SIGURE The 2nd Opera
妖年の章
朝日の様に光が燃える。
春は恋人の様に麗しく、花は咲き乱れる。
暖かな大気が心に染み渡り、果てしない春に抱かれる。
やがて、微笑む草木に見送られながら、美しい春に包まれて天に昇る。
愛の歓喜が無限に広がり、無限の暖かさが、聖なる感情となって胸から湧き出てくる。
連れ合いを求める鶯の鳴き声が、霧深い谷間から響いてくる。
上空に漂う雲は、下方へ向かい、美しき少年は天に昇る。
青くて丸いこの惑星を離れ、遥か遠くに、愛する父の力強い両腕が待っている。
春は恋人の様に麗しく、花は咲き乱れる。
暖かな大気が心に染み渡り、果てしない春に抱かれる。
やがて、微笑む草木に見送られながら、美しい春に包まれて天に昇る。
愛の歓喜が無限に広がり、無限の暖かさが、聖なる感情となって胸から湧き出てくる。
連れ合いを求める鶯の鳴き声が、霧深い谷間から響いてくる。
上空に漂う雲は、下方へ向かい、美しき少年は天に昇る。
青くて丸いこの惑星を離れ、遥か遠くに、愛する父の力強い両腕が待っている。
幌舞は季節の変化を感じない土地だった。
春夏秋冬、まるで其処だけ雪雲に覆われているかの様に薄暗く、冷気は常に渦を巻いていた。真夜中になると、寒さは更に厳しいものとなり、通りを歩く者はいずれも冷えを堪えながら白い息を吐いている。
だが、そのまま凍えて死ぬ者はいない。
全ての住人が衣食住を保証され、家に帰れば暖房の効いた部屋に、温かい食事、そして家族がいる。誰もが幌舞を地上の楽園と呼び、この地を目指してやって来る移民は数が知れない。
また、幌舞は決して入植者を引き渡さない。それ故に、時折途方もない犯罪者が訪れ、騒ぎを起こす事がある。しかし、幌舞にも警察や軍隊に似た組織が存在する。有事があれば瞬く間に鎮圧と粛清が行われ、都市内は常に高水準の治安が保たれている。
ところが、その楽園を穢す人々が存在する。
彼らは自らを神威と名乗り、幌舞の自治政府たるツユキ家に反抗を示している。
愚かな者達だと思った。
一体、何が不満でテロまがいの騒ぎを起こすのか理解出来なかった。
つい先日も輸送車が襲撃され、多数の武器弾薬を奪われた。
彼らは自治政府の管理する施設を襲い、度々都市網を麻痺させている。
幌舞の鎮圧部隊が取り締まりに漕ぎ出すも、網の様に張り巡らされた地下水道から通じるアジトの場所を特定する事は困難を極めた。
だが、一筋の光明が差し込んだ。
ある時、神威の襲撃によって殺害された者の妹を名乗る少女から、アジトの場所について通報があった。ツユキ家の上層部は罠であるとして取り合わなかったが、現場で動く人間として藁にも縋りたい状況であった上に、成功すれば自らの昇進が約束される。
待ち合わせの場所として少女に指定されたのは、幌舞の南東端に存在する地下水道の一角だった。過去に何度か調査に赴いているが、有益な情報は得られていない。
だが、真実であれば大きなチャンスだった。
指定された時間の三十分前に出発し、路面電車に揺られながら往来する人々を見た。
市民は何れも幸福を享受している。
子供と手を繋ぎ、笑みを浮かべて道を歩いてゆく女性の姿を見ると、和やかな気持ちになると同時に、神威に対する怒りが沸々と湧きあがってくる。
口上では自由、真実と正当性を謳っているが、その実、市民を苦しめているテロリストに過ぎない。幌舞にとって唯一の、打ち倒さねばならない悪だった。
だが、彼らは一般人と同じ格好をしている為に、特定が難しい。怪しげな人物を捕えて尋問するも、その殆どは全くの無関係であったり、口を割る前に尋問中に死亡する場合が多い。
