新都社百合企画2020
聖書/RM307
以前読んだ漫画の特殊能力を持ったキャラクターが、「もう人が人の形に見えない、電気信号に見える、人の正体は電気信号だ」と悲しい境遇を吐露していた。
筋肉の伸縮も脳の情報伝達も、ただ電気が走っているだけなのだと思うととても不思議な気がする。皮膚を裂き、脂肪をかき分ければそこにあるのはシンプルな機構で、生まれた時からずっと親密に寄り添っていた肉体が急に無機質な作り物のように思え、生物とは何だろう? と確固としていた認識に疑問を抱かずにはいられなかった。
あの複雑な構造のコンピュータでさえ、電流で切り替わる単純なオンとオフのスイッチの組み合わせで成り立っている。0から1へ、1から0へ。昔父親と一緒に観た洋画を思い出す。モニターを埋め尽くす緑色に輝く2進数、デジタルな仮想現実世界。そう、あれも確か正体は脳内に送られた電気信号だった。
それでは、人間とコンピュータにさほど違いなんてないのだろう。だからこの肉体が喘ぐのも、機械的なレスポンスでしかないのだ。かたかたとキーが打ち込まれ、ハードディスクがけたたましく呻き、排熱ファンが唸りを上げて回転し、無数のスイッチがぱちぱちと蠢く。
私は自分がそんな電子機器になったところを想像する。ヤツの望むままに使役されると思うと、それもまた嫌気が差すのだけど。
「ねえ、君は僕のこと好きだって言うけどさ、どうして?」
ヤツが帰ってきた。ドアを一枚隔てた廊下から聞こえる、お決まりの気持ち悪い語りと自己陶酔に浸った態度に辟易する。馬鹿みたいだ。
私はため息をついて栞を挟み、読んでいたハードカバーの小説を静かに閉じる。今日はこの章を最後まで読んでおきたかったのに。終わってから読む時間はあるけれど、とてもじゃないが読書を楽しむ気分にはなれないと経験から知っている。
ガチャリとノブが回りドアが室内側に開かれる。ぬるりと現れたヤツは振り返りもせず足でいい加減に扉を閉めると、机に向かう私の元へ歩を進める。
「背が高いから? 曲を作るから? 歌を歌うから? 踊りが上手だから?」
私は眼鏡を外し、丁寧に折り畳んで本の脇に置く。震える指先に内心舌打ちをする。これが寒さの所為だったらいいのに。そしてささやかな抵抗として、机から離れヤツに背を向けて窓の前に立つ。相手を受け入れ、待っている訳ではないのだと示したかった。無駄なレジスタンスだとわかってはいても。
またこれは同時に第三者への警戒でもあった。厚いカーテンが一分の隙もなく閉まっていることを確認する。向かいの棟からはかなりの距離があるが、万が一見られないとも限らない。いずれにしても、横になってしまえばどこからも死角になるのだけれど。
「やめろ! 僕は君の彼氏になりたいだけなんだ」
ヤツは背後から私の左肩に右手を置く。そっと触れられた五指、だけどそこに含まれる優しさは最初だけであることも知っている。
「君は、君は僕の胸に輝くピカピカのメダル」
首筋を這うように撫でる声に、私は反応すまいとする。しかしこれから先に待ち受ける試練を思うと、身体が小刻みに揺れるのを抑えられない。反応しても相手を喜ばせるだけだ。怯えていると思われたくない、期待しているとはもっと思われたくない。でも、その葛藤すらヤツには見透かされているのかもしれない。
「そして、そしてこの僕は君の最新型のベッド! 最新型のベッドだよ」
そこで指からは気遣いが消える。蒲柳な身体の私では決して敵わない腕で、激しさはないが有無を言わさぬ力で肩を引かれ、ベッドに押し倒される。
「今夜は、今夜は君のヒップが何でできているか、パパや、ママや、みんなに教えてあげるんだ」
敵わないと述べたが、元々拒否するつもりはない。あくまで姿勢の問題であって、私自身はこの流れを了承している。納得してはいないけれど。
「ねえ、ねえ例え君に彼氏がいたって構うもんか」
