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禊小説アンソロジー
-Maddest-Murderers-(2007年) /黒い子

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 そこには、夜だけがあった。喜びはなく、悲しみもなく、憎しみも楽しみも希望も絶望もおよそ考え得る感情という名の色の一切を排除したただひたすらに無表情な夜だけがあった。そこに、真っ白な紙にただ一点の黒い点を記したがごとく、また一寸先も見通す事のできない黒い闇の中にぽつりと灯った明かりがごとく、小さな小さな悪意が生まれた。悪意は憎んだ。なぜ己だけがこんな思いをしなければならないのか。物を盗み、誰かを欺き、子供をさらい、人を殺す。こんな事を続けてなんになる。苦しいだけじゃないか。許せない。自分が許せない。自分を使うあいつらが許せない。自分を追い込む世界が許せない。壊してやる。壊してやる壊してやる壊してやる!自分もあいつらも世界も、すべてぶっ壊してやる!幸い、悪意を作り出した少年にはその術があった。皮肉にも、その術は彼が憎む『あいつら』から手に入れられた。
「さあ、花火の時間だ」
 少年は立ち去り、後には無表情な夜だけが残った。すべてを見ながらにして、何も知らない夜だけが残った。


-Maddest-Murderers-


 たとえばここに一本のナイフがあったとしよう。あなたはそれをどのようにして使用するだろうか。とりあえず警察に届けてみるか。それとも護身用に持ち歩くか。いたずらに壁に傷をつけるなんていうのもあるかもしれない。だがおそらく、人を切り刻むなんて使い道は思いつくまい。この鋭い刃で人肉が細切れになっていく様の始めから終わりまでを、最も近くで、自分の手で見てみたいなんて人間はなかなかいないだろう。だが、薮雨 神(やぶさめこころ)とはそういう男だった。彼にとって最大の喜びとは、人間という生命を宿す肉体がゆっくりと死を受容した肉塊へと変化していく様をつぶさに観察することだった。誰かを殺す時、彼はナイフを好んで用いた。自分の手で肉体を解体していくあの感触。それを求めて彼はナイフを用いた。もちろんナイフのような刃物による刺殺以外にも彼はさまざまな殺人法を試した。絞殺、銃殺、爆殺、圧殺、溺殺、轢殺、窒息死、感電死…およそ考え得る限りの殺人法は試したように思える。自殺に見せかけた犯行や完全なる密室の作成も行った。彼の殺人スキルはかの偉大なる殺人鬼、ジャック・ザ・リッパーでさえ足元にも及ばないだろう。
 彼の他の何かの命を搾取するという行為に対する喜びは間違いなく天性の物だったが、しかし彼の殺人スキルの方はただ天に恵まれたというだけの物ではなく、幾度もの経験による所が大部分を占めていた。だが、それも彼の職業を考えれば当然といえるだろう。彼は人間を殺すことを生業としていた。多額の金と引き換えに誰かを殺す。詰まるところ、殺し屋だ。
 初めてこの職業の存在を知った彼はすぐさまそれを天職だと信じて疑うことをしなかった。彼はそれまで通っていた高校を辞め、闇の世界に足を踏み入れた。未練はまったくなかった。彼にとって人間とは虫や犬と同じような一個の命を持った固体でしかなく、家族ですらそれは例外でなかった。それでも彼は人間が好きだった。理由は簡単、命を奪う際にこんなに楽しい生き物はいないからだ。楽しくて仕方がないとすら言える。