車内の乗客や、窓に映る市民の群れに、紛れ込んでいても不思議ではない、捉えどころのない厄介な存在なのだ。
やがて路面電車は停止し、指定場所に最も近い停留所に降りた。
此処から徒歩で行くが、アジトに繋がるらしい地下水路の入り口はすぐ傍だった。
幌舞の中にはマンホールが幾つも存在し、複雑に入組んだ地下への入り口となっている。そして、降車した場所から東に向けて目を凝らすと、これ見よがしに半開きとなっているマンホールと、通報者と思わしき少女が見えた。
念の為、胸ポケットから拳銃を何時でも取り出せる事を確認すると、少女の元へ向かった。
「三日前、電話をくれたのは君かい?」
「ええ、私です。おじ様は、お一人ですか?」
「そうだ。彼らは薄情で、君の電話を怪しんで誰も付いて来なかったんだ。でも、安心して欲しい。私は君を信じるよ。」
「ありがとうございます。死んだ兄も浮かばれます。」
目の前の少女を見て、その美しさに思わず息を飲んだ。整った目鼻立ち、ベージュの髪を後ろで結び、フード付きの純白のコートを纏っている。だが、可憐さの中に、男を引き付ける魔性さにも似た雰囲気を感じた。
この少女は、危ない。
我に返ったとき、諜報員としての勘が自分に語り掛けた。
それでも、まるで操られる様に、マンホールの下方へ降りていく少女に身体が勝手に付いていく。
この少女に付いていっては、いけない。
脳の至るところから発する警告音が聞こえる。だが、彼女の白いうなじを見てからというもの、まるで全身のシナプスが麻痺したかの様に言う事を聞かなかった。
やがて水路の床に足が着いたとき、薄暗い空間に白く反射する少女の肌が映った。
「この先、十分ほど歩いた場所にアジトがあります。」
「君の名前は、サクマ・リナと言ったね?」
「電話でお伝えした通りです。其れが、何か?」
「最近、神威を調査していた仲間が、何人も失踪している。それも、水路の中で。」
「おじ様は、私をお疑いで?」
「個人的に調査をした。すると、失踪した者は何れも同じ女性と付き合っていた。それも、君と同じくらいの年齢の女性と。」
「それが私であると、そう仰りたいんですか?」
「そういう訳ではないが。」
はっきりそうだ、とは何故か言えなかった。
失踪した仲間もまた、同じ手口で罠に掛かったのかもしれない。
そのとき、自分の手は無意識に胸ポケットに伸びていた。
警告音で一杯になった脳内が、手を動かそうと神経を介して懸命に電気信号を送っている。
やがて、震える手で拳銃のグリップパネルを掴むと、懐から抜き放った。
「神威の一味、ニイミ・ユウ。反逆罪で逮捕する。」
銃口を向けた先で、少女の眼が光った。
次の瞬間、自分がトリガーを引く前に、重い金属的な衝撃音が二度、水路内に響き渡った。間髪入れず、胸に焼ける様な痛みが走り、弾き飛ばされる様に身体が仰向けに落ちていった。そして目の前には、自分の胸から飛び散った血の飛沫と、その向こうに銃口を向けている少女の姿があった。
「そのまま付いて来れば、今より楽に死ねたのに。」
煙が立ったままの銃口を向けながら、少女は倒れている自分に跨った。
「俺の正体が分かった事は、褒めてあげますよ。おじ様。」
「なぜお前達は、市民を苦しめる事をする。」
「幌舞の人達が、本当に幸せだと思っているんですか? もしそうなら、お笑い種ですよ。」
「神威は異常者の群れだ。お前の様な子供にまで、女の身形をさせて銃を持たせている。いい加減、目を覚ませ。」
「ツユキ家の所為で、大切な存在を失った者は大勢いるんですよ。その人々の為に、俺達は武器をとった。真の自由を、得る為に。」