ヤツはしゃべりながら私のフリースのパジャマの裾を持ち上げていく。躊躇はない。首元までたくし上げた後はパジャマのズボンも下ろされる。そして下着にも指をかける。
「僕はあいつには絶対できないキスのやり方を知ってるからね」
私は顔を背けているので、ヤツがどんな表情をしているかはわからない。知りたくもない。こういう時視力が悪い自分の目に感謝しそうになるけれど、すぐに愚考を打ち消す。こんな下らない時間に、下らない相手の為に? 馬鹿げている。そしてこの状況でどうでもいい考えに耽るのは、ヤツの次の一手に緊張し、この場から逃避したがっているからだとよくわかっているので、余計に腹立たしい。そう思わせる相手に、相手を恐れる自分に。
気がつくとヤツの声は消え、部屋には沈黙が降りている。私に聴こえるのは自分の心臓の音だけ。先ほどまでは耳障りなだけだったのに、今はもう一度語りかけて欲しいと思う。痛いほどずきずきと胸を突く鼓動をかき消して欲しいと思う。
だがあれこれ悩む必要はなかった。だって、ヤツの頭がもうこんなに近く――
「今見せてあげるよ」
ヤツに触れられる時も、私は自分という存在がただの肉と感覚器官でしかないのだと思い知らされる。そこに明瞭な思考が入り込む余地はない。肌が粟立ち、産毛一本一本の感覚が鋭敏になる。全身が熱を帯び、背筋が凍る。暴力的と言ってもいいほどの快感と、吐き気を催すほどの嫌悪に襲われ、視界がぼうっと霞む。意識も肉体も無理やり解かれ、何倍にも引き伸ばされ、形を失っていく。輪郭が溶け、自分の身体と相手の指や唇や舌が混じり合い、境界が曖昧になる。
人が人をここまで支配できるのかと驚嘆する、圧倒的な生の感覚。暴風による荒波が海岸を侵食するように、私の表皮と尊厳が削り取られていく。自分の内側までもが暴かれていくようで、顔が羞恥で歪む。
びくりと跳ね上がる肢体と脳内でちかちかとひらめく光を感じながら、そうか、やはりこれは電気なのだと独りごちる。それは声にならない吐息として口から漏れ出る。
ならば赤く上気した顔も、硬く隆起した乳頭も、しっとりと濡れた陰部も恥じることはない。それは肉の間を電気信号が駆け抜けているだけ、反応、反射。私の望んだ挙動じゃない。電灯と変わらない。ぱちり、明かりが点く。ぱちり、明かりが消える。0から1へ、1から0へ。
私は無意味な明滅を繰り返していった。傍から見たらきっとひどく無様に映っただろう。だからこそ抵抗したいのかもしれなかった。
世界には私の息遣いだけがこだまする。空虚で寄る辺なくて、この世で最も密なコミュニケーションのはずなのにどこにも結びつかない、スタンドアローンなコンピュータにでもなった気分だった。
ヤツは一通り満足すると、私への興味を失ったように離れて立ち上がる。自分の机に向かい、ごそごそと乱暴に鞄の中身を取り出す音がする。明日の教科の準備をしているのだろう。鼻歌交じりなのが無神経でかんに障る。
「何で35の中年と恋してる~学校じゃ持ち切りだよそのことで」
私の脳は混乱から抜け出し、油膜に覆われたように滲んでいた目が、二段ベッドの上段の見慣れた染みをはっきりと視認できるようになったところで衣服を整え、乱れた呼吸と心拍を鎮めようと集中する。喘息の時と同じだ。だが容易にはいかず、いつも落ち着きを取り戻すのに時間がかかってしまう。それだけヤツの影響下に置かれているようでしゃくなのだけど。
「Crazy×12-3=me! つらいんだけど愚かだ~」
ぱちりと通学鞄の留め具をはめたヤツは、かかとを軸にしてくるりとベッドに向き直る。まだ動悸がするが仕方ない。私はベッドから起き上がり立とうとしたが、脚が痙攣して力が入らない。忌々しく息を吐き、目だけでヤツを捉えてその名を呼ぶ。
「ヒトミ」
二段ベッドの梯子に足をかけようとしていた彼女は身体を左に傾け、ベッドの下段に腰かけている私の顔を覗き見る。その目には何の色も浮かんでいない。先ほどまでの嵐のようなひとときが嘘みたいに、表情は静かに凪いでいる。
「何?」
