ペットボトル
綺麗だね。隣を歩く妻が花屋の店先に並ぶそれを見て言った。花言葉は、記憶、だっけ。そう彼女に応えると同時に、記憶が呼び覚まされていった。
駅のロッカーに荷物を預けていると言った彼女。送りがてら付いていった。誕生日近かったよね。そう言って渡されたのは黄色の花束だった。花は男から女に渡すものだと思っていた。ありがとう。虚を突かれた僕がそう言うと彼女は、じゃあね、と笑って改札の中に消えていった。
彼女と知り合ったのは婚活サイトだった。とは言え、二十代前半の僕が結婚を本気で考えていたわけでもなく、出会い系代わりに使えるのではないかという下心から登録していた。目論見通りに事は運び、何人かの女性と関係を持った。サイトは皆イニシャルで表示されていたから、本名は知らないまま。教えてくれた人もいるけど、すぐに忘れてしまった。結婚に焦る女性たちの感情はあまりにコントロールしやすく、彼女もそんなうちの一人だと思っていた。けれど慎重な彼女と会うことはなかなかできず、気が付けば僕は三か月の更新料を払ってまで連絡をしていた。粘った末、こちらの駅近くに来る彼女と夕食を一緒に摂ることになった。
彼女の印象は婚活サイトのそれとは少し違っていた。思っていたよりはるかに儚げで、今にも消えてしまいそうだった。夕食が終わり、店を移してお酒を飲んでいると、話題は自然と理想の家族像になった。結婚なんて本気で考えていない僕の薄っぺらい科白は見抜かれていただろうか。肝っ玉母さんになりたいんだ、と彼女は言った。彼女のまっすぐな美しさに僕は恋に落ちようとしていた。
家に着いた僕はネットで調べながら、水を貯めたボウルの中で茎を切った。そして、花瓶代わり、半分に切断したペットボトルに生けた。初めての作業に少しウキウキした。新しい喜びを彼女が与えてくれたと思った。
当該ユーザーは退会しました。事務的な一行は僕に敗北の二文字を突き付けた。どうにかして連絡をとりたいと思っても、ネット上でしか連絡を取っていなかった僕は彼女の名を知ることすらできない。メッセージの履歴をただ空しく見返す。ネットをくまなく探しても見つけられたのは花の名くらい。花の写真の下には花言葉が添えられていた。なぜ彼女はこの花をくれたのだろう。ずっと考えてしまう。切断されたペットボトルの片割れはもはや何の役割も持たず、ただ花の美しさが心に刻まれていくだけだった。
なんで花言葉なんて知ってるの? 妻の声にハッとする。知ってちゃおかしいかい。そう返事をしながら、僕はもう一つの花言葉を思い出す。つつましい幸せ、って花言葉もあったはずだよ。それを聞いた妻は幸せそうに微笑んでお腹をなでた。僕は得も言われぬ恐怖にまとわりつかれながら、なんとか唇の両端を持ち上げることに成功した。