Neetel Inside 文芸新都
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【自作曲】分裂
冬海

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文学に於て、最も大事なものは、「心づくし」というものである。「心づくし」といっても君たちにはわからないかも知れぬ。しかし、「親切」といってしまえば、身もふたも無い。心趣。心意気。心遣い。そう言っても、まだぴったりしない。つまり、「心づくし」なのである。作者のその「心づくし」が読者に通じたとき、文学の永遠性とか、或いは文学のありがたさとか、うれしさとか、そういったようなものが始めて成立するのであると思う。

太宰治を読んでいます。というか、読み直しています。苦悩の年鑑、如是我聞。
晩期の作品です。その、肥大した自意識は、既に、中身が人間の様には感じられません。これは、死期を悟った人間の、命乞いの、断末魔です。
人は死に際、狂います。まず脳が恐怖で縮み、壊れ、現実感が失せ、発狂して、そうして、獣の様な絶叫で死にます。不思議にも、人間の本体の様にも、感じられます。所謂「生活難」とか「アガペー」とか「自己肯定」などの苦悩は、生きている人間の範疇に留まってある、「正気であるが故の」悩みであって、いざ、人間は命を絶つとなると、その様な「正気の悩み」は消え失せ、まさしく元来の畜生を勃発して、本当は、獣であることを体現し、絶叫して、死んでいくのです。
それは、矛盾しますし、冷徹なことですが、生命の永遠の課題である「死」からは逃れられず、まさしく、生きていたのだな、という事の証明にもなる様な、あまりに酷な課せられた、逃げられない、結末から、発露する、「生きている」実感にも繋がるのです。死人にしか、生きることは理解できないと思います。
だって、霊体は、居場所が要らないんですもの。奪わなくて済む。腕力を振るわなくて、済む。とても、優しい。俯瞰的に生命の過酷を眺められるのは、黄泉にしか、いないと思います。

私は、生活難というのが、理解できません。これは私がまさしく苦労を知らず、人の難を思わず、人を舐めている、という、肥大化したナルシストな自意識から生まれた、「軽視」に過ぎず、それを思えば、生きている事すら、もう、あまりに大それたことであって、早く死ね、早く死なねば、死にたくない、死んでしまう、助けて、死にたくないのに、死んでしまう、という、六畳一間の壁の大穴ばかりが増えていく、半狂乱の沙汰として、思考が爆発してしまうのです。私は、立場、というのが、理解できません。
よく、ネット配信で、音楽を詳しく知る方に教えてもらうのですが、あまりに、見え透いた見栄を張り、よくよく軽口を叩けるものだな、と、軽蔑してしまいます。「俺は、ジョン・レノンのマザーという曲を聞いた時、鳥肌が立ったんだ」聞いていない。「しかし、ジェフ・ベックが死んでしまうとはね。俺は、若い頃よく聴いていたんだけど・・・」誰も、聞いていない。

見栄なのです。凡そ、知識として、蓄えている自身の知識をひけらかし、(音楽通としての立場)を得る為だけの、音楽なのです。きっと、聴いていないのです。それにも、気づいていないのかも、知れません。ただ、聴いている自分に自惚れているだけなのです。きっと、アルペジオも、スリーフィンガーも、バレーコードすらも、抑えられない、知らないのです。

私は小心者です。これは、前述したことと繋がりますが、私は、生活難というのが、理解できないのです。こういう見栄こそが、己が生きていく為の社交術、処世術であって、本人の心境では、凄まじく葛藤があり、知識を蓄える努力があり、寒苦に見えた、「立場を得る」為の、必死の努力かも知れないのです。拍手をします。
「よく知ってるね、凄い」
その人は、得意げにします。心中は、「何を気取ってんだ」、罵詈雑言の中を風で肩切り、闊歩します。恥を知れ。いや、私が理解していない。どっちなんだ。軽視。人の痛みを理解できず、共感できない。まさしく、愚鈍という言葉がパックリ当て嵌まる人間なのです、僕は。厚顔無恥。「過大な自己卑下は、自己賞賛と、一緒だ。恥を知れ!」ただ、床に頭をつけんばかり、平伏します。やはり、生きること畏れ多く、それこそ、死んでしまう、いや、死なないと、死にたくない!と走馬灯が流れる中で、自分が生き得る根拠をひたすら、思い出の中から見つける作業に、壁に穴を開けながら、獣の様に考えるのです。

