要するに短い話なんだよ
「僕達私達のグッチョングッチョン」
人間はクソの詰まった袋――クソ袋だと最初に言ったのは誰なんだろうか。
ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク。
僕の知識じゃ頭の中で思い浮かべることの出来る音は“これ”しかない。
僕の目の前で“クソ袋”が何度も包丁で刺されている。時折僕の顔にぴしゃりと何かが飛んでくる。……クソ袋と言わしめる原因は、この“臭い”だ。日常では嗅ぐことのない、一言で表せば“饐えた臭い”。
「はぁ――はぁ――はぁ――」
刺しているのは僕じゃない。僕ならば、この“臭い”が鼻を掠めた時点で止めている。
刺しているのは僕のお姉ちゃん。いつもは整えられている黒髪を振り乱しながら、薄ら笑いを浮かべて、辺りを生臭い液体で撒き散らしながら、何度も何度も刺している。……止めてとは言えない。何故なら、僕も“そうしよう”と思うくらいに“こうなっても”普通の奴だったから。
お姉ちゃんの動きは落ち着くどころか、どんどん動きが激しくなっていく。僕はクソ袋を想うわけではなく、ただ単純にお姉ちゃんを止めたくなってしまった。
――そんなに動いて疲れないの?
――そんなに臭いのに平気なの?
クソ袋を背中から刺して、その後息の根を止めた辺りまでは僕も共感できる。けど、その後の行動は理解できない。
「ふ、ひへっ――へひひひ――」
僕が見ても美しいと思えたお姉ちゃんの顔は、今や以前の面影は感じられない。そこに有るのは気が狂った一つのクソ袋。そのクソ袋に刺されるクソ袋。その様子を見つめるクソ袋。
いつまでこうしているつもりなんだろう。僕は顔に飛び散った“クソ”を拭きながら、お姉ちゃんの傍に近寄る。……もっと臭いがきつくなった。
「お姉ちゃん、もうやめようよ」
「ぃやめないわよ! へひっ! 邪魔するならアンタも、ひひっ、ひっ」
「……邪魔しないよ」
僕はお姉ちゃんと向かい合う――横たわるクソ袋を挟む――ように座ると、足を抱え込んで見つめ続ける。その様子を見ていたお姉ちゃんは、そこで止めとけばいいものを、またも包丁を振り上げて刺し始める。
ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク。
時間が感じられない。目の前の光景に心が動かされない。指に感触があるのかさえも疑わしい。これは現実なんだろうか。
お姉ちゃんは依然刺し続ける。僕は凝視する。お姉ちゃんはずっと同じ動きをしているから、刺されているクソ袋を凝視する。
最初は生臭い液体が溜まっていて何も分からなかったけど、ずっと見ている内になんとなくわかってきた。お姉ちゃんは今、肝臓がある場所を刺している。だからかはわからないが、臭いが一層きつくなった気がする。鼻の粘膜が痛みを訴えているけど、僕は気にしない。最早グッチョングッチョンになってしまったクソ袋の中身、窪んだ様になっている“そこ”は、下手な映画よりも刺激的な変わり様を観せてくれるから。
見ている物が真っ赤で分からなかったけど、僕の眼鏡はいつの間にやら滴るほどまでに生臭い液体に塗れていた。それを鬱陶しいと言わんばかりに部屋の端へ投げつけ、僕は凝視する。この動作をしている間に、クソ袋はその姿を大きく変えてしまった。
そして、とうとうクソ袋の腹に当たる部分は刺すところが無くなってしまった。今じゃ刺しても、ぐじゅぐじゅとした音が周りに響くだけで、最初の気持ちが良くなるほどの変わり様は観せてくれない。
お姉ちゃんもそれを察したのか、一瞬動きを止めてしまう。僕はもう止めてしまうのかとがっかりしたが、お姉ちゃんはその少し下に視線を移すと、
「ひぇ、ひぇひい! ひゃはああああ!!」
そのまま躊躇うことなく包丁を振り下ろした。
ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク、ザク。
今刺している場所は、男の僕にとってあまり気持ちのいい場所ではなかった。でも、やっぱり楽しい。さくさくと小気味良く刺さる様は、気泡シートをまとめて潰した時の感覚と似ている。
「――あ」
不意に、僕の顔にクソ袋の破片が飛んできた。それは狙い済ましたかのように僕の頬にくっ付いて、避けようとも思わなかった僕は、ゆっくりと頬に手を伸ばす。
温い。人肌だろうその欠片は、温いとしか言い様がなかった。……動いているクソ袋ならば、この破片を汚らわしい物として扱うのかもしれない。けど、僕はこの破片を汚らわしいものとは思えなかった。
丹念に掃除するわけでもなく、僕は手に付いた破片をそのままにして目の前の光景に集中する。棒状“だった”それは今やミンチとなり、スーパーの食品売り場に並べても遜色の無い物と成り果てている。見方を変えれば“おいしそう”と表現できるかもしれないけど、今はお腹がいっぱいなのでそう考えることは出来ない。
「は、はぁ――はぁ――は――」
お姉ちゃんの手が止まる。同時にそれは、百景を思わせる下腹部の動きも止まるということになり。瞬きをしても変わらぬ形で残るクソ袋の中身は全くを以ってつまらないものと成り果ててしまった。
「お姉ちゃん、どうかしたの?」
「……私、なんで――いやぁ」
醜く歪んでいたお姉ちゃんの顔は、いつしか普段の綺麗なそれに戻っていた。しかし、今度は目の前を凝視しながら……たぶん恐怖、恐怖で顔を歪ませている。せっかく元の綺麗な顔に戻ったというのに、眉間や目尻、口端にしわを寄せた顔はよく見れば先程とあまり変わってはいない。
赤い液体に塗れた手で頭を抱え込み、お姉ちゃんは顔を伏せてしまった。僕はそれを見て仕方なく、クソ袋の脇に捨てられた包丁を手に取る。柄の部分に付着したクソ袋の液は、すでに乾き始めていた。
「なに、何をしてるの? ……ねえ、それ、お姉ちゃんに渡して? いい子だから」
「やだ」
「――渡してって言ってるでしょ! ねえ、やめて!」
包丁を振りかざしている僕を見て、お姉ちゃんが取り乱す。おかしい、さっきまでお姉ちゃんがやっていたことを僕がするだけなのに。僕は止める気などあるわけもなく、視線をクソ袋から放さない。
――よく響く乾いた音と共に、頬に痛みが走った。
僕は今日、初めて動揺しながら視線を上に向けると、目の前にはぽろぽろと涙を流すお姉ちゃんが居た。
「な、なんで」
「もう、止めよ? 私が言えることじゃないけど、もう」
「――やだ」
同時に、僕は包丁をクソ袋の頭に突き刺した。
実際は深くまで刺さっていない。思った以上に骨は硬く、包丁の切っ先がザリザリと嫌な音を鳴らす。それでも僕は諦めず、グリグリ、ガリガリ、と包丁を動かす。
そんな僕をお姉ちゃんは呆けた顔で見ている。別に僕を止めるわけでもなく、ただ、焦点の合わない瞳が僕の方を見つめていた。
……上手く刺さらない。けど、“中身”が入っているのはここしか残っていない。足の方は駄目だ、腹の部分も刺すところが無い。残る頭は刺さらない。……僕は段々とイライラしてきて、不意にお姉ちゃんの方を見た。
「ひっ――!」
「そうだ、まだあった」
えんど