ナルヴィア大河の南岸に追いつめられたレンヌ市民に、救いの手が差し伸べられた。東コースニャで反乱を起こしていた剣闘士たちが大河の土手を遡って駆けつけたのである。
ウォルトが直卒する三十人ばかりの小隊が巡視隊の包囲を背後から食い破って、もみ合う甲皇国兵とレンヌ市民の間に割り込んだ。フォーゲンが民衆を川下のほうへ避難させる。レビがしんがりになり追いすがってくる巡視隊を斬り払うと、その余波は川の水を割るほどだった。
南の三日月湖周辺から巡視隊を指揮するアンネは黒騎士マンジを問いただす。
「これはどういうことですか! あなたの案内した先に、なぜレンヌ市民やら剣闘士がいるの?」
「さあ? たまたま偶然ですよ」
ため息ひとつ、とぼけてみせるマンジをアンネが問いつめる。
「あなたの人外部隊とやらはどこに居るんです? あなたは自分の手を汚さずに、巡視隊とレンヌ市民をつぶし合わせる魂胆なのでは?」
「しかたありませんね」
そう言ってマンジが手を上げると、それを合図に民衆の中に潜伏していた人外部隊隊員たちが正体を現した。
クマの亜人のローが赤く染まった大河に手をひたすと、血が集まって斧の刃が形成される。木の亜人ブッコロリは自分の体から生えた枝を手折って、柄を作り斧を組み立てていった。丸腰だった人外部隊は作り出した斧を手に手に武装する。
無防備なレンヌ市民を人外部隊は雑草でも刈るようにたやすく虐殺していった。
自分たちの集団の中から現れた暴徒に市民たちは混乱し、恐怖と猜疑心が伝播していく。 お互いが信用できなくなり距離を置き、せっかく避難させた集団が散り散りになってしまった。
その隙に人外部隊は百名ほどの規模に膨れ上がって、川下の土手を制圧。これ以上の西からの敵援軍を断ち、レンヌ市民の退路を再び塞いだ。
剣闘士たちもやられっぱなしではない。ウォルトが混乱を鎮めるべく、レンヌ市民の代表者の捜索をショーコにまかせていた。
「ごめんよ、ごめんよー。荒っぽくて悪いが状況が状況なんでね」
逃げまどう市民をかき分けかき分け、ショーコが市民の代表者マルクスの手を強引に引っ張る。ウォルト、フォーゲン、レビの前に筋肉質な年寄りが連れてこられた。
「ほう。用があるのはそちらの大胆なご婦人ではなくて、君たち三人のほうか」
マルクスに言われてから、老人とは言えずっと男の手を引いていたことを思い出してショーコは照れながら頭をかいた。
「現状は逼迫しています。申し訳ないが挨拶は抜きで単刀直入に言いましょう。すでに西の土手が人外部隊の手に落ち、北は大河にふたをされ、南からは巡視隊が半包囲しつつあります。このままこの地に留まれば俺達は全滅だ。あなたから号令してレンヌ市民をこの地から脱出させてもらいたい」
ウォルトは懇願して、アルフヘイム式に片膝をついておじぎする。マルクスは首肯する代わりにウォルトの手を取って立ち上がらせた。
「分かった。君の言う通りにしよう。して、いったいどこに脱出させると言うのだね。君は西、北、南を包囲されていると言ったじゃないか」
「知れたこと! 東の禁呪汚染地帯です」
「君は見たところ甲皇国出身のようだが……」
ウォルトは自分が甲皇国の出だから地理を知らないとマルクスに誤解されたのかと思ったが、話の続きは予想に反した。
「……甲皇国の出身ならば身をもって知っているはずではないか。禁断魔法の恐ろしさは。汚染地帯にはその残滓があり、何が起こるか分からない」
ウォルトは首を振る。フラッシュバックする禁断魔法の記憶は振り払えない。
ウォルトの祖国ダウ統一甲皇国は敵国アルフヘイムの首都セントヴェリアの目と鼻の先で禁断魔法を浴び、甚大な被害を受けて停戦した。
禁断魔法、あるいは禁呪という。その名が示す通り絶対に使ってはならない禁忌に属する魔法だった。土地を生贄にして黒い瘴気を発生させる大量破壊魔法である。あとには精霊の加護の失われた腐れた土地が残るだけとなり、使用する側にも大きなデメリットがあった。冷静な判断力を欠いていたアルフヘイム首脳部が、敵に土地を奪われるくらいならばと感情にまかせて暴発させたとしか思えない。それとも焦土戦術のつもりだったのだろうか。