 彼は間違いなく狂っていると言えた。だが、いや、だからこそ、彼はとても頭がよかった。簡単に事実だけを述べればこうだが、彼の頭はとてもなどという陳腐な言葉で語れる程度の物ではなかった。途中まで通っていた高校での成績は常にトップ。器量もよかったし運動神経も抜群であったから彼に言い寄る女子は後を絶たなかった。彼は彼女たちの女性的部分にまったく興味を持たなかった。彼が興味を持ったのは彼女たちが人間であるというそのただ一点だった。無論彼はその全員を殺して犯人の共通項が自分であることを示すようなへまをすることはなかったし、クラスでもいつもにこやかで爽やかな印象を与える好青年を演じてはいたが時々、ほんの時々は殺人を犯した。彼が初めて人間を殺すという快感を得たのは中学二年の頃だった。当時交際を申し込まれた女子の首を興味本位で落とした事が、彼の一番最初の殺人である。その時の彼の心に広がった得も言われぬ暗い喜びは筆舌に尽くしがたいものだった。虫けらやどこかの家から盗んできた犬を殺す事などとは比べ物にならないほどだ。それからというもの、彼は高校を二年生で自主退学するまでの三年間で自分に言い寄ってきた女子三名とクラスの男子一名を殺害した。計四名の内初めの一人こそどうにもできなかったが女子の一人は自殺に見せかけ、残る二人は五年以上が経過した今も未だに死体の発見すらされていない。
 殺し屋になりたての頃は大変だった。マフィアのような連中の元へ直接売り込みにいったりやくざの鉄砲玉に近い役を負ったりした。それでも彼の仕事は徐々に闇の世界に浸透していき、彼を狙う殺し屋まで現れるようになった。無論彼はそのすべてに死を与えたため闇の世界での地位はどんどん向上していき、今や彼の右に出る者はいないと言われるまでになった。そして、
「おやおや…平和主義であるはずの日本の首相自らがお出向きとは…日本もそろそろおしまいかな?ねえ、内閣総理大臣さん」
 今や、時の内閣総理大臣、橘 辰巳(たちばなたつみ)、すなわち国が依頼を持ちかけるまでになった。だが、彼は誰が依頼を持ちかけるかという事に対してはあまり重要な価値を見いだせていなかった。彼にとって重要なのは自分が人間を殺すことであり、それによって自分が生きるための金を手に入れるという事だ。人を殺すのに自分を生かすという事に矛盾を感じる人もいるかもしれない。だが、彼は自分はあらゆる意味で人間でないと思っていた。人とは違う、他の何物とも符号しない、言わば神であると。そう信じていた。
「くだらん御託はいいんだ。いくらだ。いくら出せばいい?」
「せっかちだねぇ。人がせっかくおしゃべりに興じようとしているのに…」
「あいにく内閣総理大臣という仕事は暇が少ないんでね」
「ああそう。じゃあ金額については後。まず何を殺したいのかを具体的に言ってよ」
「………佐柳 弥一郎(さなぎやいちろう)。佐柳組のボスだ。最近政府にちょっかいを出してきていてな。気に食わない」
「気に食わない、ね…他に何人やっても構わないよね」
「構わん」
「じゃあ…これくらいで」
 そういって薮雨は電卓のボタンを押した。
「そんなもんでいいのか?」
「うん。重要なのは殺すことだから。それとそれに対する口実。あるいは選ぶという手間の排除。まあそんな所かな。とにかく僕にとってお金はそう重要じゃない。最低限生きていられればいいんだ」
―――化け物め…!
 橘は薮雨の仮面を見ながら思った。
 彼は依頼を受ける時や犯行時にはほぼ常に仮面を付けていた。これは自分が何者かを示すためと同時に自分が何者かを隠すためだ。顔が割れてはそれ以上何かを殺す事などできない。
 しかし、仮面をつけたままでも殺しを楽しんでいる様子が伝わってくるというその姿から、彼は通称でMadness Mask、狂気の仮面と呼ばれていた。
「じゃあまた。連絡はあなたの家に直接電話するから」
「…なぜ番号を知っている?」
「そんなの少し調べれば簡単に手に入るよ」
「なるほどな…なら仕方ない。それと…」
「まだ何か?」
「いい加減その仮面を外したらどうだ」
「それはできないなぁ」
 仮面の下で、彼は笑っているような声で言った。
「じゃあね橘さん。また会いましょう」
 しかし橘はそれには応えず、ただ無言で部屋を去っていった。