「……人を傷つけるのはもうやめて」
すると彼女の片眉が持ち上がり、瞳が愉快そうに揺れ動く。色の伝でいうなら、これを喜色と呼ぶのだろうか。
「誰好きになろうといいじゃない~あたしの勝手よ下らない」
「ふざけないでちゃんと答えて」
歌い続ける彼女に、私は語気を荒げる。しかし彼女は真面目に取り合おうとしない。
「その”人”は君を指すの?」
歌いやめても依然としてからかう調子の彼女を睨めつけ、私は即座に否定する。
「違う。茅野さんや、あなたに好意を寄せる子たちを。
あなたは他人の好意をもてあそんでいるようにしか見えない」
しばし視線がぶつかった後、彼女はふっと目線を外して腕を組み、頭を傾けて頬杖をつく。そのままゆっくりと歩きながら私の正面に回り込んだ。いちいち芝居がかっている仕草に苛立ちながら返答を待っていると、彼女は横を向いたまま口を開いた。
「あー……そうか、忘れていたよ」
「……忘れていた?」
真意を測りかねて私が聞き返すと、彼女は細い指で顎をいじりながら続ける。
「うん。他人が傷つくってことを」
予想していなかった彼女の幼稚な返答に、私はその横顔をまじまじと見つめる。
「……自覚していないの?」
精一杯の非難を込めたが、彼女はその響きを意に介さない。
「んー……わたしにとっては大して重要じゃないかな。
まぁ、いい気持ちはしないだろうとは思う。でもそこまで。
そうだね、忘れていたというより、他人の為に考える気が起きなかった、だな。わたしの行動によって相手にどういう感情が生まれようが、あるいは消えようが、興味を持てないから。
他人ってそんなに重要?」
彼女は軽やかに言い放つと、私の目を見て薄く微笑んだ。鋭利な刀剣を思わせる冷たい三日月。
私はまた気分が悪くなっていくのを感じた。彼女――生天目ヒトミはそういう女だ。わかってはいたが……。
萎縮したくないという対抗心から、私は自分を奮い起こして勢いよく立ち上がる。
「……興味がなくても、他人の気持ちもちゃんと考えて。自分がされたら嫌でしょう?
これ以上他人を悲しませないで――」
「川澄くん、”我思う、ゆえに我あり”って言葉があるよね」
私の言葉を遮り、彼女は鳥のように両腕を仰々しく広げる。以前観た「嵐が丘」のヒースクリフの演技だ。
「すべてを疑えても、疑っている自分自身の存在は否定できないという哲学の命題。意味はここでは重要じゃないけど。
わたしにとって明確に”思って”いて、疑いようのない存在はわたしだけなんだよ。だから他人も同じように”思って”生きているかどうかは念頭にない、というかどうでもいい。
わたしがされたら嫌だとしても、他人は他人であってわたしじゃないし、自分の方が大事だね。
他人を優先させる気はないよ。わたしはわたしの思うまま、わたしの望むままにある。それだけ」
その刃は、先ほどよりも深々と私の胸に突き立てられた。肉と骨をえぐり、切っ先が気道に到達する。私は言葉を発せない。
あまりにも自己中心的すぎる愚かな言い逃れだ。間違っている。けれど何と言っていいのか考えがまとまらない。
彼女は愚かさを承知の上で、それを餌に他者を己の領分に誘い込み、上から踏みつけてあざ笑う性格だ。蟻地獄のように罠をしかけ、囚われた者の涙を啜る捕食者。今だって穴の底で加虐的に手招きしている。そんな相手を一体どう説得すればいいのか。他者の痛みを顧みず、最初から共感を踏みにじっている相手に理解を求める言葉は届くのか。
私が逡巡していると、彼女は飽きたようにポーズを解いて大きなあくびをし、断りもせずに室内灯を消してから「寝る」と言って二段ベッドの梯子を登っていった。
急速に熱を失っていく身体とともに、心も冷え冷えとしていく。いつも同じだ。言葉は違えど、彼女が私の諫言に耳を貸した試しはなかった。私に説き伏せられる相手ではないのかもしれない。しかしだからといってやめる訳にはいかない。でもあと何回こうして打ちのめされないといけないのだろう?
