この地を訪れるのは人生で二度目になる。前回が啓青五年だったから、もう十年近く前だ。ここ鳥山県鳥山市は観光業を中心に栄える地方都市で、主な観光資源は「鳥卵(ちょうらん)」「楕山」などとして知られる山のように巨大な卵型の、何と言えばよいだろうか、まあ、有名なアレである。わざわざ説明するまでもないだろう。
この卵は街の中心に位置している、というか、この卵を中心に街が形成されたと言った方がより正しいのだろう。卵の周りには代々神事を司ってきた社の数々が立ち並び、その壮観な眺めをひと目見ようと全国から観光客が訪れる。
地元では古くから「かいさん」(おそらく「貝さん」で、つまり、かつては貝として見られていたようだ)として信仰の対象や観光の要として親しまれてきた。現在、信仰は形骸化してしまっているが、年に一度行われる「かいさん祭り」でその名残を見ることができる。
この祭りは卵の回りに火を焚いて一晩中騒ぎ立てるというもので、酒を飲んだり食べ物を食べたりして楽しく過ごす。今年の祭りは今日の夕方ごろから始まる予定だ。
さらに、今年は特別なことがあるらしい。ここを長期休暇の旅行先に決めたのもそれが理由だった。
「ああ、こんにちは、手毛林さん」
そう私に声をかけたのは、十年前にここを訪れた際にすっかり意気投合し、その後毎年手紙のやり取りをしている河星という男だった。
「お久しぶりです、河星さん。先日いただいた新作のまんじゅう、ありがとうございました」
彼は毎年この地の名物・卵まんじゅうを送ってくれる。卵といっても、本当に卵が入っているわけではなく、もちろん、あの卵型の巨大なアレの形を模した、よくある温泉地のまんじゅうである。さほど代わり映えはしない。
「どうでしたか、隠し味に蜥蜴の尻尾を入れてみたんですよ、フフフ」
彼は旅館の主人で、オリジナルのまんじゅうをつくっている。最近はどうやら迷走しているらしい。
「いやあ……そりゃもう……おいしかったですよ、ええ」
「それは良かった。ああ、手毛林さんが送ってくれた梨も、いつも通りみずみずしくて大変おいしかったですよ」
私は代わりに梨をおくっている。
「それじゃあ、今日はよろしくお願いします」
卵が孵化するかもしれない、という情報を私にくれたのはこの河星さんだった。
今では全国で話題になっているものの、私が河星さんからの手紙でこのことを知ったのは今日から遡ること約一年半前。私が軽い気持ちで、それはぜひ見てみたいものだ、と返信すると、河星さんの経営する旅館の部屋を用意してくれることになった。あの全国的に有名な卵が割れて中から何かが出てくるというのだから、私としても興味をそそられたし、非常にありがたい話であった。
「さあ、行きましょうか」という河星さんの言葉を皮切りに、彼の旅館へと共に足を進める。
「ところで、河星さん。孵化ってことは、本当にあれは卵だったんですね。比喩じゃなく」
「ええ、孵化って言うくらいですからね」
「どこから出てきた情報なんでしょう」
「いえね、はっきりとした出所はちょっと言えないんですが、こういう仕事してますと、こう、勝手に情報が入ってくるというか。暖火所の連中とも知り合いでしてね」
「なるほど」
暖火所というのは卵の周りで火を焚く巨大な施設である。火を焚くのは年に一度、祭りの日だけだが、準備には相当な時間がかかるそうで、管理もそれなりに大変らしい。
「まあでも、何かが蠢いてるってのは、本当らしいですよ」と河星さん。
それは私も知っていた。度重なる地震があの卵を震源地としてここ数ヶ月この地を襲っていることは報道にもあったのだ。
「あれが孵化したら、やっぱり何か出てくるんですかね」
「そりゃ、卵ですからね、何かは出てくるでしょうね。何も出てこなかったら、拍子抜けしちゃいますよ」
「何が出てくるんでしょうね」
「さあ、やっぱり鳥じゃないですか? なんせここは鳥山県ですからね」
などと話しながら街並みを歩いていると、そこもかしこも人でいっぱいであることに気づいた。
「ここ数日の間に観光客が押し寄せてきて、もうこちらも大変ですわ」
「すいません……こんな時期に無理を言ってしまって」
「いえいえ、こちらからの申し出ですから。それに私と手毛林さんの仲じゃないですか。その代わり……来年からもっと高級なもの寄越してくださいよ、梨なんかじゃなく。ガハハ」