 魔山 零(まやまれい)は不幸という名の星の下に生まれた。小、中学校では理由もわからないままにいじめを受け、家に帰ると父親の暴力が待っていた。いじめは嫌がらせだけに止まらず彼は万引きをやらされ、通行人を襲わされた。駒として使われたのだ。
 彼は母親を早くに病気で亡くしていたが、父親の方はある日彼が家に帰った時、首を吊って死んでいた。その保険金をすべてつぎ込んでも払い切れないほどの借金を残して。彼は自分の家が貧しい事は知っていたが借金を抱えている事など露とも知らずにいた。父の死から三日後に黒い服を着込んだ見るだけで危険とわかる種類の男たちが彼の家にやってきて、彼に言った。
「借金の返済ができないなら、ウチで働け」
 突き付けられた書類に書かれていたのは彼が一生働いても払えるような額ではなかった。彼は従うしかなかった。こうして彼は一般に暴力団と呼ばれる組織で働く道を選んだのだ。つまり、闇の世界に足を踏み入れたのだ。
 だが、彼の日常は本質的な意味で大きな変化はなかった。やることが少しだけ重くなっただけだ。闇取引、盗み、殺人…言ってしまえば彼はここでも使いっ走りだったのだ。着る服が制服からスーツに変わっただけ、ただ強い者に従うだけの毎日だ。何年経ってもそれは変わらず、彼は下に位置し続けた。だが、彼にも少しだけチャンスが巡ってきた。本部への昇進だ。彼はこれが生きる道なのだと信じた。どうにもできない、ならば、順応するしかない。だが、初めて敵陣に乗り込んだ時、彼は絶望し、戦慄した。そこで彼が見た物は…地獄絵図だった。血まみれの死体と、銃声と、肉の焦げる匂い…。しかし彼は生き残った。日本刀を使い、目につく相手を片っ端から斬り裂いていった。叫びながら、顔を血と脂と涙と鼻水とでぐしゃぐしゃにしながら斬り続けた。途中、何度も刀身で鉄砲の弾を弾いた。なぜ自分にこんなことができるかわからなかったが、考えている暇はなかった。そして累々たる死体の中に立っていたのは、彼一人であった。彼の足元には相手方の頭の首が転がっていた。
 それからというもの、彼は『戦場』に一人で向かわされた。一人で十分だったのだ。首狩りのゼロとあだ名された彼は、しかし魂は苦しみ悶えていた。人を殺す事などしたくない、善良に生きていきたい…。理想と現実とのギャップにもがき苦しんだ末、彼は復讐を決意した。手順はまず、頭を殺し、組の者を皆殺しにし、武器庫からありったけの爆薬を持ち出して東京の中心で自爆する。
「さあ、花火の時間だ…」
 復讐の日は、もう間近。



 佐柳組のボスである佐柳 弥一郎の家の近くで、薮雨は仮面をつけた。手には一本のナイフ。彼は今日、スーツを着込んでいたがその身体のいたる所にナイフを仕込んでいた。無論普通のナイフだけではなく、彼が様々な仕掛けを仕込んだギミックナイフと呼ばれる代物も中にはあった。
 彼はまず、屋敷の門の前に立つ見張り二人を殺した。恐らく、二人は自分が死んだ事にすら気づいていないだろう。彼は門を開き、中に入った。何人か見回りを殺して扉の前にたどり着き、開けた。瞬間、声をかけられた。
「誰だお前は。ここで何をしている!」
 彼は答えず、腕を振った。声をかけた男は首から血を吹き出して死んだ。誰にも悟られていないはずだった。しかし、次の瞬間二階で銃声が轟き突如屋敷の中が騒がしくなった。不快に感じながらも彼は次から次へと襲いくる輩の喉を裂いていった。
 そうしている内に、彼は佐柳の部屋へとたどり着いた。だが、そこには一人の少年と死体の山だけがあった。そして、少年の手には佐柳の首が。
「…君、誰?君が握っている男の首は今夜僕が取るはずだったんだけどね…」
 彼は、生まれて初めて怒りという感情を知った。楽しみにしていたおもちゃを取り上げられた気分にも似ている。
「…誰だてめぇは?どこの組の者だ」
 首を投げ捨てながら少年は逆に尋ねた。
「聞いてるのは僕だよ。まあ答えるのは構わないけど…僕はよく狂気の仮面とか呼ばれてる。君が知ってるかしらないけどね」
「――っ!」
 少年の目は大きく見開かれていた。当然彼の耳にも情報は伝わっていた。悪夢のようなその所業。狂気に取り付かれたその姿。否、狂気そのものが今、目の前にいる。
「狂気の…仮面?」
「そう。さあ、君の名前を教えてくれるかい?こんな気持ちになったのは初めてだ。記念に覚えておいてあげるよ。それから最高の殺し方をしてあげる。…生きたまま内蔵を一つずつ取り出すんだ。楽しそうだろう?」
 その瞬間、少年は理解した。なぜ彼が『狂気の』仮面などと呼ばれるのか。彼は、殺しを本気で楽しんでいる。これ以上の喜びはないと、これ以上の楽しみはないと、そう思っている。だが、少年の思考はそこで打ち切られた。一瞬で間合いを詰められ、仮面がすぐ目の前に迫っていたのだ。