身体を蹂躙され精神にまで植えつけられた敗北感を前に、私は先の見えない暗闇の中でしばらく立ちすくんでいた。彼女の冷笑が切り取った空間だけが、毒々しい光彩をたたえて揺らめいている。
洗面台の二つの蛇口をひねり、お湯になるまで待ってからタオルを湿らせて固く絞る。腕を水滴が伝って落ち、靴下を濡らして不快感を覚える。
季節は4月中旬に差しかかろうとしていたが、高原に建つこの学生寮の一室はまだ春の手前で足踏みしていて、服をまとっていない肌に冷気が刺さる。今の身体の震えはそれが原因だろう。でも暖かい自室より、静謐な空気がたゆたうこちらの方が幾分ほっとする。彼女から離れているからそう感じるのかもしれないけれど。
胸に濡れたタオルを当てる。手足の末端が冷えていた所為でわからなかったのだが、お湯だと思っていたそれはまだ低温だったようだ。マッチの灯りほどのわずかな温もりは何の慰めにもならなかった。やれやれと軽く頭を振り、面倒なのでそのまま拭くことにする。
彼女が触れた部分を重点的に。まだ敏感になっている局部に布地が擦れるこの時間はたまらなくみじめで、何よりも苦痛だ。体力を奪われた身体は、今すぐベッドに潜り込みたいと疲労を訴えている。
だが後処理をおざなりにはできない。体液の残香がいかに他生徒の興味と噂を呼ぶか、よく身にしみている。その噂話を教えてきたのも他ならぬ彼女で、私は彼女が口にした時の愉悦を含ませた表情を忘れていない。
自身に関するいくつかの噂。趣味について、彼女との関係について、そして性的な行為について。事実もあればそうでない憶測もある。人から人へ伝わっていく間に尾ひれがつくケースも多いし、悪意によって歪められた流言も少なくない。面と向かって告げられた訳ではないので自分からいちいち否定して回ったりはしていないけれど、気分がいいものではなかった。時々すべてを投げ出したくなる瞬間もある。こうして彼女に触れられた後は特に。
しかし引けない。契約を守り、彼女の欲求が私に向いているうちは他の生徒が毒牙にかからなくて済む。私が我慢していればいい話なのだ。それで誰かを救えるのなら構わない。
数時間前に茅野さんに伝えられなかった言葉――私はもう誰にも彼女の犠牲になって欲しくない。餌食になるのは私が最後でありますようにと切に願う。
これが祈りなら、身を捧げるこの行為は生け贄なのかもしれなかった。原始的で野蛮で、それでもすがらなくてはいけない弱き人間の最後の希望。
私は洗面台の鏡を見る。おぼろげに映った裸体は、まだ人の形をしている。
筋肉の伸縮も脳の情報伝達も、ただ電気が走っているだけなのだと思うととても不思議な気がする。皮膚を裂き、脂肪をかき分ければそこにあるのはシンプルな機構で、生まれた時からずっと親密に寄り添っていた肉体が急に無機質な作り物のように思え、生物とは何だろう? と確固としていた認識に疑問を抱かずにはいられなかった。
あの複雑な構造のコンピュータでさえ、電流で切り替わる単純なオンとオフのスイッチの組み合わせで成り立っている。0から1へ、1から0へ。昔父親と一緒に観た洋画を思い出す。モニターを埋め尽くす緑色に輝く2進数、デジタルな仮想現実世界。そう、あれも確か正体は脳内に送られた電気信号だった。
それでは、人間とコンピュータにさほど違いなんてないのだろう。だからこの肉体が喘ぐのも、機械的なレスポンスでしかないのだ。かたかたとキーが打ち込まれ、ハードディスクがけたたましく呻き、排熱ファンが唸りを上げて回転し、無数のスイッチがぱちぱちと蠢く。