「……やっぱり観光客が激増しているんですかね」微妙に傷つくことを言ってくる河星さんを無視し、昨今の状況なんかを尋ねてみる。
「そりゃね、どこもかしこもいっぱい。民泊までしていっぱいだからロビーまで貸し出してますよ。それでもいっぱいだから道端で寝てる観光客がいまちょうど問題になっとります。ほら、ちょうどそこ、寝てる人いるでしょ」
「本当ですね。すごいな」
道端に寝そべっているのは学生と思しき男性二名。
彼らを尻目に、
「ただね、ここだけの話、」と、途端に河星さんは声を潜めて言った。「地元の住民の方では、むしろ逃げていく人も多いんですよ」
「へえ、なぜですか。やっぱり地震が怖いんでしょうか」
「ええ、ええ、それも確かにあります。でもね、う~ん、これ言ってもいいのかな」
「何ですか、もったいぶらずに教えてくださいよ」
「いやね、地元民の間じゃ有名な話なんですがね、あの卵、我々は『かいさん』って呼んどりますがね、アレが割れた暁にゃ、何か悪いことが起こるんじゃないかともっぱらの噂なんですよ」
「噂、ですか」
「単なる噂じゃあない。これがね、けっこう揉めたんですよ。暖火所や社に今年の祭りをやめるよう直談判しに行った奴もいたぐらいでね。温めるのを止めたら孵化しないんじゃないかと推測したんでしょうけどね。まあ、ひと騒ぎですわ」
「温めるのをやめたら孵化しないんですか?」
「いや、詳しくは知りませんよ。ただ、そりゃ、卵だったらそうなんじゃないの、という安直な考えでしょうね。まあ、不安でしょうがないんで何かしないと気が済まないんでしょう。実際のところ何も起きずにいつも通りの日常が続いていくだけだと思いますよ」そう言う河星の声は、ある種、気休めのようにも聞こえた。
「そうですかね」
「そうですよ。まあ、こちらにとっちゃ儲かりゃいいって話ですけどね」
そんなふうに勝手なことをしゃべり合っているうちに旅館に着いた。
「では改めて、ようこそいらっしゃいました、手毛林さん。ごゆっくりおくつろぎください」
瞬時に旅館の経営者としての顔へ切り替えた河星さんに一礼した後、私は仲居さんの案内に従って部屋へと向かった。
私が泊まる部屋は「まきの間」というらしい。
仲居さんによると「まき」とは「魔輝」であり、つまるところあの巨大な卵の発する魔法のパワー的な何かを指すらしい。実際に魔法のパワーが放出されているわけではないとは思うが、そういう伝承があるようで、この地ならではの名称だと思った。
さて部屋に入ろうと扉を開けようとするが、建付けが悪いのかなかなか開かない。
「なかなか開きませんね」
「すいませんね。度重なる地震のせいで扉が変形してしまっとりまして……フンッ!」と力強く踏ん張る仲居さん。「うりゃぁぁああああ!」
開いた。
女性にそのような声を出させてしまったのを申し訳なく思った私は、
「すいません、踏ん張らせてしまって」といちおう謝っておく。
「いえ、これも仕事ですから」と言いながら、仲居さんは先ほどたくましい声を出したのと同じ人とは思えないような足取りで華麗に立ち去っていった。
なかなか迫力のある人だ。
まきの間にはバルコニーがあり、そこからはあの卵を一望できる。ひょっとすると、この旅館の中で最も上等な部屋じゃなかろうか。本当にこんな良い部屋をいただいて良かったのだろうかと思いつつも、一生に一度の経験ということで、存分に楽しませてもらうことにした。
現在の時刻は午後三時。祭りが始まるのが午後五時だから、まだ時間はある。その間に温泉でも入ろう。
温泉から上がっていよいよ祭りの時間だ、と酒と少々のつまみを用意しつつバルコニーに腰をかけていると、河星さんが私の部屋にやってきた。
「あのう、少しお願いというか、ちょっとした頼みがあるんですがね……」
もうすぐ祭りが始まるという時刻に一体何だろう。
「何です?」
「いや、あの、私もその、バルコニーから、その、かいさん見たいかなあ、とか思いましてね。卵の孵化なんて一生に一度もないような大イベントですから」
なんだ、そういうことか。最初からそういうつもりだったのだ。この人はもともと祭りをこの部屋から見物するつもりで空けていたのだ。そこに、せっかくだからと私を入れてくれたというわけか。完全に身内扱いじゃないか。
「ええ、もちろんいいですよ。こちらこそ、こんないい部屋に泊めていただいて……」と言い終わらぬうちに、