 時間は少し遡る。
 暗くなるのを待って、魔山は屋敷の天井から降りた。そこは使われていない部屋だったため、見張りは誰もいなかったのだ。しかし、廊下を出た途端に下っ端に見つかった。日本刀で袈裟斬りにしたものの、死の直前相手は虚空に向けて弾丸を放った。それは警鐘と同じ役割を果たし、彼の前に何人もの手下が立ちはだかった。彼はそれを手にもった日本刀で次々に切り倒し、時には弾丸をその刀身で弾きながら進んで行った。佐柳の部屋は彼が隠れていた部屋からそう遠くはなかった。部屋の前に立っていた二人を一薙ぎにするとふすまを勢いよく開いた。同時に、弾丸の嵐。ひとまず下がって銃弾の嵐が止むのを待って再び乗り込んだ。今度は下がらなかった。刀身で弾丸を弾いて一人、二人と切り倒していく。そして、残るは佐柳 弥太郎一人となった。
「望みはなんだ…金か?それとも組そのものか。まさかヒーロー気取りという訳でもあるまい?」
 佐柳は恐怖や緊張とは無縁に見えた。だが、殺戮を繰り返して研ぎ澄まされた魔山の感覚はその瞳の奥にある恐怖と動揺をつぶさに感じ取っていた。
「望みか…望みなんざねぇ。これは復讐だ」
「親の敵討ちとでも?」
「親父のことなんざどうでもいい。別にここへきて親孝行する気なんざさらさらねぇんだ。だがな、俺は憎いよ。俺が。俺を追い詰めやがった貴様とこの腐った世界が、憎くてしょうがねぇんだ…武器庫の鍵を出せ」
「武器庫?そんな物どうし…」
「さっさと出せって言ってんだ!」
 魔山の怒号に完全に恐れをなしたかのように佐柳は床の端まで這っていき、どこからか鍵を取り出した。鍵を渡しに魔山の下へと戻ると髪をぐいと掴まれた。痛みに涙が出そうになる。
「じゃあな。あの世でまた会おう。心配すんな…俺もすぐに行ってやる」
 そして、魔山は佐柳の首をはねた。後はこの鍵を持って武器庫のある地下に行くだけだ。ここまではよかった。しかし、ここで予想外の事態が発生する。侵入者である。
「…君、誰?君が握っている男の首は今夜僕が取るはずだったんだけどね…」
 その声に対して彼は振り向かないまま首を投げ捨て、
「…誰だてめぇは?どこの組の者だ」
 とだけ問い返した。
「聞いてるのは僕だよ」
 その声が侵入者の口から発せられた時、なぜか背筋が凍るのを感じた。はっとしてその方向を向いた。そして、彼は声を失った。その…仮面。狂気の仮面の名で恐れられる男を真似て仮面をつけた輩は何人も見てきたが、もとい切り裂いてきたが、こんな男は初めてだった。全身から滲み出る、狂気。両の手に一本ずつ収まっている血塗れたナイフ。その立ち姿を前にした瞬間、彼は蛇ににらまれた蛙がごとく、身動きが取れなくなった。恐ろしい。今まで感じてきた物とは比べ物にならない程の、狂的な恐怖。もはやどんな言葉も彼の耳には届いていない。自分の耳の奥が脈打つ音だけが彼の脳を支配している。しかし、
「楽しそうだろう?」
 その言葉と共に目の前に突き付けられた仮面により、彼の金縛りは解けた。跳び退って間合いを確保し、呼吸を乱しながらも刀を構え直した。
「へぇ…避けた。もしかして君、そこの首よりも楽しませてくれるの?」