私は自分がそんな電子機器になったところを想像する。ヤツの望むままに使役されると思うと、それもまた嫌気が差すのだけど。
「ねえ、君は僕のこと好きだって言うけどさ、どうして?」
ヤツが帰ってきた。ドアを一枚隔てた廊下から聞こえる、お決まりの気持ち悪い語りと自己陶酔に浸った態度に辟易する。馬鹿みたいだ。
私はため息をついて栞を挟み、読んでいたハードカバーの小説を静かに閉じる。今日はこの章を最後まで読んでおきたかったのに。終わってから読む時間はあるけれど、とてもじゃないが読書を楽しむ気分にはなれないと経験から知っている。
ガチャリとノブが回りドアが室内側に開かれる。ぬるりと現れたヤツは振り返りもせず足でいい加減に扉を閉めると、机に向かう私の元へ歩を進める。
「背が高いから? 曲を作るから? 歌を歌うから? 踊りが上手だから?」
私は眼鏡を外し、丁寧に折り畳んで本の脇に置く。震える指先に内心舌打ちをする。これが寒さの所為だったらいいのに。そしてささやかな抵抗として、机から離れヤツに背を向けて窓の前に立つ。相手を受け入れ、待っている訳ではないのだと示したかった。無駄なレジスタンスだとわかってはいても。
またこれは同時に第三者への警戒でもあった。厚いカーテンが一分の隙もなく閉まっていることを確認する。向かいの棟からはかなりの距離があるが、万が一見られないとも限らない。いずれにしても、横になってしまえばどこからも死角になるのだけれど。
「やめろ! 僕は君の彼氏になりたいだけなんだ」
ヤツは背後から私の左肩に右手を置く。そっと触れられた五指、だけどそこに含まれる優しさは最初だけであることも知っている。
「君は、君は僕の胸に輝くピカピカのメダル」
首筋を這うように撫でる声に、私は反応すまいとする。しかしこれから先に待ち受ける試練を思うと、身体が小刻みに揺れるのを抑えられない。反応しても相手を喜ばせるだけだ。怯えていると思われたくない、期待しているとはもっと思われたくない。でも、その葛藤すらヤツには見透かされているのかもしれない。
「そして、そしてこの僕は君の最新型のベッド! 最新型のベッドだよ」
そこで指からは気遣いが消える。蒲柳な身体の私では決して敵わない腕で、激しさはないが有無を言わさぬ力で肩を引かれ、ベッドに押し倒される。
「今夜は、今夜は君のヒップが何でできているか、パパや、ママや、みんなに教えてあげるんだ」
敵わないと述べたが、元々拒否するつもりはない。あくまで姿勢の問題であって、私自身はこの流れを了承している。納得してはいないけれど。
「ねえ、ねえ例え君に彼氏がいたって構うもんか」
ヤツはしゃべりながら私のフリースのパジャマの裾を持ち上げていく。躊躇はない。首元までたくし上げた後はパジャマのズボンも下ろされる。そして下着にも指をかける。
「僕はあいつには絶対できないキスのやり方を知ってるからね」
私は顔を背けているので、ヤツがどんな表情をしているかはわからない。知りたくもない。こういう時視力が悪い自分の目に感謝しそうになるけれど、すぐに愚考を打ち消す。こんな下らない時間に、下らない相手の為に? 馬鹿げている。そしてこの状況でどうでもいい考えに耽るのは、ヤツの次の一手に緊張し、この場から逃避したがっているからだとよくわかっているので、余計に腹立たしい。そう思わせる相手に、相手を恐れる自分に。
気がつくとヤツの声は消え、部屋には沈黙が降りている。私に聴こえるのは自分の心臓の音だけ。先ほどまでは耳障りなだけだったのに、今はもう一度語りかけて欲しいと思う。痛いほどずきずきと胸を突く鼓動をかき消して欲しいと思う。
