辺は予想通りの混み合いとなっている。
 淀屋橋は大阪の巨大なターミナル駅だ。大阪市役所、日本銀行大阪支店があるほか、船場側には日本生命本社や住友村、大阪市の関係機関が入るビルが往々と立ち並び、大阪の代表的なオフィス街として知られている。梅田から淀屋橋へ流れてくる人、淀屋橋から北新地へ流れていく人。また、歩いていける距離に大阪城や大阪ビジネスパークもあり、金曜夜の淀屋橋は終電まで人の波が絶えることはない。出口の南側に位置する淀屋橋交差点に面した横断歩道では、スーツ姿の集団が青の点灯を乞うように待っている。
 私は身を翻すようにして人の隙間を縫う。しばらく、私は人混みに紛れながら橋を往復し、待ち人の姿を探した。
 腕時計に目を落とすと、九時十五分を指している。待ち合わせは九時だった。
「結衣!」
 一番出口のすぐ前、橋の南側に彼が大きく手を振っていた。
「すまん! 十五分遅刻してもうた。探してくれてたんやろ。本当にすまん」
「ううん、私も十五分遅刻」
 待ち合わせに遅刻した者がその日の珈琲代を出す、というのは彼と淀屋橋で一番初めにした約束だった。
「いや、俺は十五分三十秒の遅刻やから」
 襟首から風を入れながら申し訳なさそうに眉を垂らす。額には汗が浮かんでいた。どうやら、今日は本当に遅刻してきたらしい。
 彼は遅刻の常習犯だった。しかし、遅刻といっても一分や二分程度の遅刻で、私が待ち合わせ場所に立つと、彼はタイミングを見計らったようにして「すまん!」と現れる。そして「今日は俺の奢りかぁ」と笑ってみせるのだ。
 私は彼のだらしなく巻かれている紺色のネクタイに手をかけた。社会人も半年目、まだ一人でネクタイを結べないでいるようだ。
「ちゃんとせーへんと、先輩に怒られるで?」
「あ、ごめん」
 彼は恥ずかしそうに目を逸らし、それから何も言わなくなってしまった。私は可笑しくなって少し笑みをこぼしてしまう。
 待ち合わせはいつも橋の南側、淀屋橋ビルの前だった。だけど、一度だけ、彼が橋の北側でぼんやり土佐堀川を眺めているところを見たことがある。あれは入社してすぐ、待ち合わせ時間の十分前だった。
「残業?」私は彼を見る。彼はまだ目を合わせてはくれない。
「うん。ちょっと今日は忙しくてな……それより、早く店に入らへん? 時間もったいない」
 彼は結局、私と目を合わさぬまま手を引いた。今日の今日まで、私は自分の珈琲代を出したことはない。遅刻の常習犯がいつも一分後に現れるから。

 ○

 彼と初めて出会ったのは企業説明会だった。
 そこは比較的大きな商社で、説明会参加者も数百人はいたと思われる。午前二回と午後二回に分けて行われる説明会の、午後二回目に私は参加した。
 説明会終了後、声をかけてきたのは彼の方からだった。
「京都の大学、羨ましいなぁ」
 資料をリクルートカバンに仕舞いながら、驚きの表情を見せた私に、彼は慌てて頭を下げた。
「あ、すみません。さっき、あなたのエントリーシート見えちゃって」
 髪はボサボサに長く、髭の剃り残しがある顔でニッカリと歯を見せる。ネクタイは襟下でねじ曲がり、まさに「スーツを着慣れていない」印象が強かった。就職活動を始めたばかりです、と身を呈してアピールしているようなものだ。
「京都の大学にね、憧れがあるんですよ」彼はそう付け加えた。