 両者の間合いは開いた。だが、そこには決定的な差があった。食う者と、食われる者。追う者と追われる者。殺す者と、殺される者。今のところ薮雨は前者で魔山は後者だった。それを悟った時、魔山はさっさと逃げ出した。もうすでに鍵は手に入っている。後は爆弾を仕掛け、爆破するだけだ。しかし、薮雨は本気で魔山を殺す事に決めたようだった。魔山が家の玄関から外に出ようとした時、玄関にはすでに薮雨が立っていた。
「なっ!」
「何驚いた顔してるの?窓から降りれば簡単な事なのに」
「くそ!」
 魔山は刀を構えて強行突破を決行した。しかし、薮雨にそれが通じる訳はなく、薮雨はナイフで刀を受け止めると魔山の腹を思い切りけり飛ばした。彼はやすやすと飛ばされ庭にあった大きな池に背中から飛び込む形になった。
「もう終わり?」
 魔山はやっとの事ではい出たが、目の前には薮雨の靴があった。
―――ああ…!
 魔山は堅く目を閉じた。再び蹴り飛ばされ、今度はグギリという嫌なと共に地面に仰向けに転がされた。
「さあ、まずはその腹を開こう」
 ナイフを持ち直しながら薮雨がこっちに迫ってくる…!と、その時、遠くからパトカーのサイレンが近づいてきた。あれだけ派手に銃を撃てば近隣の住人が警察を呼んでも不思議はない。
「あーあ…しょうがないか」
 そうぼやきながら薮雨は片手で魔山の首のあたりを掴んで軽々と持ち上げた。この細い腕のどこにそんな力が秘められているのかは謎だったが、彼は魔山の体を塀の外に投げ、自分も塀を飛び越えた。そこは隣の家の庭だった。
「君は僕の手でじっくり味わいながら殺したいんだ。だから今は逃げるといい。心配しないで…ちゃんと息の根を止めてあげるから」
 それだけ言うと薮雨はナイフの柄で魔山の急所を思い切り突いた。そして魔山は、闇に落ちた。



