異世界に転生したら優しい人ばかりだった
勇者ツヨヒコ
咳が止まらない。だからコロナだと思った。すぐ上司に電話。返事もすぐだった。
「コロナ!? だからどうした今すぐ来い! シゴトがお前を待っている!」
どういうことなんだろう。国が緊急事態宣言を出しているのに。
「コンビニ店員だって働いてんだろーが! おまえだって働ける! コロナなんて気合だ!」
そうか、この人には話が通じないんだ。じゃあしょうがない。出勤だ。
俺は咳き込みながらスーツに着替え、溢れる涙を拭いながらアパートを出た。俺の賃金のほとんどを喰らい尽くす魔のアパート。いつになったら生活はラクになるんだろう。
ふらふらと道をあるき出す。これまでの人生を思い出す。いつだって誰かに邪魔されてきた。誰かに優しくされたことなんて一度もない。どうして俺ばっかりこんな目に遭うんだろう。どうして俺ばっかりこんなひどい人生なんだろう。苦しい。つらい。
そんなことを考えていたら赤信号に飛び出してしまって、居眠り運転のトラックに跳ねられた。
死ぬ。それは温かい布団に入るようなものだった。
「目を覚まして……」
「え?」
「あなたは転移したんです。この世界に」
俺はぼんやりと目の前の美少女を見る。艷やかな髪、ぱっちりとした目。アイドルみたいだ。
「私の名前はルナ。事情はあとで。今はここから脱出しましょう」
「俺……死んだはずじゃ」
「死んでなんかいません。ここにいるじゃないですか」
「そっか」
俺はショートソードを渡された。ゲームみたいだ。
後ろからゴブリンが追ってくる。
「転移用の召喚門はだいぶ使われていなかったんですが、いつの間にかゴブリンの巣になっていて……」
「そうなんだ」
「逃げましょう。いまはとにかく」
だが、俺は元気が出なかった。走るのもおっくうだった。その場にへたりこんでしまう。ルナは俺の腕を取った。
「お願いです、生きてください」
「生きる……?」
「あなたが必要なんです」
「そうなんだ」
俺は疲れていた。でも走らなきゃ。
なんとかゴブリンの巣を抜けて洞窟から出た。太陽が眩しい。
「結局、使わなかったな、この剣」
「戦いはないに越したことはありません」
ルナは草原の先を指差す。街が見えた。
「あの街まで行きましょう。詳しいことはそこで」
「いいよ、遠いしあるきながら話そうよ」
「わかりました」
俺は不思議な気分だった。俺の提案が通るなんて。いつだって会社では俺のアイデアは踏み躙られた。それが俺はいつだってイヤだったんだ。
「あなたは勇者ツヨヒコ。この世界を魔王から救う勇者なんです」
「勇者……おれが?」
「実感は湧かないかもしれません。でも、大丈夫。私が守ります。あなたのすべてを」
「そっか……わかった、お願いするよ」
なにがあっても、この子と一緒なら大丈夫だろう。そんな気がした。
「君は何者なの?」
「私はエルフ。召喚士の家系なんです。魔王がこの世に再臨したとき、勇者を呼び出すのが使命。無事に呼び出せてほっとしました」
にっこり笑うその顔に俺はやられてしまう。会社のOLはゾンビみたいな連中ばかりだった。
「あなたのいた世界はどんなところだったんですか?」
「ひどい世界だったよ……コロナ、つまり疫病が流行っているのに職場に来いって命令され……何が『クルー』だよ。ふざけやがって。都合のいい言葉をいつだって利用する。大人なんかみんな死んじまえ」
俺の激しい言葉にルナは悲しげな顔をする。
「ひどい世界だったんですね……安心してください。この世界の人たちはいい方ばかりですから」
「そうなの? 魔王がいるのに」
「……邪悪をあつめたのが、魔王なんです」
