【小説】
「私には何もないんです」
患者がそう告げた。一人、面倒臭そうに頬杖をつく医師がいた。
「先生には学生時代の真面目な努力があり、家も資産家で、医者として就職できる才能がありました。でも、私には何もありません」
患者は俯いて話す。
「私は生まれてずっと知能障害で物書きもできません。親の顔も知りません。養護施設で、流れ作業の様な環境で育ちました。本も読めません。薬の副作用で、文字を読むこともできなくなりました。私の病名、鬱病でしたか。これは自然になったものではありませんか?」
「はい。続けて」
医師がメモを取りながら、患者の話を聞く、素振り、をする。
「私には何の才能もないんです。まともに生きていく、地盤がないんです。はっきり言うと、私と先生は対等ではないんです。こんなカウンセリングなんて、無意味だと思います」
医者は呆れる様に、笑った。
「いやいや、無意味ならやってないから。先生ね、これペン書いてるでしょ? 見えるよね。目は。目は見えるんでしょ?」
医者は患者と視線を合わせるのも面倒臭そうに、カルテになにか、病状を書いている。
「病気ですから。そうやって後ろ向きになるのもね、薬を飲んでたら治るんですから。あんまりね、自虐的にならんように」
「先生、私とあなたは対等ですか?」
患者は、線の細い腕から伸びた手を、握り拳にして、俯いて、細々と話す。
「先生が私と同じ境遇だったら。鬱病。いいえ、こんなネガティブになっていたと思います。理不尽です。私は悪くありません」
「生まれたことを、恨むことすら、人には不道徳だと言われます。生まれついて差があって、それで、出来不出来が明らかに別れるのに、そこで生まれた私の考えは、『病気』扱いされて、病人扱いされて、世間から邪険にされるんですから」
医者はペンを進める。
「私はもう、誰に何を言えばいいのかも、わからないんです。『不道徳』で片付けられるんですから。『陰気臭い、世の中を舐めてる』なんて優れた人間に言われて、そんな、弱った犬に石を投げるみたいに」
「ああ、はいはい。可哀想だったね」
医者はことさら不機嫌そうに、退屈そうに、欠伸を堪えながら、ペンを続ける。
「まあでも、過去は過ぎたもんですからね。今から、前向きに生きればよろしい」
「私は病人ではありません」
患者は意を決したかの様に、顔を上げる。その目は哀れみを乞うでもなく、敵意を向ける訳でもなく、ただ、病的に鋭い目つきをしていた。
「私みたいな考えの人は許されないんですか? 私が歪んでいるんですか? 私の考えは、『不道徳』だと、ただ、道徳に蹴られる様に、惨めに世間の端で生きるだけなんですか。
「正気じゃない人間の、思考なんですか。私だけでなく、皆が心の奥で、その理不尽を感じ取ってるのではないのですか。『道徳に反く』、と言うだけで多くの人間が、無理やり、口を閉ざされているんではないんですか。本当の苦悩を訴えられなくなっているんじゃないですか?」
「時間だから次、またカウンセリングしましょうね。さ、お帰りください」
医者は耐えかねたか、患者に帰れ、と告げた。患者は意外にも、素直に立ち上がり、「ありがとうございました」と会釈すると、その院室を去った。
寄ってきた看護師がいう。
「あの子、躁転してますね」
「喧しかったね。鎮静する奴出しといて」
医者は薬の指示をさっ、と出すと、カルテをしまう。勝利の余韻に浸る様に。
薬を出して買う側。
薬を売って、儲ける側。
「・・・負け犬じゃん」
医者は吹き出した。
未来のない日常に、負け犬は帰る。