 魔山が目覚めた時、世界は明るかった。しかし、それは太陽の光ではなく人工的な物であった。警察である。彼らが佐柳邸の一体を煌々と照らしていたのだった。
「こりゃあ…もう一度乗り込む気にはなれないな」
 魔山はそうつぶやくと立ち上がって歩きだそうとした。こんな警察がうろうろしている場所にいつまでも留まる訳にはいかない。
「くっ…」
 体の処々が痛んだ。とりわけ酷いのは胸だ。どうやら蹴られた時にあばら骨が折れたらしい。
 胸に手を当てると、手が何か紙のような物に触れた。胸ポケットに入っていたそれは一枚のメモだった。
『君のポケットに入っていた鍵をもらったよ。返してほしかったら下の番号まで電話をかけるといい。もっとも、君が来なくても僕の方から行くけどね』
 その下に番号が書かれ、裏には仮面の絵が描かれていた。彼はそれを破り捨て―――ようとした。が、できなかった。彼は再びそれをポケットに入れると急いでその場を去っていった。
 まず、魔山は病院を探さなければならなかった。魔山や薮雨のような人間はいわゆる堅気の病院に入ることはできない。闇には闇なりの病院がある。それはたいてい医師免許を持ってはいなかった。そしていずれも高額の金を取った。だが彼らは同時にブラックジャックのような優しさなどみじんも持っていない。仕方なく彼はある闇取引の現場を襲って金を得た。
「ふん…確かに金は持っているか。どうやったかは聞かないでおこう。それが安全だ…」
 嫌みな感じのその医者はぶつぶつと文句を言いながらもきちんと治療してくれた。おかげで魔山は一週間ほどで前とほぼ変わらず動けるようになった。
「これでいい…だが無茶はするな。骨がまだ完全につながってはいないんだからな。いいか、無茶はするな。それが安全だ…」
 次に魔山が当たったのは殺し屋だった。魔山はあの仮面男に一人で勝つのは不可能と考えたのだった。だが、依頼を聞いてくれても受け入れてくれる人間はいなかった。狂気の仮面の名を出したとたん、誰もが首を横に振った。一人でやるしかないのか…。そう思い、これで最後にしようとある男を訪ねた。
「いいだろう」
 その男は言った。
「ただし、一億だ。いや、二人でやるんだったか?なら九千九百九十九万にまけてやるよ。はっはははは!」
「本当にいいのか?」
「まあなぁ…俺様もあの仮面ヤローにはいらいらしてたんだ」
 そう言いながら彼は頬の傷に触れた。
「その傷は…?」
「昔ちょっとな。女にやられて…そうだ。あいつも呼ぼう。凄腕だぜ」
「女…?」
「ああ。協力してくれるだろう。あいつなら…な」
 男は笑った。その男、黒隰 諸畏(くろさわもろえ)は不敵に笑った。しかし、その目は思い出の写真を懐かしむような、そんな色をしていた。



 黒隰は明日、魔山と再び同じ場所で会う約束をしてから、ある女性に電話をかけた。電話に出た彼女の声は非常に不機嫌であった。
『なによ…仕事中なんだけど?』
「悪いな。実は俺のとこに首狩りのゼロのやつから依頼が入ったんだが、その男と組んでも依頼を完遂できるかわからねえ。だから…」
『手伝え…と』
「さっすが烏龍。話が早い」
 道 烏龍(たおうーろん)。それが彼女の名だった。
『で、誰なの。ターゲットは』
「狂気の仮面…っていやあ通じるか?」
『………本気?』
「まあなぁ。お前と首狩りと組めばいける気がしてな」
『断るわ』
「なんで?」
『割に合わないもの。だいたいにしていくらで依頼を受けたの?』
「九千九百九十九万だ」
『それを仲良く半分こって訳?いやよ』
「美形揃いだぜ。なんなら三分の二はお前が持ってってもいい」
『そうまでしてこだわるのは、なぜ?』
 黒隰は少し考える風に間を空けて答えた。
「俺も仮面ヤローは嫌いだ。ゼロのやつも気に入った。三人で組んでもいいくらいだ」
『なんだかね…まあいいわ。首狩り君は美形なのよね?』
「ああ」
『仮面の下の素顔もぜひ拝みたいものだわ』
「そうこなくっちゃな」
 黒隰が場所と時間を告げると、烏龍はすぐに電話を切った。
「せっかちなやつめ…」
 黒隰は苦笑しつつ受話器を置いた。