花を眺めます。
「花言葉を知ってる?」
「いや、知らない」
嘲笑されます。花は、返事をしないから、いいんじゃないか。
どんな不健全な物思いでも、しみったれた道徳でも、それを問い詰め、責め立てないから、返事がないから、花はいいんだろうが。俺の物思いくらい、勝手にさせやがれ。
ソイツは、得意気に、花言葉を、花の歴史を、花のルーツを、解説し始めます。神を恐れよ。絶交だ。

それこそ、自分に理解できるのは、「いずれ死ぬ」という事だけなのです。これだけは、絶対です。私は、死にます。何分後か、何時間後か、何年後か、何十年後か、それは分からないけれど、私は死ぬのです。人間なんて、それしか分からないのです。何も知らないし、何も理解できないし、何も得られないけれど、それだけは絶対で、必然なのです。それだけを思えば、僕は、良いと思っています。酷く狼狽しています。絵を描きます。「歯キャラメルは障害者だから、反復行動が好きなんだね。ガイジは羨ましいね」そんな罵声が、何処ぞで言われています。

 人間は、みな、同じものだ。
 これは、いったい、思想でしょうか。僕はこの不思議な言葉を発明したひとは、宗教家でも哲学者でも芸術家でも無いように思います。民衆の酒場からわいて出た言葉です。蛆がわくように、いつのまにやら、誰が言い出したともなく、もくもく湧いて出て、全世界を覆
い、世界を気まずいものにしました。
 この不思議な言葉は、民主々義とも、またマルキシズムとも、全然無関係のものなのです。それは、かならず、酒場に於いて醜男が美男子に向って投げつけた言葉です。ただの、イライラです。嫉妬
です。思想でも何でも、ありゃしないんです。
 けれども、その酒場のやきもちの怒声が、へんに思想めいた顔つきをして民衆のあいだを練り歩き、民主々義ともマルキシズムとも全然、無関係の言葉の筈なのに、いつのまにやら、その政治思想や経済思想にからみつき、奇妙に下劣なあんばいにしてしまったのです。メフィストだって、こんな無茶な放言を、思想とすりかえるなんて芸当は、さすがに良心に恥じて、躊躇したかも知れません。

 なんという卑屈な言葉であろう。人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。マルキシズムは、働く者の優位を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。民主々義は、個人の尊厳を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。ただ、牛太郎だけがそれを言う。「へへ、いくら気取ったって、同じ人間じゃねえか」
 なぜ、同じだと言うのか。優れている、と言えないのか。奴隷根性の復讐。

死相が出る。これは素晴らしいことです。この感覚は、死相が出ている人間にしか、分からんのです。魔が差している、これは、馬鹿な私が体感できる、本当の、唯一本当の、ことなのです。

作者のその「心づくし」が読者に通じたとき、文学の永遠性とか、或いは文学のありがたさとか、うれしさとか、そういったようなものが始めて成立するのであると思う。

私が直視する、この予感というか、体感というか、(医者は体感幻覚と呼び、薬を増やしてきます。てめぇが、飲め。何年間も寝たきりを、味わってから、もう一度人に勧めるか、考えてこい。)この感覚こそが、衝動であり、深堀りするべきであり、その、「心づくし」なのではないか、と早合点し、舞い上がり、そうして、恥じています。生死の沙汰の獣の絶叫にしか、本体は、確信的なことは、ない様にも思えます。死期を感じるというのは、二度三度ではありませんし、この体感自体も、もはや慣れ親しみ、日常生活に溶け込んでいる訳ですが、その生死の沙汰の、頭に流れる、生き得る根拠を得る為の、走馬灯にしか、「必死」はない様に、思っているのです。たくさん、風邪薬を飲んでいます。気持ち良く、なれるんです。今、最近、心臓の脈は乱れ、非常に予感がします。生きながら得る根拠を、獣の様に探す。心尽し。冬の海は良いですね。夏はあんなに持て囃されていたのに、誰も、もう関心がありません。冬の海なんて、誰も興味がないのです。ファッションで海を愛するな。
人間なんて、それ、「終わること」しか分からないのです。何も知らないし、何も理解できないし、何も得られないけれど、それだけは絶対で、必然なのです。それだけを思えば、僕は、良いと思っています。それだけで、良いのです。他は、全部偽です。

生きている人間の全ての言葉は、生き延びる為の嘘。

       

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