六話 見えているもの
それから奴は、足繁くこの屋敷に通うようになった。
傷付いた父の心を少しでも和らげようと、父が心の奥底で密かに欲している言葉を、欲する時に、欲する数だけ言いに来ていた。
父は拒まなかった。否、拒めなかったと言う方が正しいだろう。
覚という存在である以上、知った風な口を利いているのではないし、何より奴も建前だけとは言え、父と同じ『母を守ろうとして利用されてしまった者』なのだから。
本当なら、ここで二人の間に割り入って、父に近付くなと声を上げるべきなのだろう。
だが、今や父の唯一の心の支えとなっている奴の舌先を、無下に取り上げるような真似はしたくなかった。
加えて、今出てきて奴にそんな大口を叩いたとしても、父の様に心を読まれ、奴の甘言に呑まれない自信や根拠も無かった。
今自分に出来る事は、以前父に言われていた通り、奴に近付かないようにして、奴に縋る父の姿を見ているしかなかった。
奴が母の暗殺に関与している可能性も、誰にも到底話せなかった。
やはり父の心がこれ以上に壊れる可能性があったし、更に言えば、奴が関与している事を根拠付ける物的な証拠は、何一つとして無かったからだ。
母の遺体が送られ、使用人達が粛々と葬儀の支度に掛った。
海を隔てた商業国から雇った死化粧師の尽力により、焼死体となっていた筈の母は火傷の一つも見えず、まるで眠っているかのように安らかな表情になっていた。
流石にこの時は、奴もこちらを気遣って家に現れなかったが、その間、父はずっと棺に身を乗り出して嗚咽していた。
「カール、皇帝などにならずともよいのだ」
弔いの鐘が鳴り、父が最初に放ったのは、そんな言葉だった。
こちらの両腕を掴み、希望の一つも見えないような顔で、懇願するように続けた。
「まして復讐など考えてはならない。生きて……、生きてさえいてくれたら…………」
強く抱き締めて、父はまた涙を流した。
かつて見た悪夢を思い出し、やはり獏はもう現れないのだと確信した。
参列者達の話し声が耳を掠るが、"彼等"の騒ぎ声と比べれば、やはりそれは静寂の範疇であった。
「ご安心ください父上、私は皇帝にふさわしくない人間となります。そう、見えるように」
周りの者達に聞こえないよう、父を抱き返してそう言ってみせた。
二度と父に、こんな思いをさせないよう、そう胸に誓いながら。
「よせったら!」
葬儀も終わり、父に代わって参列者達に挨拶周りに行っていた時だった。
幼い声が聞こえて、何事かとそこへ向かうと、教会の中庭で子供が一人、先程荒げた声を気にしてか強張った顔でこちらを見ていた。
その子の顔を見て、すぐさま愛想笑いで挨拶をした。
「これはこれはミゲル殿下、皇位を継ごうというお方がこのような葬儀にお出でになるとは、至極恐縮でございます」
すると、名を呼ばれた子供はビクリと怯え始めた。
ミゲルは皇位継承権序列第3位の皇子であり、血縁で言えば従弟に当たる者だった。
最初はこちらと同じような序列の低さだったらしいが、継承争いの末、気付けば空いてしまった第3位の席に坐っているような形になってしまっていたらしい。
そして何よりミゲルは、その心優しい性格から皇帝陛下からは勿論、反戦思想を持つ父の家の者達からも絶大な支持を得ていた。謂わば、この子こそが母が殺された原因なのである。
父に言われた手前、追い返すような真似はしなかったが、憎まないようには言われていないため、少し八つ当たりのような事を言ってやったのだ。
するとミゲルは、少しおどおどした後で、その青い瞳を潤ませた。
「……カール従兄様まで、そんな事を言うの? 僕、王様なんかになりたくないのに……」
そう言って直後で、ミゲルはポロポロと涙を零した。
優しい反面、気弱な性格である事は知っていたが、まさか嫌味がここまで効くとは思っていなかったので、少しの罪悪感が胸を痛めた。
だが、この胸の痛みは、ミゲルの次の言葉で更に強まった。