だがあれこれ悩む必要はなかった。だって、ヤツの頭がもうこんなに近く――
「今見せてあげるよ」
ヤツに触れられる時も、私は自分という存在がただの肉と感覚器官でしかないのだと思い知らされる。そこに明瞭な思考が入り込む余地はない。肌が粟立ち、産毛一本一本の感覚が鋭敏になる。全身が熱を帯び、背筋が凍る。暴力的と言ってもいいほどの快感と、吐き気を催すほどの嫌悪に襲われ、視界がぼうっと霞む。意識も肉体も無理やり解かれ、何倍にも引き伸ばされ、形を失っていく。輪郭が溶け、自分の身体と相手の指や唇や舌が混じり合い、境界が曖昧になる。
人が人をここまで支配できるのかと驚嘆する、圧倒的な生の感覚。暴風による荒波が海岸を侵食するように、私の表皮と尊厳が削り取られていく。自分の内側までもが暴かれていくようで、顔が羞恥で歪む。
びくりと跳ね上がる肢体と脳内でちかちかとひらめく光を感じながら、そうか、やはりこれは電気なのだと独りごちる。それは声にならない吐息として口から漏れ出る。
ならば赤く上気した顔も、硬く隆起した乳頭も、しっとりと濡れた陰部も恥じることはない。それは肉の間を電気信号が駆け抜けているだけ、反応、反射。私の望んだ挙動じゃない。電灯と変わらない。ぱちり、明かりが点く。ぱちり、明かりが消える。0から1へ、1から0へ。
私は無意味な明滅を繰り返していった。傍から見たらきっとひどく無様に映っただろう。だからこそ抵抗したいのかもしれなかった。
世界には私の息遣いだけがこだまする。空虚で寄る辺なくて、この世で最も密なコミュニケーションのはずなのにどこにも結びつかない、スタンドアローンなコンピュータにでもなった気分だった。
ヤツは一通り満足すると、私への興味を失ったように離れて立ち上がる。自分の机に向かい、ごそごそと乱暴に鞄の中身を取り出す音がする。明日の教科の準備をしているのだろう。鼻歌交じりなのが無神経でかんに障る。
「何で35の中年と恋してる~学校じゃ持ち切りだよそのことで」
私の脳は混乱から抜け出し、油膜に覆われたように滲んでいた目が、二段ベッドの上段の見慣れた染みをはっきりと視認できるようになったところで衣服を整え、乱れた呼吸と心拍を鎮めようと集中する。喘息の時と同じだ。だが容易にはいかず、いつも落ち着きを取り戻すのに時間がかかってしまう。それだけヤツの影響下に置かれているようでしゃくなのだけど。
「Crazy×12-3=me! つらいんだけど愚かだ~」
ぱちりと通学鞄の留め具をはめたヤツは、かかとを軸にしてくるりとベッドに向き直る。まだ動悸がするが仕方ない。私はベッドから起き上がり立とうとしたが、脚が痙攣して力が入らない。忌々しく息を吐き、目だけでヤツを捉えてその名を呼ぶ。
「ヒトミ」
二段ベッドの梯子に足をかけようとしていた彼女は身体を左に傾け、ベッドの下段に腰かけている私の顔を覗き見る。その目には何の色も浮かんでいない。先ほどまでの嵐のようなひとときが嘘みたいに、表情は静かに凪いでいる。
「何?」
「……人を傷つけるのはもうやめて」
すると彼女の片眉が持ち上がり、瞳が愉快そうに揺れ動く。色の伝でいうなら、これを喜色と呼ぶのだろうか。
「誰好きになろうといいじゃない~あたしの勝手よ下らない」
「ふざけないでちゃんと答えて」
歌い続ける彼女に、私は語気を荒げる。しかし彼女は真面目に取り合おうとしない。
「その”人”は君を指すの?」