 ○

 淀屋橋ビルに入る喫茶店の窓から、道行く人の慌ただしい往来を目で追った。
 いつものように、二つの珈琲がテーブルの上に置かれたが、彼は充分に冷めるまで手をつけようとしない。重度の猫舌なのだ。私もなんとなく彼を待ってみる。彼は「お先にどうぞ」と言うが、わざとぼんやりしてみせて、彼と一緒に珈琲を飲むのが好きだった。
「何か食べるか?」珈琲の香りの向こうで、彼が言った。
「ううん、いらん」
「腹、空いてへんの?」
「空いてるけど」
「食べえや。サンドイッチあるで。遅刻したし、奢るし」
 自分にいかにも否があるようにして、バカみたいに笑う。
 結局、彼は一つの玉子サンドを注文した。「俺と半分っこしよう」とまたバカみたいに笑う。お腹が減ってるなら、早く言えばいいのに。サンドイッチくらい、私が奢ってあげるのに。
「結衣、仕事どうなん?」
「うん、少し慣れてきたかな」
「結衣はそういうとこあるよなぁ。なんつーか、適応力があるっちゅーか」
「なにそれ」私はくくくと笑った。
「だってほら、同僚の子ともすぐに打ち解けて遊びに行ったりしてるんやろ?」
「たまたま、同じ大学の子がいただけ」
「なんかさ、カメレオンみたいやな。その場その場の色で姿形を変える、カメレオン」
「爬虫類かぁ、いややなぁ」私はまた、静かに笑った。
「結衣はすごいと思うけどな。俺、まだ慣れへんし。めっちゃしんどい」
「何が一番しんどい?」
「朝起きるのが一番しんどい」
 やっぱり、本当にバカだと思う。

 ○

 私が京都の大学を選んだ理由は、何でもない。そこが家から一番近かったからだ。
 大学なんてどうでもよかった。行っても行かなくても、私はたぶん、普通に就職して、普通に結婚して、普通に子どもを産んで。
 世間一般的な高校生の、その所謂「普通」に流された結果、高校三年の三者面談で大学進学の道を選んだ。家から一番近い大学に通うには、それなりの偏差値が必要だという。
 先生は滑り止めに他の私立大学の受験を薦めたが、私にはそれ以外、大学に行く理由なんて毛頭ないのだから意味がないと思った。落ちたら落ちたで、それでいいとさえ思っていたくらいだ。
 冬が近づくにつれ、次第に周りも受験生の顔になっていく。私も知らぬ間に大学進学が目標となり、それが当たり前となっていた。
 やがて私は大学を卒業して就職をした。結局、そこに「理由」なんて見つからなかった。

 ○

 思っていたより玉子サンドは小さく、上品に二等分された片方にはアメリカの国旗が刺さっている。
 彼は「おまけ」に目がない。ケーキの上に乗るメッセージプレートを先に食べる、ペットボトル飲料についてくるボトルキャップを必死に集める、いつもおまけしてくれる焼き芋屋の常連になる。
 アメリカの国旗が刺さっているのは、私側に分けられた玉子サンドだった。私は国旗をひっこ抜いて、彼側の玉子サンドに刺してあげた。
「いやいや、子どもやないんやし」
「ネクタイも結べへんくせに?」
 少し意地悪な目をして彼を見る。予想通り、眉を垂らして苦く笑っている。
「正直、国旗ある方がいいな、と思いました」
「知ってました」
 なんだって知っているよ。
 彼が私より先に待ち合わせ場所に来ていることも。