黒い霧に触れたところからじわじわと腐り落ちて、白骨をさらす戦友たちをウォルトは何人も見送った。髑髏が積み重なる峡谷を抜け、満身創痍でアリューザ港まで逃げてきたのである。あんな地獄にはもう戻りたくない。
「だからこそ敵も容易には追ってこれない。これは賭けです。全員で助かるか、全滅か」
マルクスは思った。甲皇国人でありながら、この男はレンヌ市民と生死を共にしようとしている。お人よしも極めれば英雄になるのだと。
「面白い。乗った!」
即諾してマルクスは混乱する群衆の中に分け入った。そして東を指さし、一言「続け」と言うなり一直線に走り出す。おいて行かれまいと、市民たちは無心になって付き従った。
烏合の衆に規律が生まれ、渡り鳥の群れのように整然粛々と東へ大移動が始まる。
禁呪汚染地帯に近づくにつれて、木々がまばらになって視界が開けた。灌木、茂みすらなくなり、下草の丈も短くなる。市民たちを遮るものは何もなかったが、目指す先には文字通り暗雲が立ちこめていた。
しかし立ち止まるわけにはいかない。
敗走する市民たちを追って、巡視隊が迫っていた。市民たちは鉄のカーテンに押し付けられる格好になる。
鉄のカーテンとはナンカスゴイケッカイだ。禁呪汚染地帯をぐるっと囲って隔離している。内から外へ汚染が広がることを防ぐための結界は、外から内へ市民たちが逃げ込むのを阻んだ。
目の前に見えない壁があり、空中には大きな魔法陣が万華鏡のように絶えず模様を変えている。
剣闘士の中ではちょっとは魔法を知っているシメオンが出しゃばって結界を解こうとするが、すぐに音を上げた。
「チクショー、ダメだー! 見たこともない古い文字が使われてやがる!! この魔法陣の模様みたいのは絶対文字のはずだ! これがちょっとでも読めれば結界を少しほころばせることができるのに」
体中傷だらけの汗臭い男にしては頑張った方だ。無理やりでも結界を解こうとするシメオンに触発されて、近くで見ているだけだったジテンも魔法陣の模様を読む。
「原始に神、明暗を創りたまえり。明暗の間に空虚な暗黒淵の面あり。神の霊水、面を覆いたりき。神、生命あれと言いたまいければ魔獣ありき」
シメオンと同じ最初に仲間になった八人のうちのひとりのトマが疑う。
「おいおい。子供が読めるわけないだろ。適当にしゃべってるんじゃないのか?」
ところが魔法陣には明らかな変化が起きた。模様の一部が消えている。
トマは持っている槍で試しに結界をつついてみると、穂先が結界の中を通った。槍がすっぽりと結界の向こう側に入ったので、恐る恐る手も突っ込んでいく。そのままトマの体は結界をすり抜けた。
トマが安全に結界を通過したのを見ていた市民たちが一斉に殺到する。しかし結界がほころんでいるのはトマが通った場所だけだったので、多くの市民が立ち往生することになった。
市民たちを戦場から脱出させまいと愛龍グリンガレッドにまたがり、マンジが人外部隊を率いて肉迫する。上空を悠々と旋回して一部始終を観戦していたマンジは、ジテンを最も危険な敵と認識した。ジテンが結界にこれ以上細工をすれば市民を取り逃がす怖れがあるからである。
マンジはわざわざ飛龍で派手に降り立って、ヒャッカをジテンから見えるように自分の前に座らせ見せびらかして煽った。
「お前の愛しい人はここにいる! このままじゃ甲皇国に連れ去られて知らぬ男に寝取られるぞ。それでも逃げるのか!」
「ヒャッカーーーーーーーーー!」
ジテンは大声で呼びかけながら、ヒャッカを助けようとマンジに駆け寄る。周りの見えなくなっているジテンを留まらせようと、ヒャッカは拒んだ。
「来てはだめ! マンジは恐ろしい人だから!」
それでも止まらないジテンを計画通り殺そうと、人外部隊が手ぐすね引いて待ち構えている。
ジテンを止めることができたのは都合よく起こった地割れだけだった。地割れを起こした張本人が、ジテンを抱え上げる。
「離せよ! ヒャッカを助けなきゃ!」
ごねるジテンを諭しながら、レビが戦場から連れ出した。
「今出て行って何になる。殺されるだけだ。そうしたらいったい誰があの子を救うってんだ」
レビが起こした地割れは空堀の役割をはたし、人外部隊が攻めあぐねている間に市民も剣闘士たちも結界を越えて禁呪汚染地帯に逃げ込んでしまった。