「みんな、入れ入れ」と、河星さんが後ろの方を向いて誰かに呼びかけるので、何事かと思って構えていると、仲居、料理長、見習い、女将、若女将などなどが続々と部屋に入ってくる。
宴会でもするつもりか。従業員勢ぞろいじゃないか。
仕事はいいのか仕事は。
「お客さんは皆さん好き勝手やってますから。私たちが接客しなくても大丈夫ですよ」とニヤニヤ顔の女将さん。
はあ、こりゃ楽しくなりそうだ。
祭りは、まず笛の音で始まる。かつて神事を司った司(つかさ)と呼ばれる人たちが一斉に笛を吹く。続いて暖火所の所員たちが何か呪文を唱えながら火を焚くらしい。
「あれはね、こう言っているんですよ」と河星さんが丁寧に解説してくれたが、何と言っているのかはさっぱりわからなかった。
次に、卵の周りをひたすら練り歩く神輿が動き出す。今となっては、神輿というよりはパレードと言った方が近いだろう。このパレードは一晩中続けられ、夜が明ける頃にようやく終わるらしい。
近年ではパレードが始まって数分ほど経つと、花火が盛大に打ち上ったり、卵に映像を投影したりして祭りを豊かに彩る。宗教的・伝統的理由から卵にペイントをするのは禁止されているようだが、映像の投影はいいらしい。いまいち基準がわからない。案外いいかげんなものかもしれない。
今年の花火は盛大なもので、鳥山県の力の入れようを感じた。
「まあ、うちらの県にはこれしかありませんからね」と言う河星さんの顔にはどこか哀愁が漂っていた。
「何言ってんだい、鳥山県は一番の県じゃぁ! 皇帝陛下も何度もいらっしゃってんだよ!」と横から言ってきたのは若女将さん。完全に酔っぱらっている。
「そうだそうだ」と賛同の声が聞こえる。
「へえ、そんな尊い方が。今日はいらっしゃってないんですかね」
「まあさすがにここまで観光客が押し寄せるとね。何があるかわからないから」と河星さん。
「汗国からは将軍もいらっしゃったことがあるし、栄国からは王女さまがいらっしゃったことだってあるんですから」と誇らしそうに若女将さんが言った。一升瓶を片手に持っている。
あの卵は、私が思っていたよりも世界的に有名なものらしい。そんな卵の孵化という大イベントをこんな特等席から見せてもらって本当にいいのだろうか。
などと思っていると若女将がいつの間にか姿を消している。
次々に酒を飲み、料理を食う皆さん。客である私よりも食べ、そして飲んでいた。
祭りが一段落ついた頃にはすっかり出来上がっていた。別に気にはならないが(というか、私も特別にこんな良い部屋に泊めてもらっている身だし、感謝はしている。)、本当にこんなバカ騒ぎしていいのか、という気分にはなってくる。
そんな私の心配をよそに、さらに宴会は盛り上がっていく。酒を運ぶ手も、騒がしくしゃべる口も、緩むことがない。
「屋台行ってきましたぁ!」と勢いよく扉を開けたのは、いつの間にか姿が見えなくなっていた若女将である。どこに行っていたのかと思えば、卵の周りに無数に展開されている屋台の群れに赴いていたらしい。先ほどよりもさらに酔っぱらっている。
「いよっ待ってました!」「よっしゃ!」「まだまだ食うぞ」
この人たちこんなことをしていて大丈夫なのか。今こそ稼ぎ時じゃないのか。
「手毛林さん、今このひとたち大丈夫なのか、って思ったでしょ」河星さんが真っ赤な顔をしてごきげんな顔で言ってくる。酒臭い。
「いえいえ、まったくそんなつもりは……いや、少し思いましたかね」私も少し酔っぱらっていた。
「ガハハハハハハ」
何が面白いのかはわからないが、私も大いに笑った。
「ところで、卵はいつ孵化するんですかね」
「フカ? フカ? え、何、フカって?」
「相当酔っぱらってますね。卵がかえることですよ。孵化、孵化です」
「ああ! 『孵化』って言ったのか。孵化ね。カタカナの方のフカかと思っちゃった」
「何ですかカタカナの方のフカって。で、いつ孵化するんですか」
「そんな何回も『孵化』って聞くとなんか変な感じに聞こえてきたな」
「いいですから早く教えてくださいよ」
「いやね、祭りが終わるのは日が昇り始める頃なんですがね、そのくらいに卵がパカッと割れるんじゃないかと、噂では聞いています、イヒヒヒ」
じゃあまだ先だな。まだ日は跨いでいないし、時間には余裕がある。少しぐらい寝てもいいか。
ところでこの人たち、もしや夜通し飲んで騒ぐつもりなのか。
だんだん宴会の熱気が堪えてきて、少し涼もうとバルコニーに出ることにした。