どん、と勢い良く鉄の杭を壁に打ち込む様な激しい音が、コンクリート製の壁に反射し、拡散され、水路の中に響いていった。
春夏秋冬、まるで其処だけ雪雲に覆われているかの様に薄暗く、冷気は常に渦を巻いていた。真夜中になると、寒さは更に厳しいものとなり、通りを歩く者はいずれも冷えを堪えながら白い息を吐いている。
だが、そのまま凍えて死ぬ者はいない。
全ての住人が衣食住を保証され、家に帰れば暖房の効いた部屋に、温かい食事、そして家族がいる。誰もが幌舞を地上の楽園と呼び、この地を目指してやって来る移民は数が知れない。
また、幌舞は決して入植者を引き渡さない。それ故に、時折途方もない犯罪者が訪れ、騒ぎを起こす事がある。しかし、幌舞にも警察や軍隊に似た組織が存在する。有事があれば瞬く間に鎮圧と粛清が行われ、都市内は常に高水準の治安が保たれている。
ところが、その楽園を穢す人々が存在する。
彼らは自らを神威と名乗り、幌舞の自治政府たるツユキ家に反抗を示している。
愚かな者達だと思った。
一体、何が不満でテロまがいの騒ぎを起こすのか理解出来なかった。
つい先日も輸送車が襲撃され、多数の武器弾薬を奪われた。
彼らは自治政府の管理する施設を襲い、度々都市網を麻痺させている。
幌舞の鎮圧部隊が取り締まりに漕ぎ出すも、網の様に張り巡らされた地下水道から通じるアジトの場所を特定する事は困難を極めた。
だが、一筋の光明が差し込んだ。
ある時、神威の襲撃によって殺害された者の妹を名乗る少女から、アジトの場所について通報があった。ツユキ家の上層部は罠であるとして取り合わなかったが、現場で動く人間として藁にも縋りたい状況であった上に、成功すれば自らの昇進が約束される。
待ち合わせの場所として少女に指定されたのは、幌舞の南東端に存在する地下水道の一角だった。過去に何度か調査に赴いているが、有益な情報は得られていない。
だが、真実であれば大きなチャンスだった。
指定された時間の三十分前に出発し、路面電車に揺られながら往来する人々を見た。
市民は何れも幸福を享受している。
子供と手を繋ぎ、笑みを浮かべて道を歩いてゆく女性の姿を見ると、和やかな気持ちになると同時に、神威に対する怒りが沸々と湧きあがってくる。
口上では自由、真実と正当性を謳っているが、その実、市民を苦しめているテロリストに過ぎない。幌舞にとって唯一の、打ち倒さねばならない悪だった。
だが、彼らは一般人と同じ格好をしている為に、特定が難しい。怪しげな人物を捕えて尋問するも、その殆どは全くの無関係であったり、口を割る前に尋問中に死亡する場合が多い。
車内の乗客や、窓に映る市民の群れに、紛れ込んでいても不思議ではない、捉えどころのない厄介な存在なのだ。
やがて路面電車は停止し、指定場所に最も近い停留所に降りた。
此処から徒歩で行くが、アジトに繋がるらしい地下水路の入り口はすぐ傍だった。
幌舞の中にはマンホールが幾つも存在し、複雑に入組んだ地下への入り口となっている。そして、降車した場所から東に向けて目を凝らすと、これ見よがしに半開きとなっているマンホールと、通報者と思わしき少女が見えた。
念の為、胸ポケットから拳銃を何時でも取り出せる事を確認すると、少女の元へ向かった。
「三日前、電話をくれたのは君かい?」
「ええ、私です。おじ様は、お一人ですか?」
「そうだ。彼らは薄情で、君の電話を怪しんで誰も付いて来なかったんだ。でも、安心して欲しい。私は君を信じるよ。」
「ありがとうございます。死んだ兄も浮かばれます。」
目の前の少女を見て、その美しさに思わず息を飲んだ。整った目鼻立ち、ベージュの髪を後ろで結び、フード付きの純白のコートを纏っている。だが、可憐さの中に、男を引き付ける魔性さにも似た雰囲気を感じた。
