Neetel Inside 文芸新都
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吐き捨てられていく文字列
rena

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 ノーモーション。僕がその言葉を理解したのはある女性格闘家の立つリングを最前で見たからだと思う。殴り合えば男女の差で勝てる。でも一生かかってもあのノーモーションは打てない。僕の心は完全に折れてしまって、グローブをそこにしまうことでなんとか生き延びることを選んだ。
 ネットでだらだらシュートボクシングの動画を見ていたら、妻が「いやらしい目で見てるんでしょ」と絡んできた。妻は僕がシュートをやっていたことを知らない。諦めた過去を気楽に話せるほど人間ができていない。筋肉はすっかり落ち切っているので、ひ弱な人間だと思われているだろう。妻はさらにひ弱にしか見えないので納得はいかないが、実際に僕は風邪をよく引く。暴漢に襲われたところを助けたこともないので仕方ないのだろう。
「がっちりした女の子の方が好きなの?」
と、今にも折れそうな二の腕を触りながら聞いてくる。
「そんなことないよ」
と答えたが、実際は程よく筋肉のついた女性の方が好みだ。「守ってくれる女がいいんだ」と常々飲みの席で主張していた。だから結婚した当初は友人に不思議がられた。「シュートやめて落ち込んでたからそばにいてくれたら誰でもよかったんだろう」だなんて暴言を吐かれたことすらある。落ち込んでいたのは確かにそうで、一時期はシュートなんて見ることもできなかった。
 付き合う前は一緒に出掛けることが多かった。その日も植物園へ行こうと電車に乗っていた。途中の大きめの駅で多くの人が乗り込んできた。僕らの目指す駅はまだ先だから気にも留めず話し続けていた。電車が動き出した瞬間、視線の先に老夫婦が入った。席を譲ろうかとも思ったけれど少し距離があったので躊躇した。僕の視線に気づいたのだろうか。彼女は目線を上げると同時に
「どうぞ」
僕はまたもやノーモーションを最前で見せつけられた気がした。綺麗だと思った。慌てて立ち上がった僕に、彼女は何事もなかったかのように話を続けた。
 動画はノーモーションの右ストレートから投げ、関節と綺麗に決まったところで終わった。
「私も始めようかな」
と全く腰の入っていないシャドーボクシング。目が合うと同時だった。ノーモーションの笑顔。もうグローブを詰め込んでおかなくても心は折れない。僕は今日も妻に守られている。

       

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