歌いやめても依然としてからかう調子の彼女を睨めつけ、私は即座に否定する。
「違う。茅野さんや、あなたに好意を寄せる子たちを。
あなたは他人の好意をもてあそんでいるようにしか見えない」
しばし視線がぶつかった後、彼女はふっと目線を外して腕を組み、頭を傾けて頬杖をつく。そのままゆっくりと歩きながら私の正面に回り込んだ。いちいち芝居がかっている仕草に苛立ちながら返答を待っていると、彼女は横を向いたまま口を開いた。
「あー……そうか、忘れていたよ」
「……忘れていた?」
真意を測りかねて私が聞き返すと、彼女は細い指で顎をいじりながら続ける。
「うん。他人が傷つくってことを」
予想していなかった彼女の幼稚な返答に、私はその横顔をまじまじと見つめる。
「……自覚していないの?」
精一杯の非難を込めたが、彼女はその響きを意に介さない。
「んー……わたしにとっては大して重要じゃないかな。
まぁ、いい気持ちはしないだろうとは思う。でもそこまで。
そうだね、忘れていたというより、他人の為に考える気が起きなかった、だな。わたしの行動によって相手にどういう感情が生まれようが、あるいは消えようが、興味を持てないから。
他人ってそんなに重要?」
彼女は軽やかに言い放つと、私の目を見て薄く微笑んだ。鋭利な刀剣を思わせる冷たい三日月。
私はまた気分が悪くなっていくのを感じた。彼女――生天目ヒトミはそういう女だ。わかってはいたが……。
萎縮したくないという対抗心から、私は自分を奮い起こして勢いよく立ち上がる。
「……興味がなくても、他人の気持ちもちゃんと考えて。自分がされたら嫌でしょう?
これ以上他人を悲しませないで――」
「川澄くん、”我思う、ゆえに我あり”って言葉があるよね」
私の言葉を遮り、彼女は鳥のように両腕を仰々しく広げる。以前観た「嵐が丘」のヒースクリフの演技だ。
「すべてを疑えても、疑っている自分自身の存在は否定できないという哲学の命題。意味はここでは重要じゃないけど。
わたしにとって明確に”思って”いて、疑いようのない存在はわたしだけなんだよ。だから他人も同じように”思って”生きているかどうかは念頭にない、というかどうでもいい。
わたしがされたら嫌だとしても、他人は他人であってわたしじゃないし、自分の方が大事だね。
他人を優先させる気はないよ。わたしはわたしの思うまま、わたしの望むままにある。それだけ」
その刃は、先ほどよりも深々と私の胸に突き立てられた。肉と骨をえぐり、切っ先が気道に到達する。私は言葉を発せない。
あまりにも自己中心的すぎる愚かな言い逃れだ。間違っている。けれど何と言っていいのか考えがまとまらない。
彼女は愚かさを承知の上で、それを餌に他者を己の領分に誘い込み、上から踏みつけてあざ笑う性格だ。蟻地獄のように罠をしかけ、囚われた者の涙を啜る捕食者。今だって穴の底で加虐的に手招きしている。そんな相手を一体どう説得すればいいのか。他者の痛みを顧みず、最初から共感を踏みにじっている相手に理解を求める言葉は届くのか。
私が逡巡していると、彼女は飽きたようにポーズを解いて大きなあくびをし、断りもせずに室内灯を消してから「寝る」と言って二段ベッドの梯子を登っていった。
急速に熱を失っていく身体とともに、心も冷え冷えとしていく。いつも同じだ。言葉は違えど、彼女が私の諫言に耳を貸した試しはなかった。私に説き伏せられる相手ではないのかもしれない。しかしだからといってやめる訳にはいかない。でもあと何回こうして打ちのめされないといけないのだろう?