この少女は、危ない。
我に返ったとき、諜報員としての勘が自分に語り掛けた。
それでも、まるで操られる様に、マンホールの下方へ降りていく少女に身体が勝手に付いていく。
この少女に付いていっては、いけない。
脳の至るところから発する警告音が聞こえる。だが、彼女の白いうなじを見てからというもの、まるで全身のシナプスが麻痺したかの様に言う事を聞かなかった。
やがて水路の床に足が着いたとき、薄暗い空間に白く反射する少女の肌が映った。
「この先、十分ほど歩いた場所にアジトがあります。」
「君の名前は、サクマ・リナと言ったね?」
「電話でお伝えした通りです。其れが、何か?」
「最近、神威を調査していた仲間が、何人も失踪している。それも、水路の中で。」
「おじ様は、私をお疑いで?」
「個人的に調査をした。すると、失踪した者は何れも同じ女性と付き合っていた。それも、君と同じくらいの年齢の女性と。」
「それが私であると、そう仰りたいんですか?」
「そういう訳ではないが。」
はっきりそうだ、とは何故か言えなかった。
失踪した仲間もまた、同じ手口で罠に掛かったのかもしれない。
そのとき、自分の手は無意識に胸ポケットに伸びていた。
警告音で一杯になった脳内が、手を動かそうと神経を介して懸命に電気信号を送っている。
やがて、震える手で拳銃のグリップパネルを掴むと、懐から抜き放った。
「神威の一味、ニイミ・ユウ。反逆罪で逮捕する。」
銃口を向けた先で、少女の眼が光った。
次の瞬間、自分がトリガーを引く前に、重い金属的な衝撃音が二度、水路内に響き渡った。間髪入れず、胸に焼ける様な痛みが走り、弾き飛ばされる様に身体が仰向けに落ちていった。そして目の前には、自分の胸から飛び散った血の飛沫と、その向こうに銃口を向けている少女の姿があった。
「そのまま付いて来れば、今より楽に死ねたのに。」
煙が立ったままの銃口を向けながら、少女は倒れている自分に跨った。
「俺の正体が分かった事は、褒めてあげますよ。おじ様。」
「なぜお前達は、市民を苦しめる事をする。」
「幌舞の人達が、本当に幸せだと思っているんですか? もしそうなら、お笑い種ですよ。」
「神威は異常者の群れだ。お前の様な子供にまで、女の身形をさせて銃を持たせている。いい加減、目を覚ませ。」
「ツユキ家の所為で、大切な存在を失った者は大勢いるんですよ。その人々の為に、俺達は武器をとった。真の自由を、得る為に。」
どん、と勢い良く鉄の杭を壁に打ち込む様な激しい音が、コンクリート製の壁に反射し、拡散され、水路の中に響いていった。
薄暗い白熱灯に照らされたアジトの中で、ヒオキ・ミカは銃身内にガンオイルを吹き付けていた。
つい二日前、アジトの一つが潰された。
神威の得意とする諜報戦において、質と速度共にツユキ家に敗北した為だった。
武装兵を始めとした圧倒的な武力によって、ツユキ家は幌舞の市民を支配している。五年前、現在の当主であるツユキ・ハルトラが建設したシンボルタワー内には、幌舞の情報を伝えるモニターが設置されており、市民はツユキ家によって四六時中、監視されているという。
国境警備隊、親衛隊、そして強力な武力を保持している公安警察による掃討作戦によって、戦局は厳しいものとなっていた。
理想都市国家を謳ってはいるが、その実、幌舞自体がツユキ家の為に存在していると言っていい。
それでも、神威に加入する二年前までは、ツユキ家に対して何の不満も抱いていなかった。
中学生の頃、父の残した莫大な借金から逃れるべく、母と兄と共に幌舞に移住した。
