要するに短い話なんだよ
先生の暇潰し
私は温くなったコーヒーを啜りながら、延々と考えていた。それというのもあれなのだ。それやあれといった抽象的なことも随分と時間潰しにはなるのだが、最近はどちらかといえばオカルト寄りの考えを暇潰しとして利用している。シュレーディンガーの猫、ありとあらゆる可能性が詰まった箱を目の前に、私はどう考えるだろうか。猫は生きている、死んでいる、最初からいない。そのどれも無粋だとは思う、そもそも猫に限った話ではないのだから。我々という第三者が箱の中身を確認しない限り、そこには無限の可能性が広がっているのだ。私は椅子をギシギシと揺らしながら、机の上に置いてある筆箱を見つめる。この中には果たして何本のペンが入っているのだろうか。私の記憶が正しければシャープペンシルが一本、ボールペンが一本、彼女からもらった万年筆が一本、加えてロケット消しゴムが一本入っているはずだが、私が確認しない限り、それは存在していないことになるのだろう。人の記憶とは脆く曖昧なものだ。必ず欠落し、薄れ、消えてゆく。私が筆箱の中身を語ったところで、それが真実だと信じさせるには至らないのだ。故に人々は未だ見ぬ“箱”を開けようとする。自分の記憶、知識を確立させるために。斯くも人間とは不確かな存在だ。この部屋には私一人しかおらず、現実に於いて私と言う個人が存在することを証明するものは何一つないのだ。ああ、心が寒い。冷たくなったコーヒーを口に、暖まる気配の無い心が浮き立つ。
そこに、私を確立させる存在が部屋の扉を開けた。彼女だ。いつも通りの不機嫌を絵に描いたような顔を浮かべて、部屋の中央にある黒いソファに腰掛ける。私は何も言わずにその一連の動作を見ていたが、何度か鋭い視線を感じたので、席を立つ。部屋の隅に設けられたガスコンロ、湯気すら見えない中身の入ったやかんを手に、一杯のコーヒーを作り、彼女の前に差し出す。彼女は何も言わずにそれを受け取ると、あまり熱くはないだろうそのコーヒーに顔をしかめる。やっぱり私が淹れたほうがよかったですね、こんなコーヒーを出された日にはどんなに良い事があったとしても帳消しになってしまいますよ。なんて、文句を言いながら飲んでいる。文句を言うくらいなら飲まなければいいものを、私はそれを傍目に自分の椅子に着く。そこで、私は先程まで考えていたことを彼女に話すことにした。君は熱いコーヒーを出されると思っていたが、なんてことはない。やかんの中身は熱いというには程遠いお湯が入っていた。結局のところ、私達は確認することでしかその存在を確立出来ない。それは私達人間にも言えることだ。個人にとって、確認出来ない人間は存在しないことと同義だと、私は思うのだがね。私の話を聞いて、彼女は露骨に嫌な顔をする。なるほど、確かに彼女は最近付き合いが悪い。事、私が教授と言う立場になってこういった話をする時は、最後まで話を聞かずに席を立つ始末だ。だが、今日は自分から来た手前、無視することは出来ないのだろう。彼女は諦めたように溜め息を漏らすと、口を開いた。今日は何の話かと思えば、量子力学ですか? 私としては箱の中の幻想を追い求めるより、もっと他にすべきことがあると思うのですが。熱いコーヒーを出せなかったことに対しての、壮大な言い訳にしか聞こえませんよ。と、辛辣な言葉を私に浴びせる。確かにその節はあるかもしれないが、と付け加え、私は話を続ける。思うに、可能性というのは人間の想像力が試されていると思うのだよ。それは単純な知性とも言える。君を批判するわけではないが、湯気の立ち上らないやかんをみて、そこから温いと想像することは容易いはずだ。そこで求められるのは想像力、温くなっていることは確立されたが、その中身がただのお湯なのか、水なのか、コーヒーなのか、毒などが入っていないか、そもそも液体なのか。それらの可能性を視野に入れた柔軟な思考。結果としてはやかんの中身はただのお湯だったが、想像の範疇にある可能性は、確かにやかんの中に存在していたのだ。今となっては無きに等しいがね。
カップに残る冷たいコーヒーを飲み干し、私は一息つく。彼女は納得いかない様子で温いコーヒーを飲みながら、何かを考えているようだ。そう、存在し得るからこそ、人間は想像することを止めない。一種の希望に近いそれを想い、人は確認し、可能性の内の一つが確立され、その存在が現実に顕現し、そうやって可能性を殺していくのだ。それを思えば、人間とは純粋な殺し屋なのだろう。ものに限らず、人間に対しても同じようなことをしているのだから。それらを踏まえて平行世界と言う題材もある。数多の可能性は殺されているのではなく、可能性の数だけ世界が分岐しているという話だ。時系列を同じくして、彼女が想像した今の私とは違う私が、分岐した世界で存在していると。確かに面白い、確認しようがないだけに心が躍る考えだ。私は一人で物思いに楽しんでいる中、不意に扉の閉まる音で現実に戻された。見れば、部屋の中心には空になったコーヒーカップが置かれているだけ。彼女の姿はどこにもない。なるほど、彼女は私を一人にすることで現実から殺す気なのだな。それは大層な考えだが、私にとっても、彼女は死んでいるに等しいのだと、今度会った時に話してみたいものだ。
私は隣に存在しているやもしれない優しい彼女を思いながら、筆箱を開けて、入れておいたはずのボールペンが無いことに気付いた。