 ○

「駅はどこですか?」
 説明会が行われたビルから私と一緒に出た彼が言う。
「え。淀屋橋から、京阪で」
「じゃあ一緒の駅や。京阪ってことは、京都住み?」
「はい」
「おお、ますます理想に近づいた!」
「理想?」
「京都の大学を志望してたんです、俺。その理由は、京都で下宿するのが夢! だった。正確には。残念なことに偏差値がね、京都に連れてってくれへんかったんですよ。親が、国立ならまだしも、私立の学費を払わせといて下宿なんて甘ったれたこと言いな! 実家から通い! って。結局、後期試験で地元の大学に滑り込みですよ」
 背を比べるようにして立ち並ぶビルの隙間から夕陽の光が漏れて、あっけらかんとする彼の横顔を照らしていた。眼下に流れる土佐堀川が信じられないくらい真っ赤に染まっている。
 淀屋橋駅に続く階段を降りながら、彼は一人暮らしの夢を楽しそうに語っていた。今日会ったばかりの、初対面である私に、だ。
 京阪電車のコンコースに降りた時、彼は「あ」という表情をして立ち止まった。ようやく自分の一人語りに気づいたのだろう。私は途中から置いてけぼりだったのだ。
「すんません。どうでもいいですよね、こんな話」
「ううん、大阪の大学もどんなところかなーって思ってたし」
 私が大阪を経験したのは京阪電車の終点である淀屋橋まで。高校も大学も、家から一番近いところを選んだ地元娘の私に大阪という土地は未知なる巨大都市だった。
 システム手帳の付録で付いてくる大阪地下鉄路線図。私はそれを見るたび、複雑に張り巡らされた地下の大迷宮を想像した。淀屋橋駅一番出口の先にある、大きく口を開けた「御堂筋線」に大迷宮への恐怖と淡い憧れのようなものが確かにあった。
「それならよかった」
 ホッと胸を撫で下ろす彼を見ていて、本当に面白かった。
 それと、なんて表情が豊かな人なんだろうって思った。この僅かな間に、彼は喜び、落胆し、夢を持ち、夢破れ、もしもの憧れを語ってみせた。
「俺、御堂筋線なんですよ」
「あ、じゃあ、ここで」
「はい、じゃあ」
 と、何気なく頭を下げるが、両者ともその場から動こうとしなかった。彼は私が背を向けるのを待っていたのだろう。その時、私も彼が背を向けるのを待っていたように。
 それと、もう少し未知の土地に住む自分勝手な一人暮らしの夢を聞いていたいとも思っていたのかもしれない。私の中の何かが、ゆっくりと膨らみ始めた時。
「あ。あの、もしよかったら、また、次は君の……京都の話を聞きたいなぁなんて。なんかめっちゃ自己中ですよね。俺ばっか喋って。はは。自分勝手ついでに、アドレス交換なんてしてもらえれば嬉しいなぁとか思ったり」