不自由のない暮らしを約束され、自身も幌舞内の高校へ進学し、理想の人生を歩んでいた。しかし、ある日の朝、殺人の罪によって兄が逮捕された。
冤罪だった。心優しい兄が人を殺すはずがない。
すぐ帰ってくる、そう言い残して連行された兄は、その日の内に死亡した。
当局から心臓麻痺による死と伝えられたが、翌日に返された兄の遺体は全身が拷問によって異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていた。しかし、どこの病院もツユキ家を恐れて、兄の遺体の解剖を断った。
母は兄の遺体を抱きしめたまま心神を喪失し、後を追う様に一か月後に亡くなった。
そして、広い部屋に一人になった。
兄と母の死によって涙は枯れ尽くし、頭の中が真っ白になったまま、虚空に意識が向いた。
やがてある時、何かを求める様に外へ出た。
何を求め、何を欲しているのかは自分でも分からなかった。だが、足は自然と地下水路へ向かい、武器を取る事を決断した。
復讐、報復。それらの感情は、時間の経過と共に破壊への衝動と熾っていく。
引き金をひき、射出した弾丸が金属音を伴って空気を裂き、敵兵の骨肉を砕く瞬間に、心はまるで肉の爛れた獣の様な雄叫びを上げる。
ミカは苛ついた様子で、ロットを回しながら銃身内に入れ、銃身内の汚れをふき取り始めた。すぐに銃身内の汚れでウェスは真黒になり、鉄の匂いが鼻を突いた。
「不機嫌そうですね、ミカ姐さん。」
汚れたウェスを投げ捨てたとき、視界の端からユウがひょっこりと顔を出した。
「おかえり、ユウ。首尾はどうだった?」
「何も掴めないどころか、水路に入ったところで素性がバレました。すみません。」
「だから、もっと色気を出す必要があるって言っているだろう? 膝丈より、もっとスカートを上げるとか。」
「寒いし、俺には似合いませんよ。」
「なら今度、私が見繕ってあげるよ。フリルの付いた服装なんか良いんじゃない?」
「遠慮します。どうせまた、俺を着せ替え人形にして遊ぶんでしょう?」
ユウはうんざりした表情を浮かべると、ミカの傍に腰を下ろした。
一見可憐で、ふとしたときに育ちの良さが見え隠れするが、ユウもまたツユキ家によって、かけがえのない存在を奪われた犠牲者だった。
「ユウ、おじいさんの仇を討つなら、したくない事もする必要があるんだよ。」
「ミカ姐さんはまたそうして、俺を誑かすつもりでしょう?」
「人聞きが悪いね。これでも、私は真面目に言っているのに。」
ユウはあまり過去の事を語りたがらない。だが一度だけ、身の上話をした事がある。
神威に入隊する前、ユウには同居するキタハラ・ニサクという名の老人がいた。
ニサクは独り身で、無一文のまま幌舞に逃れてきたユウを家に迎え入れ、不自由のない暮らしを与えていたが、数カ月前、ツユキ家直属の親衛隊に殴り殺された。
きっかけは些細なものだった。
夕暮れの小路で、親衛隊の一人が女性にしつこく言い寄っていた。目撃したニサクはやめる様に声をかけるも、隊員は逆上し、持っていた警棒でニサクの頭部を打った。
通常鉄の三倍以上の強度がある警棒の一撃は、老人の頭蓋をいとも容易く砕き、即死させるには十分な威力だった。
やがて当局の検分が行われたが、女性の証言はすり替えられ、ニサクを打った男は法廷に立つどころか、拘束すらされないまま、今もなお親衛隊員の職に就いている。
そして、この事件は決して明るみに出る事はなかった。
「姐さんは真面目なのかそうでないのか、分からないんですよ。」
ミカはかはっと笑うと、ユウの頭をくしゃくしゃと撫でた。