そうか。俺がいた世界はみんな邪悪だったから、魔王がいる必要はなかったんだな。
ひどい話だ。10万円の給付も、布マスクも、ぜんぶ嘘だった。おれんちに来なかったじゃないか。手続きばかり要求して。政府なんてクソだ。
「もうそろそろ着きそうですね」
「ねぇ、魔王の名前はなんていうの?」
ルナは言いにくそうに魔王の名前を口にした。
「魔王……魔王・ナロコネシ」
「私はこのワヘイ王国の使者なんです」とルナは名乗った。
「王から魔王を倒す勇者を探して、魔王を討伐する勅命を受けました」
「そうなんだ……たいへんだね」
宿屋の中は活気に満ちている。冒険者たちで夜はごった返している。
「ようやくツヨヒコさんを見つけられてほっとしています」
「うん、それはよかった。俺が手伝えることなら、役に立ちたいけど……本当に俺に魔王を倒す力なんてあるのかな?」
「大丈夫です。あなたには隠された力があるんです。それをこれから国王にお見せしにいきます」
「え、王に会うの?」
俺は偉い人に会うのが苦手だ。いつも俺を差別してくる。
「大丈夫です。わたしも一緒ですから」
「ならいいけど……」
俺は酒場のビールを飲みながら、ため息をついた。
「そなたが勇者か」
王は少女だった。まだ小学生高学年くらいだろう。偉そうに玉座にふんぞり返っている。
「我こそはワヘイ王国二十四代目国王・チョットマダ・ハヤカローナだ」
「はあ……」
「勇者よ。我にそなたの力を見せてみい」
「そんなこと言われましても」
平伏しながら困惑する。
「ステータスはどうなんじゃ」
「ステータス?」
「ステータスオープンと言うてみい」
そのとおりにすると、空中に俺の個人情報数値がホログラムで表示された。
「おお、ゲームみたいだ」
「わけのわからんことを言うでない。で、能力値の総合は?」
「えっと……いちばん下に最高、とあります」
「ならばそなたは勇者じゃのう」
簡単な査定だ。
「そなたには困難もあるじゃろうから、必要な物資はすべて国庫から出す。旅の支度ができるまでしばらく待つがよい」
「はあ……」
「我が王宮は最高級ホテルのようなものじゃぞ。見晴らしもいいし、いい気分転換になろう。前世では相当苦労しておったそうじゃな」
「そうなんですよ」とルナがうなずく。
「なんでも、ニホン、というひどい国にいたみたいで」
「ニホン……古文書にある悪法がはびこる野蛮な国家と書いてあるのを見たことがあるが、数千年前に滅びたはずじゃぞ」
「関係あるんですかねぇ」
俺に聞かれても……
「為政者は一人でよい。民主主義など不要。わが国家はチンが国家なり、じゃ。我の意向が太陽の傾きの次に優先される。運命のようにな」
「すごいですね」
「そうじゃ。だからそんなすごい我に見込まれたのじゃ、そなたは。光栄に思え」
「はい。でも、俺に魔王なんて倒せるんですか?」
「倒せるからこそ、そなたは勇者なんじゃ。魔王を倒せぬ勇者などおらぬ」
それも妙な理屈だが……
「とにかく、部屋を与えるからそこで休むがよい。出発は後日連絡する」
「わかりました」
「よかったですね、王に気に入られましたよ」とルナは上機嫌だ。そうなのだろうか。
人から好かれたことなんてないから、わからない。
○
驚くべきことにテレビが与えられた。なんでも宮廷魔道士のヤッチャイケナ・イコトヤールという女魔道士が作った、俺がいた世界と通じるテレビだそうだ。
俺はためしに電源を入れてみると、ニホンの世界が映った。コロナで大混乱している。
だが、驚くべきことに緊急事態宣言を21日に解除するなどと言っている。バカな。俺はベッドに座り込んだ。スペイン風邪のときのことを忘れたのか?