「約束が違うじゃないか」
『私のせいじゃない。その小僧に先を越されたからなんだって言うんだ。安心しろ。ちゃんと金は払うさ』
 薮雨は首相官邸へ電話した時、これ以上ないというくらい憮然とした声を出していた。今は、仮面をつけてはいない。
「お金が問題じゃないんだけどなぁ…まあいいや。新しいおもちゃを見つけたよ」
『おもちゃ?』
「そ、おもちゃ。まあまあ楽しめそうだよ…っと、電話だ。二番…って事は彼かな?じゃあお金は一週間以内にここに持って来て。じゃ」
 薮雨はそれだけ言うとすぐに切った。そして電話に付いているスイッチを切り替えて再び出た。
「もしもし?」
『…鍵を返せ』
「えーどうしよっかなー」
『ふざけやがって…あれは俺の物だ。第一、てめぇが持っててもどうにもならない代物だ。分かったら返しやがれ!』
「でも君も僕の物取ったしなぁ…まあいいや。代わりに君で遊ぶから」
『この…』
「仲間は何人でも連れて来て構わないから一週間後のこの時間に○○埠頭においでよ。こないならこっちから会いに行くだけだからいいけど、生きたまま内蔵取り出すぐらいじゃすまないから覚悟しといて。じゃ」
 嬉しそうな声で一気に言って受話器を置いた。
「くっ…くくく…あははは…!」
 人知れず、笑いが漏れる。彼は楽しんでいた。今も楽しんでいるのだ。そして、一週間後を心待ちにしている。
「さぁって…準備準備っと」
 薮雨は彼の家の地下にある武器庫へと消えていった。



「切られたらしいな」
「ああ。仲間は何人でも連れて来いとかぬかしやがった」
「ほう!見抜いてたか。それとも単に自信か…」
「なんにしても…もう後戻りは無理ね」
 魔山、黒隰、烏龍の三人は昨日魔山と黒隰が会った場所で落ち合い、今後の相談をしていた。そうしている内に、とりあえずあの仮面男に電話しようという話になり、今に至る。
「時間と場所を指定されたらもう考えることなんてないんじゃない?」
「三人で普通にかかって勝てると思ってるのか?」
「まさか。あなたたち二人は真っ向から向かって、私は影から奇襲する。それでいいでしょう?」
「待て…女がいった方が油断するんじゃないのか?」
「いや、あいつは油断も手加減もしやしない。あいつにとって俺達は男でも女でもない。人間だ」
 魔山は直接対峙したその瞬間からそれを悟っていた。狂気の仮面。それは、本物の化け物だ。
「なるほどな…じゃあこうしよう。俺達二人で挟み撃ちにして、烏龍は頃合いを見て奇襲。隠れる必要があるだろうから早めに行った方がいいだろうな」
「そうね。それにしても…あの首狩りのゼロがそうまで恐れる狂気の仮面って、一体どんなやつかしらね」
「………できることなら、遭わない方がいい。あいつは…あれは人間なんかじゃない。俺は遭っちまった。もう逃げられない。降りるなら…今しかねぇ」
「はっ!俺が降りる?冗談じゃねぇ。あいつは俺の手で息を止めてやる。それからな、一つお前に言っておく事がある」
「?」
 黒隰は魔山の肩に手をかけながら続ける。
「三人であいつを片付けたら、俺達でチームを組まねぇか?」
「あいにくだが…」
「別に今決める必要はない。じっくり考えてくれ」
 意味ありげな笑みを残して、黒隰は去っていった。
「じゃああたしも行くわ。武器とか用意しなきゃいけないし…じゃあね」
 烏龍もまた、黒隰が歩いて行った方向とは逆の方向に消えた。魔山は、腰に下げた刀の鞘に軽く触れ、歩きだした。



