「その日」は、朝から気分が良くなかった。頭の上を、いや頭の中を黒雲が覆っているような、脳の隙間を水銀が満たし、いまにも膜の薄いところを突き破って垂れてくるような、朦朧とした頭をもたげて風呂場の扉を閉めた。シャワーを浴びている時だけが明晰だ、とたまに思う。眼鏡を外すその一瞬の安堵感。この世とソフトに縁を切ったような気持ちになる。半畳ほどの洗い場に跋扈した赤カビも長いこと使っていない浴槽の深く黒い無数の澱みのことも、承知しなおかつそれらを黙殺してシャンプーを手にとる。昨日、煙草を二本だけ吸ったためか髪の毛のコシがいくぶん弱い。もとより細い髪を恐るおそる手でほぐしてシャンプーをなじませていく。自分は詩人ではない。日常はリニアにつながるものだと思いなしている節がある。頭皮を触っていた手を離し、顔に近づけて抜けた毛を数えることに意味はあるだろうか。それが五本だから、十本だから何なのかは知らない。ただ書き割りの恐怖に型通りに怯えることを日々の手すさびとする自分のみじめさをどう笑おうか。日々の断片を拾い上げながら、いつかそれがドラマティックな散文的瞬間を形作ってゆくと信じているあさましさを、どう笑おうか。風呂から上がり、やはり気分は優れなかった。噴き出る熱い湯が鬱々とした気分を押し流しはしないかと思っていたが、普段のようにはいかなかった。きっと今日は虚無だからに違いない、と結論づけた。
歩数計アプリを開くと、充血した目のような臙脂色の日とその目を何度も水洗いした薄紅色の日とが並んでいる。充血した日は週に一、二度あり、一万歩を超えて歩いたことを表している。その他の日付を見ると、千歩や七百歩、八歩という日もあった。会社か印刷所へ出向く日は決まってカレンダーが充血する。それに見知らぬ公園を歩いた日、三つ向こうの駅の電器店へ歩いて向かった日などが加わっていた。経済は回り始めていると言うが、都市の空気はどうにも沈滞しているように思えた。何かを補修しながら回復させることが優先され、そこへ新しいことが割って入る余地が無かった。おかげでいち生活者に成り下がってしまった、滑稽にも無意識にそう感じていた。皮膚にまつわりついたそうした思いが上昇して黒雲を形づくった。黒雲は水銀の雨を降らせた。
「その日」も歩数計はおそらく五歩ないし七歩を数え上げていた。ゆっくりと生き、リラックスすることを「ゆっくりと過ごす」「リラックスして過ごす」と予定表にいちいち書き込まなければ心地よく生きられぬ身体になってしまったのかもしれない。勤務時間とクッションに身体を預ける時間とが緩やかに手をつなぎ、自分とよく似た醜い笑いを作っている。いちど目を開けて息を吸う。やはり眼鏡をはずした視界は良好で、眼精疲労の気もあったのだろう、視界を明確に認識していた時の自分よりもいくぶん頭は軽くなった。やおら起き上がってみた。視界の後方から、くぐもった声がした。
「ぼくだよ」
振り向かなくてもわかる。いや、振り向いたところでベッドの向こうはすぐに壁と窓があるだけだ。
「ずいぶんと久しぶりに思うのだけれど」とただ考えついたことだけを述べた。
「そうだね」カギカッコをつけるべきかどうか、いま迷う。もはやこれは話し言葉ではないように思うから。
それは意識のどこかからあくがれ出てきた、ニッカのおじさんであった。大学時代に書いていた戯曲の「すすきの物語」から、不意に出てきたのであった。