外出自粛で感染者数が日割りで減ったのを目安に自粛解除をした途端に感染者が爆発的に増加したのだ。当たり前だ。せっかく玄関に鍵をかけていたのに、誰も襲ってこないからと開けたようなものだ。外で待ち構えていただけなのに。
なんて愚かなんだろう、ニホンの政府は。俺が独裁した方がまだマシだ。俺なら10月まではこの完全自粛モードを継続させる。各世帯への給付もベーシックインカムという形で給付。家賃収入で食っているクズどもには家賃の請求権を凍結。今までの黒い金で生きろと締め上げる。不動産で生きている連中なんて干上がったところで代わりがいる。自粛のせいで営業できない観光業や飲食業などにこそ支援すべきだろう。
それに俺のようにコロナによる自宅待機で自分が働くべき人間ではなく、家にいるべき人間だと再認識した人間もいる。外にいく理由なんてない。飲みたくもないコーヒーを飲みに行くだけだ。緊急事態宣言が解除されたら自宅待機もなくなってしまう。そんなことは赦されるべきじゃない。
俺はため息をついてテレビを消した。異世界へこれて本当によかった。あんな国にいたら命がいくつあっても足りない。まあ、その代わりに魔王を倒せなどと無茶を言われたが……ステータスを再確認したが、すべての数値がマックスをはじき出している。いまのところ、これとルナという少女を信じるほか、俺に道はない。
異世界にも夕方がくる。俺は柔らかい布団にこもった。自慰はどうすればいいんだろう。とりあえずしごいて、部屋のすみの痰壷の中に射精した。奴隷階級が掃除するだろう。俺の知ったことじゃない。俺は前世で、奴隷だったんだ。少しくらい、ラクさせろ。
ゆうべの魔女、イコトが仲間になった。王に同行せよと命じられたらしい。不敵な笑みが特徴の女魔導士だ。歳は十七歳くらいか。パープルヘアーに金色の目がよく似合っている。
「あんたが勇者か。よろしく」
「ああ」
「痰壺のなかに出したってほんと?」
「え?」
振り返るとルナが恥ずかしそうにもじもじしていた。なんてことだ。あの痰壺はルナが掃除したらしい。ということは……ああああ。俺は頭を抱えた。仕方ないじゃないか。男なんだから。女にはわからないんだ。この快感も苦しみも。
「ほどほどにね。それよりあんた、魔王を倒したらどうするの?」
「え?」
「倒したら、先の人生があるでしょう? 今からそれを考えておかないと」
「そんな……そんなの全然、思いつかないよ」
「そう。じゃ、この旅はあんたの夢探しってわけでもあるんだ」
夢探し。
俺は前世では夢なんて与えられていなかった。父親の道楽で学費を使い込まれ、奨学金を全額使われた。働いても働いても奨学金の返済に迫られる。大学にいったからといって、新卒カードが切れるだけだというのに。それだって俺みたいに大学で何も学ばなかった人間には手札なんてない。大学? 入学したらたっぷり遊べるって言ってたじゃないか。大嘘だ。たっぷり遊んだら困ったことになった。大人の社会は穢れている。浄化すべきだ。焼却だ。
「あんたは火の魔法とか得意そうだね……」
イコトは俺の目を覗き込む。
「すべて焼き払う。それもまた夢の一つとしていいんじゃないかな」
イコトはそういって、クッキーをひとかけら口に放り込んだ。ルナにくらべて、すこしふっくらした体型。巨乳だ。魔道士用のローブはゆったりしている。
「手相見せて」
「な、なにをいきなり」
「ふんふん。あんた、天才だね」
「天才?」
「そう。すべてを司る王の相が出てる。前世では一般市民だったのが災いしたみたいだね……あんたは、王になるべき男だ。痰壺に射精しちゃうくらい性欲も強いみたいだし」
「う、うるさいな!」
「あんたは学術にも賢明の相が出てるよ。安心しな。これからあたしと精霊術について学んでいくことになると思うけど、ちゃんとあんたなら理解して使いこなせる。自分を信じて」
「精霊術」
「そう」イコトはうなずく。
「それだけが、魔王を倒す神の剣なのさ」