身体を蹂躙され精神にまで植えつけられた敗北感を前に、私は先の見えない暗闇の中でしばらく立ちすくんでいた。彼女の冷笑が切り取った空間だけが、毒々しい光彩をたたえて揺らめいている。
洗面台の二つの蛇口をひねり、お湯になるまで待ってからタオルを湿らせて固く絞る。腕を水滴が伝って落ち、靴下を濡らして不快感を覚える。
季節は4月中旬に差しかかろうとしていたが、高原に建つこの学生寮の一室はまだ春の手前で足踏みしていて、服をまとっていない肌に冷気が刺さる。今の身体の震えはそれが原因だろう。でも暖かい自室より、静謐な空気がたゆたうこちらの方が幾分ほっとする。彼女から離れているからそう感じるのかもしれないけれど。
胸に濡れたタオルを当てる。手足の末端が冷えていた所為でわからなかったのだが、お湯だと思っていたそれはまだ低温だったようだ。マッチの灯りほどのわずかな温もりは何の慰めにもならなかった。やれやれと軽く頭を振り、面倒なのでそのまま拭くことにする。
彼女が触れた部分を重点的に。まだ敏感になっている局部に布地が擦れるこの時間はたまらなくみじめで、何よりも苦痛だ。体力を奪われた身体は、今すぐベッドに潜り込みたいと疲労を訴えている。
だが後処理をおざなりにはできない。体液の残香がいかに他生徒の興味と噂を呼ぶか、よく身にしみている。その噂話を教えてきたのも他ならぬ彼女で、私は彼女が口にした時の愉悦を含ませた表情を忘れていない。
自身に関するいくつかの噂。趣味について、彼女との関係について、そして性的な行為について。事実もあればそうでない憶測もある。人から人へ伝わっていく間に尾ひれがつくケースも多いし、悪意によって歪められた流言も少なくない。面と向かって告げられた訳ではないので自分からいちいち否定して回ったりはしていないけれど、気分がいいものではなかった。時々すべてを投げ出したくなる瞬間もある。こうして彼女に触れられた後は特に。
しかし引けない。契約を守り、彼女の欲求が私に向いているうちは他の生徒が毒牙にかからなくて済む。私が我慢していればいい話なのだ。それで誰かを救えるのなら構わない。
数時間前に茅野さんに伝えられなかった言葉――私はもう誰にも彼女の犠牲になって欲しくない。餌食になるのは私が最後でありますようにと切に願う。
これが祈りなら、身を捧げるこの行為は生け贄なのかもしれなかった。原始的で野蛮で、それでもすがらなくてはいけない弱き人間の最後の希望。
私は洗面台の鏡を見る。おぼろげに映った裸体は、まだ人の形をしている。
別冊少女きぼんで連載している「百合少女交響曲♪」のサイドストーリーで、初めて書き上げる事ができた一次創作小説でした。
初見の方にはわかりづらくしてしまいましたが、もし良ければEp.6前後編だけでもお読みいただけますと幸いです。
http://rm307.html.xdomain.jp/sister/
タイトルの由来、作中で生天目先輩が語ったり歌ったりしている楽曲は岡村靖幸さんの「聖書(バイブル)」です。
https://open.spotify.com/track/1sre8TVrvGn4rUcIYueTnP
挿絵の構図は志村貴子さんの「青い花」2巻の表紙です。
初見の方にはわかりづらくしてしまいましたが、もし良ければEp.6前後編だけでもお読みいただけますと幸いです。
http://rm307.html.xdomain.jp/sister/
タイトルの由来、作中で生天目先輩が語ったり歌ったりしている楽曲は岡村靖幸さんの「聖書(バイブル)」です。
https://open.spotify.com/track/1sre8TVrvGn4rUcIYueTnP
挿絵の構図は志村貴子さんの「青い花」2巻の表紙です。