 時間になるだいぶ前、薮雨はすでに○○埠頭に着いて身を隠していた。ここはいつも人気が少ない。闇取引が数多く行われ警察ですら近づくのをためらう。そこに、一人の女が現れた。烏龍だ。黒のチャイナドレスに身を包み、適当な場所でライフルを組み立て始めた。薮雨に見つかっているとも知らずに。
「こんなところで何してるの?」
「っ!」
 振り返る間もなく首を捕まれて宙に吊るされた。
「もしかして…助っ人?」
 薮雨は腕に力を込める。痛みのあまり烏龍は声を発する事すらできない。
「ねぇ答えなよ」
「くっ!あああ!」
 首はみしみしと不吉な音を立て始めた。
「もういいや。じゃあね」
 ごぐり!と大きな音を立てて、彼女の首がへし折れた。
「ふふふ…いい音」
 薮雨が妖しげにつぶやいたその時、
「おい仮面ヤロー!姿を現しやがれ!」
「あっ!主賓の到着だ!」
 彼は嬉々として仮面をつけ、烏龍の亡きがらを投げ捨てた。
「やあ。君の事少しだけ調べたよ。君、首狩りのゼロとか呼ばれてるんだって?」
「そんな事はどうでもいい。さっさと鍵を渡せ!」
「そうだね。ほら、取りな」
 薮雨は鍵を地面に放る。鍵が地面とぶつかって小気味よい音を立てた。魔山はそれを無言で拾いに行く。その動作には明らかに恐怖の色が見て取れた。まさに鍵に手が触れんとしたその時、薮雨が素早く懐から三本のナイフを取り出すと二本を魔山に向けて投げ、振り返ってもう一本、コンテナの間に投げた。
「なっ!」
 コンテナの影に隠れていた黒隰が慌てて逃げる。ナイフはコンテナに深く突き刺さった。一方魔山は鍵をつかもうとした手を引っ込めて左側へと避けた。
「甘いよ」
 薮雨が言うと同時に二本のナイフはそれぞれ九十度方向を変え、その内の一本が左へと逃げた魔山の左肩に刺さった。
「くぁ!」
「ギミックナイフ《L,R ninety shift》。右か左に九十度方向を変えるナイフ。どう?なかなか予想外だったろう?それと…」
 彼は振り返り今正にコンテナに刺さったナイフの前に立って銃を構えている黒隰の方を向いて言った。
「そこ、危ないよ」
「死ね!」
 黒隰が銃の引き金を引くのと後ろのナイフの柄が結構な規模で爆発するのはほぼ同時だった。
ずどん!
 派手な音と爆風に黒隰の体が宙に舞い上がり薮雨の足元へと転がる。
「ギミックナイフ《time bomber》。火薬は多めにしておいたよ。大サービスだ」



 圧倒的だった。魔山は無様に転がっている事しかできなかった。勝てない。無表情な仮面の下の笑顔には、どうしても敵わないのだ。人間などではない。そんなものはとうに超越している。
「とりあえず…」
 どこからか大振りのナイフを取り出すと薮雨はそれを黒隰の背に突き立てた。背骨の折れる嫌な音が鈍く響いた。叫び声をあげる黒隰を見下ろして薮雨は笑った。
「はははっ!これで君は動けない。ついでに手首も切断しよう。心配しなくていい…いずれは失血死するさ」
 背中からナイフを抜いて手首目がけて振り下ろすと手の平は簡単に切断された。それを見た瞬間、魔山は弾かれたように立ち上がり一歩下がって日本刀を構えた。
「あ、やっと立った。もう立てないかと心配になっちゃった。でもよかった。もう少し楽しませてくれるんだろう?」
 一歩、薮雨が踏み出す。魔山は目に涙を浮かべながら一歩下がった。また一歩、もう一歩とだんだん後ろに下がっていく。
「あ…う…」
「もう逃げられないよ…?」
 一歩後ろは海。前には狂気。彼が選んだ道は…海だった。
「ああああああ!」
 魔山は日本刀を薮雨に向かって投げ、彼自身は海へと飛び込んだ。薮雨は日本刀をやすやすと避けると海をのぞき込んだ。そこには、波が渦巻いているのみだった。



 その後、魔山がどうなったか知る者はいない。助かったのか、死んだのか。消息は誰にもわからない。だが、未だ東京の中心で大規模な爆発事故が起きたという話は聞かない。黒隰、烏龍の両人の死体は翌日発見された。薮雨が自害するまで犯人はわからないままだった。
 一方薮雨はといえば、彼が姿を死んでから数年が経った今でも闇の世界では知らない者はいないという。しかし、彼に狙われたその上で、彼に殺されなかった者は首狩りのゼロと呼ばれた少年、ただ一人だけという事実を知るものはほとんどいない。。
 なんにせよ、薮雨が魔山から鍵を奪った事により、多くの命が救われたという事は否定できない。その点に関しては感謝するべきであろう。しかし、今となってはみな、過去の話。

 かつて、殺しを何よりの楽しみとした殺し屋がいた。ただそれだけなのだ。

       

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Neetsha