「僕は知ってるよ、カタリナ伯母様は戦死したんじゃない。継承争いで殺されたんだ。どうしてそうまでして、皆王様になりたいの? 国民さん達を守りたいんじゃなくて、自分が偉くなりたいだけじゃないか。そんな事の為に誰かを殺さないといけないのなら……、皇族なんて無くなってしまえば良いんだ!」
滲み出そうな涙を、ぐっと堪えた。
この子は、ミゲルは皇族に生まれた父そのものだと、その時分かった。
自分の母でもない、恐らく自身を宿敵と疎んでいたであろう者の死を、父と同様に悲しむこの子を、どうしても泣き止ませなければならない。そう思った時には既に、ミゲルを抱き締めていた。
「……ごめん、ミゲル。お願いだから泣かないで」
絞り出した自分の声は、呆れる程震えていた。
ミゲルはまだ暫く嗚咽していたが、こちらを抱き返すと少しだけ落ち着いたようだった。
「わっ!」
突然、ミゲルは変な声を上げると、身体を大きく仰け反らせて肩を竦めた。
服の中で何かが蠢いているのか、それからくすぐったそうに何かを追い払おうとするが、その"何か"は彼の弱い所を狙っているかのように蠢いているらしく、ミゲルは先程の表情とは打って変わって大笑いし始めた。
「やめて、やめてよ! カール従兄様ごめんなさい!」
葬儀場でこんな笑い声を上げるのは不躾であると思ったらしく、謝ったその直後にミゲルは突然口を窄めて変顔を作った。
あまりの唐突な上に意味の分からない行動に、暫く呆然としていたが、この子が人前でこんな顔をしないのはよく知っていたし、その後でミゲルが顔についた"何か"を押し退けたので、ふとある推測が頭の中を過ぎった。
「……ミゲル、"彼等"が見えるの?」
そう問い質してみた途端、ミゲルの目が大きく見開き、輝いた。
その反応を見て、推測が確信に変わった。そして同時に理解した。"彼等"は居なくなったのではなく、自分が"彼等"を認識出来なくなってしまったのだと。
「カール従兄様、見えるの!? 他の人間さん達は見えないって、乳母も、お父様も!」
「いや、見えてはいないけど……」
驚愕と歓喜を混ぜ合わせた声で、ミゲルはこちらに問いかけた。
ぬか喜びをさせてしまっているようで心苦しかったが、ふと先程の彼の言葉に、引っかかる部分があった。
「……他の、"人間さん達"?」
まるで亜人でなら見える者が居るような言い方に、思わずその真意を訊いてしまった。
失言に気付いたミゲルは、慌てて口を塞ぐと、何か取り繕うと目を泳がせながら口を開閉させ始めた。
「ミゲル殿下、こちらにおいででしたか」
その時、中庭の入り口から聞きたくもない声が聞こえた。
振り向くと奴が、トクサが、いつもの不愉快な笑顔でこちらを見ていた。
「タチアナ殿が探しておいででしたよ。親戚同士積もる話もありましょうが、そろそろお帰りの時間だと」
そう言われて、ミゲルは時計塔に目を遣り、慌ててこちらに一礼すると乳母が居るであろう教会の玄関へと走っていった。
一目で分かった。恐らく、ミゲルの言っていたのはこの狸親父の事なのだろう。あの子が口を滑らせるのは不都合であるらしく、わざとこちらに割って入ったのだ。
父の言いつけを守らなければならないし、この男とは少しの間でも同じ場所には居たくない。とは言え、葬儀の参列者である以上は、挨拶をしない訳にもいかなかった。
「御多忙中、拙宅だけでなく葬儀にもご足労いただき、誠にありがとうございます」
「滅相もございません、これしきの事、貴方様方親子の気苦労に比べれば」
「そうですか。では失礼ですが、他の方にも挨拶をしなければなりませんので」
短く済ませて、早々に奴から離れようとしたその時、ぞわりと悪寒が背筋をなぞった。
いつの間にか、奴がこちらの肩に手を置いていたのだ。振り払おうにも、身体が動かなかった。
「その前に、一つだけ」
耳元で、奴の言葉が吐息交じりに聞こえて来た。
声も出ず、微動だに出来ず、唯奴の小声に耳を傾ける事しか出来なかった。
「僕は狸ではなく覚ですので、お間違えの無きよう」
その言葉が耳に入った途端、凄まじい怒りの念が込み上げた。
それが動力となり振り返る事が出来たが、そこには誰も居らず、中庭で小鳥達が群れて、歌っているだけだった。