岬の病院
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教室では普段どおりの授業が行われている。今は算数の時間だった。先生が教壇に立ち、クラスの十人にも満たない子供達を相手にして数式の説明などしている。その中に岬はいた。
他の生徒が欠伸をしたり、コソコソ話をしたり、黒板に向かっている先生を見ていないと思って指差ししたりしているところ、岬は突き刺すような目で黒板を凝視し、ノートに内容を書き取っている。教室のサイズの割に少ない生徒数なのだが、それ故に子供達の間にはすでに濃い関係性が出来上がっており、机の間隔を広く取ることなく、教室の中央に密集するような形になっている。だが、岬だけは教室の片隅に机を置いて座っている。
その周りだけ違う空気のようだった。
カ、カ、カ、カ、カ。
チョークを黒板に叩きつける音。
担任の先生は女性とはいえ腕が太く、黒板に書く字も荒々しい。その一方、記述は詳細であり、岬にとっては嬉しいことだった。
先生の口から発せられる音と、余すことなく書き取ったノートの記述を併せて見れば、おおよその授業の内容を理解することができた。人が口から発することを音として捉える岬にとっては、それを文字に置き換えることこそが必要であり、大袈裟ではなく“この世界”で日々を過ごすために必要な最低限の行為だった。
岬が母親とともに祖父の暮らす家に越してきて、早三ヶ月が過ぎようとしていた。
岬は小学校から帰ると、必ず靴を揃えてから、洗面所で手洗いうがいを済ませる。祖父にただいまの報告をするのはそれからである。その後は居間でテレビで決まった三〇分番組を観てから宿題を開始する。宿題は長くとも一時間以内に片付く。そこから母親がパートの仕事から帰ってくるまでの間は、自分の部屋で椅子に座って小説を読むのが常だった。
与えられた部屋は初め埃臭く感じられて、岬は若干の抵抗を覚えた。しかし今はそれにも慣れ、自分の匂いだと思えるようにもなった。ここは昔誰かの部屋であったらしく、本棚にはたくさんの文庫本が残されていて、岬はこの部屋で退屈さを感じたことがなかった。たくさんの本を読んで、内容を頭に刻み込んでいく作業は岬にとって至福の時であり、これをもし取り上げられてしまうとしたら自分はどうなるのか、と思うことさえあった。
そうして本に没頭していると、二度三度と目の前が明滅してから、部屋がパッと明るくなった。岬が顔を上げると、そこに祖父の姿があった。窓の外を見ると、空は薄明かりになっていた。部屋の明かりをつけてくれたのだった。祖父の口から音が発せられたので、岬は本に栞を挟んで一旦さようならをした。
祖父は部屋の椅子に座って、岬の目を見て口を開き続けた。岬にとっての祖父は、お正月や夏休みに会う母親の父親という認識しかなかったが、この三ヶ月余りで印象が劇的に変貌した。こんなに自分にとって心地の良い音色をくれる人だとは知らなかったのだった。祖父の口から奏でられる音は岬の耳にすうっと入り込んでくるが、それでいて抜けてはいかなかった。他の人とは違う感じがした。祖父の発する音だけは、ずっと自分の中に留まり続けてくれるように思えて、岬はつい祖父の太ももの上に座って甘えてしまうこともあった。
お前は親のせいでこんなところに連れてこられて、つらいこともあるだろう。泣きたくなることもあるかもしれない。そういうときは泣いていいんだ。思うままにすればいい。
祖父の口から発せられた音は、こう認識された。岬には、これは優しい音だと感じられた。
この正体は、いったいなんなのだろう。本を読み続けていけば、いつか分かるのだろうか。あるいは、祖父の近くに居続けていれば——。
玄関から戸を開け閉めする音がした。続けて母親の発するけたたましい音が鳴った。この後は母親がパート先で仕入れてきた夕飯を食べ、お風呂に入り、歯を磨き、部屋で一人で寝る。
岬の一日はこうやって終わる。