ユウは非力だったが、純粋であった。
上からの命令にも決して命を顧みることはない、立派な神威の戦士だった。
「でも仕方がないから、俺はミカ姐さんを信じて付き合って上げますよ。」
「そうこなきゃ。明日、知り合いから取り寄せた服を着てもらうね。」
ミカはユウに微笑みかけると、すくと立ち上がって小銃の紐を肩に掛けた。
見るが良い。草の間に咲く、この小さなユリを。
愛らしい香りを漂わせている、その香りは真実だ。
だが、その微笑む口も、やがて唇の上で死んでしまう。
その言葉を、お前の愛する耳が受け取った時には、気を付けねばならない。
微笑む口がそう遠くないうちに、素朴な心に恥辱をもたらすのだ。
私が今日歌った歌は、お前を喜ばせないかも知れない。
だがこの歌はともあれ美しいのだ。
心の奥底へと入り込んで、触れた所に血の跡を付けるのだ。
だがそれもまた癒しとなるのだ。
そしてその警告の調べを聞くが良い。
「学べ。愛することを諦め、そして更に愛することを!」
お前の聞いた言葉は、お前の優しさを壊しはしない。
神を目覚めさせるのだ。お前の魂の中に。
熟練の戦士は皆、一瞬の間にそれまでの己を殺す事が出来る。
銃を構えるべき瞬間は、不意に訪れる。
前触れも伏線も存在しない。特に、神威の戦いはその連続だった。
既に、先ほどまでユウを揶揄っていた年相応の女性はそこにはいない。
その眼に宿るのは、猛る戦士の燃え盛る焔。
「敵襲。ユウも準備はいいね?」
「四日前の動きを見るに、此処を探し当てたのは蛟竜軍のロクザでしょうね。」
「槍のオッサンか。私は彼奴が一番嫌いだね。」
「俺も同感です。残忍で、容赦がありませんから。」
ツユキ家直属の親衛隊には、蛟竜軍と呼ばれる特殊部隊があった。
槍の名手であるアオキ・ロクザに率いられ、光入らぬ暗闇を進み、峻厳な悪路を踏破し、定めた敵を確実に掃討する役目を負う、いわばツユキ家の手足たる部隊だった。
ミカが銃のスライドを引くと同時に、地下アジトの入り口を塞ぐバリケードが崩れる音がした。
「伏せな! ユウ!」
爆薬の炸裂音と共に鉄の扉が弾け飛び、その欠片がミカの耳横を掠めた。
地下水路から通じる神威のアジトは、見つからない事を優先して、水路内の壁と同化するコンクリート壁のバリケードに、鉄の扉のみが備え付けられている簡素なものだった。
ゆえに一度破られれば、大量の敵がなだれ込んでくる。
身を隠す事が出来るのは、内部に設置された鉄製の机や、壁や柱の影にある僅かな空間のみだった。
ユウとミカは地に伏したまま、殺到してくるであろう入り口に向けて引き金を引いた。
だが、一発撃つごとに外から何倍もの銃声が間断なく聞こえ、空気を裂く弾丸の振動が顔や肩のすぐ傍から伝わってくる。
「姐さん! やっぱり俺を着せ替える約束は無しにしてもらえませんか!?」
「馬鹿! 諦めるんじゃないよ!」
やがて外からの銃声は止み、代わりにアジト内に殺到する者達の足音が、床を通じて伝わってきた。
その時、ユウは風の音を聞いた。
閉ざされた地下空間の中で、確かに風の音を聞いた。
それは、まるで鳥が羽搏いたときに空気が薄く裂ける様な音だった。
直後、男の短い悲鳴と共に肉が引き裂かれる音がした。
ユウは入り口に目を向けた。
アジトへ踏み込んだ者達が、赤色の飛沫を上げながら、人形のように倒れていく。
何が起きているのか分からないまま、血の雨が降り注ぐ光景を見つめるしかなかった。
そして、眼前には黒一色の影が降り立った。
「ニイミ・ユウ、お前を迎えに来た。」
まるで深淵の闇より現れ出でた黒衣の烏は、何物をも寄せ付けない冷たさを含んだ声で、己の名前を呼んだ。