 ○

 ぺロリと玉子サンドを平らげた彼は、ほどほどに冷めた珈琲カップを置いて、思い出したように話し始めた。
「そうそう。俺がいきなり、週末、京都に遊びに行っていい? ってメール送ったんやったな」
「びっくりしたけどね」
「どうびっくりしたん?」
「なんていうか意外と……行動力ある人やなーって」
「意外とってどういうことやねん!」彼は右手をパタパタ左右に振ってツッコミの仕草を見せる。
 彼と付き合い始めたのは私も彼も就職が決まってからしばらく先。知り合ってから長ーいお友だち期間を過ごしてからのことだった。
 大学も違うし住んでいる街も違う。京阪電車で約一時間。それから御堂筋線に乗り換えて約十五分。理由もなく、なかなか会える距離ではない。
 彼は「京都に遊びに行く」という名目で私に会いに来た。私も「難波に買い物に行きたい」「梅田の観覧車に乗ってみたい」「新世界で串カツを食べてみたい」という理由を作って彼と会った。とにかく、私たちには何か理由が必要だった。本当に私たちは二十歳を超えた男女なのか、と疑うほどに純粋で、やきもきして、じれったい関係だったと思う。今もまぁ、そこまで踏み込んだ関係ではないのだけれど。
「あ、ちくしょう、もう十時か」彼は真新しい腕時計に目を落とした。
「一時間、短いね」そう彼に言う。
「もう一時間延長しよか?」
「私は明日休みやからええんやけど。明日も仕事でしょ? また朝起きれなくてしんどいんちゃう。今日は帰りましょう」
「ですよねぇ」彼は自分の襟元に手をかけて、風を入れ込んだ。ああ、そうか、癖なんだ。こうするから、ネクタイが曲がるんだ。
「じゃあ、次は……一週間後。長いなぁ」彼が残念そうに言った。ネクタイがどんどんねじ曲がっていく。
 私と彼は勤め先が違い、休みが重なることはあまりない。私の会社はカレンダー通りの休みをもらえるが、彼の会社はシフト制で平日休みがほとんどだ。お互い京都・大阪での実家住まいということもあり、こうして働き出してから会えるのは週に一日から、多くて二日。私の休日前の金曜日夜か、彼の休日前の夜になる。今日みたいに、ほんの僅かな時間だけ、淀屋橋で会える。
「また来週、ここで会おう。時間は……」
 私が手帳を取り出し開いて見せると、彼は何か言いたげな表情でテーブルの上に視線を泳がせていた。それに気づいた私が「どうしたん?」と言う前に、彼は思いきったように口を開いた。
「結衣。俺な、一人暮らし始めようかと思ってんねん。これ、探してきた物件なんやけど、どう思う?」
 差し出されたのは、何重にも折りたたまれ、くしゃくしゃになった一枚の紙切れ。
 印刷された物件情報がずらり並べられ、汚い字で家賃や彼の一言感想が書き込まれていて少しだけ口角が緩んでしまう。たとえば、コンビニが近い、駅から遠い、エレベーターがない、近くにお墓があって怖い等々。彼らしいと言えば、彼らしい。
 でも、どの物件も彼の職場から離れすぎている。というより、私の職場に近い物件が選ばれている。
「貯金も溜まってきたし、働き始めて結構経つし、そろそろ夢叶えてもええかなって思うねん。ずっと決めてたことやったし。ほら、今まで通りこうやって淀屋橋で会うのもしんどいやろ。だから、その……もしよかったら、二人で暮らさへんか?」
 意外だった。彼の考えていることは、なんでもわかっているつもりだったから。そんな彼の言葉に驚いてしまい、私は顔を上げられなかった。
 私とこうして淀屋橋で会っている間に、彼は二人暮らしを考えて物件を回ってくれていたのだ。
 彼の言ってくれた言葉。「こうして、淀屋橋で会うのもしんどいやろ?」うん、確かにそうかもしれない。
 でも、今は。
「嬉しい……んだけど、今はまだ、実家から通いたい、かな」
 私はそう言って彼に紙切れを返した。
 すると彼は、しどろもどろになりながら「え? え? ごめん、なんかいらんこと言ったかな」と焦り始める。まさか、断られるなんて思ってなかったのだろう。みるみるうちに眉が垂れ、申し訳なさそうに私を見つめる。
「ご、ごめんな。結衣。な、なんか俺、調子乗ってもうたっぽいな」彼が一生懸命、言葉を絞り出しているのが手に取るようにわかる。
 ううん、違う。勝手を言ってるのは私の方。すごく嬉しかった。本当は両手を挙げて大賛成。私だって、いつかはそうなれればいいなって思っていたし、彼が私の負担を考えてくれたように、私も彼の負担を考えるとその方がいいに決まっている。
 でも、やっぱり。
 この駅へ来ると、決まって楽しいことが起こる。
 まだ淀屋橋駅に置いておきたいんだ。お婆ちゃんが私に見せてくれた夢のように。彼とこうやって会って、他愛のない話をして、お互いを励まし合って、元気をもらって、また明日も頑張ろうって思えるような、彼との時間。
 だから、まだもう少しだけ、優しい夢に浸っていたい。この駅で、また。
「半年後。私たちが社会人二年目になったら、その時にまた、一緒に部屋を探そうよ」

 ○

 山吹色の特急電車が一番ホームに滑り込んでくる。
 到着のアナウンスに合わせて扉が開き、次々と乗客が吐き出されていく。
 赤ら顔したスーツ姿の中年男性、疲れた表情で携帯と睨みあう女性、お腹の大きな妊婦さんに、寄り添い合う学生風のカップル。
 ふとその時、私の横を通り過ぎたのは、お婆さんに手を引かれたドレス姿の小さなお姫様。その手には絵本が抱かれ、とびきりの笑顔で扉が開くのを今か今かと待っている。
「そっか、今日は」
 私は鞄からくしゃくしゃになった一枚の紙切れを取り出し、一言感想で一番気に入った物件に大きく丸を付け、今日からちょうど半年後の日付を書き加えた。
 きっとこの日は、記念日になる。
 私は少しだけ胸を鳴らしながら、発車のベルを聞いていた。

 ○

 この駅へ来ると、決まって楽しいことが起こる。

       

表紙

後藤ニコ 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha