最終話 『現実 - リアル -』
そもそもの原因は、些細な出来事からだ。
普段は夕勤だというのに、今日に限って夜勤の人にヘルプを頼まれ、終電ギリギリまで店に居たことにある。
「あー、ねみいー。つーか、当日にヘルプとか勘弁して欲しいわ、ったく」
イライラしながら文句を呟きながら、俺は人気の無い駅で歩を進めていく。
俺は学生なのだから、夜勤に呼ぶという選択肢に入れて欲しくない。
とにかく、今やるべきことは一刻も早く家に帰り、寝ることだった。
この借りは今家でのん気に寝ているであろう他のバイト共にキッチリ返してもらいたい。
「今日はもう寝ないほうが遅刻せずに済みそうだな、くそたれめ」
行き場の無い気持ちを無人の駅に響かせながら、足を進める。
そうしている内に、ふと、見慣れないものが目に入った。
「なんだ、ありゃあ――」
所々に染み込む暗闇の奥を確認しようと目を細めながら、俺はそれを見た。
犬小屋にしては少し大きく、ダンボールを素材としたそれは、そもそも小屋という呼称が間違っているような。
ダンボールじゃ雨水も防ぐことは出来ないだろう、人間が住むとは到底思えないそれ。
何故か、俺はそれが気になって仕方がなかった。怖い物見たさってのもあったと思う。
俺はダンボールに住む奴がどんな奴なのか気になり、あろうことか出入り口っぽい穴に顔を突っ込んだ。
「あのー、誰か居るんですかー?」
時間も時間なので、当然のようにダンボール小屋の中は真っ暗だ。
息苦しさすら感じるその中からは、返事はない。
「なんも居ねえのか?」
俺はこういう時に限って勇気を出し惜しみせずに振り絞り、上半身を小屋の中に滑り込ませる。
そうして段々と慣れてきた目に映ったのは、横たわっている一人の人間。
さらに気付いたのは、鼻の粘膜を切り裂くような、強烈な異臭。
「何だよこの臭い……。ちょっとアンタ、大丈夫かよ。生きてるよな?」
横たわる人物に声をかけるが、返事は返ってこない。
依然として鼻を刺激する異臭に嫌気が差してきたので、俺は横たわってる奴の体を揺する。
「おい、聞こえてんのかよ。」
「んん゛……」
俺が体を揺すってからしばらくして、急に思い出したかのように横たわる人物がうめき声を上げた。
冗談抜きに驚いた俺は、驚きすぎて体を痙攣させ、ダンボール小屋を盛大に揺らしてしまう。
聞こえた声は今まで聞いたこともないような重低音だった。たぶん結構な歳だ。
太く、しがれて、どことなくソウルフルなイメージすら沸くその声。
そんな声を聞き、俺はたった一つのシンプルな答えに気付いた。
「か、完全にホームレスだこれ……」
「ん゛ん゛……」
ダンボール小屋の中で、異臭を放ちながらホームレスがうごめく。
ぼりぼりと音を立てて体を掻きながら、それは半身を起こした。
まず目に見えたのは、好き放題に伸びまくっている白髪だった。
思った以上に背が高く、伸びに伸びた白髪がその人物の表情さえも隠すくらいに、肩の下辺りまで届いている。
その白髪のホームレスが俺に視線を向けた。
俺は、その伸びきった髪から覗く目を見て、心底恐怖した。
「あ……うあ……」
まるで世の中にある全ての地獄を見てきたような、暗い瞳が俺を射抜いていた。
闇の中でもさらに黒く感じるそれは、“絶望”という言葉が思い浮かぶほどに濁っていた。
間違いなく、コイツはホームレス。
さらに言ってしまえば、死に掛けているかのように細い、老人。
よくよく見ると、服の隙間から何かが垂れていることに気付いた。
糞尿だ。老人は俺を呆けた表情で見つめている。
「あの……俺……」
見てはいけないものを見てしまったことに気付いて焦っていると、老人は顎をがくがくと痙攣させながら、口を開いた。
「め、し……」
「え?」
老人のうめき声のような言葉に、俺は一瞬考えてしまう。
その間に、老人は開いた口を塞がず、再度声を発した。
「めし……く、れ……」
それが彼、ホームレスとの出会いと別れだった。
怖くなった俺は悲鳴すら上げずにその場から立ち去り、家に帰って沈むように寝た。
後日そのホームレスがいた場所を見たが、もうダンボールは撤去されていた。
あの老人がどうなったのか、それを知ることはもうないだろう。
誰とはあえて言わないけどごめんちゃい><