背後で繰り広げられる宴会芸の雑音を背景に、私はぼんやりと酒を片手にあの巨大な卵を見ていた。
「綺麗でしょう」いつの間にか河星さんが右隣りにいた。
「ええ、美しい……」
卵の表面に映えるオレンジ色、周囲をゆっくりと動くパレードの一定のリズムが妙に眠気を誘う。
「何百年も前からこの地にあるんですよ」
「ええ」
「実は何度もね、あの卵を工業利用できないかという話が持ち上がってきたんですよ」
「へえ」バルコニーに当たる緩やかな風が心地よい。
「新技術が開発されるたびに殻の部分を削り取ろうと画策されてきました。もちろん、宗教的な反発は大きかったらしいですよ。でもね、いつからかそれ自体が儀式みたいになっちゃって、新しいドリルができるたびに卵に当てる、新しい爆薬ができるたびに卵の付近で爆発させる、ということが何度も何度も繰り返されてきました。それでもあの卵は割れなかったんですよ。それが急に割れるだなんて、とても信じられませんよ。急にそんなこと言われても、我々はどうしたらいいんでしょうかね」
鳥山市に住む人間にとって、卵は日常の風景だった。それどころか、あれを中心に経済が、生活が回っているのだ。それが、明日からなくなります、と言われたところでどうすることもできないのは当たり前だ。彼らが酒を飲んで騒ぎたくなる気持ちもわかる。
もう、何かもが明日から変わるかもしれない。あらゆることがこれまでのようではいられなくなるかもしれない。彼らにとっては、今日の祭りは卵のある日常の、最後の日なのである。
そんなことを考えながら、私は重くなっていく瞼にだんだんと抗うことができなくなり、いつの間にか眠りについていた。
「手毛林さん、起きて、手毛林さん」河星さんの声だ。
「ん……はい」
少し肌寒い。バルコニーでそのまま寝ていたのか。
パレードは先ほど終わったようで、周囲にはまだ屋台の跡と、山車や神輿の残骸がわずかに残っていた。目を凝らすと見える無数の点は、私たちと同じように飲み明かして道端で寝ている人たちか。
日が昇りつつある。朝の光に満たされて、周囲は青っぽく見えた。
部屋の中からはいびきが聞こえる。まだ誰か寝ているようだ。
「もうすぐですかね、孵化」と尋ねても河星さんは無言だった。
朝の静寂に誰かのいびきの音だけが妙に響く。少ししてその静寂を打ち破る何かの音がした。卵が割れる音だ。その低い音でみんな目を覚ましたようだ。「うう……頭痛い」と誰かのつぶやきが聞こえた。
私たちは卵の方に目を向ける。卵の上の方が割れて何かが顔を出していた。
「ほんとに卵だったんだ……」と、またしても誰かのつぶやき。
目を凝らしてよく見ると、頭のような部分と、それに目のようなものがついているのを確認できた。その先は鋭く尖っていて、くちばしのように見えなくもない。ということはやはり鳥なのだろうか。
期待と不安が空気を満たす。何が出てきて、何をしてくれるのだろう。
今日からこの町はどうなってしまうのだろう。
卵が割れていく轟音の中で、中の何かが徐々に全体像を現していく。
「何あの……何?」「デカいな……」「鳥か?」「まさか本当にかえるとはな」「写真撮っとこ」みな口々に感想を言っている。
姿を現したのは鳥とも爬虫類ともつかぬ巨大な翼を持った何かだった。
翼を持った謎の巨大生物はむずむずと身体を動かした後、翼をゆっくりといっぱいに広げ、街に巨大な影を投げかけた。街のあちこちから歓声とも悲鳴ともつかぬ声が聞こえてくる。
「これは大変かもしれない」
私はこれから起こることを予測し、急いで部屋の中に入るよう河星さんや他の人たちを促した。
「窓を閉めて、できるだけ窓から離れて」
案の定、続いて起こったのは怪獣の羽ばたきによる暴風だった。
バルコニー上の空き瓶、空き缶、椅子、机が吹き飛んでいく。窓が激しく揺れる。建物が大きく揺さぶられる。
この場所でこれほどの猛風だ。卵の直近ではどうなっていることだろう。
「手毛林さん大丈夫ですか。お客様に何かあったら」
「私は大丈夫です。皆さんこそ大丈夫ですか」
激しい揺れにみなうずくまったり、四つん這いになったりして何とか持ちこたえていた。
ほどなくして風はやみ、窓からは高く空へと舞い上がる巨大生物の姿が見えた。みな呆然と窓の外を眺めるしかなかった。
「何なんでしょうね、あれは」
「さあ、わかりません」
「どこに行くんでしょうね」
「さあ、宇宙にでも行くつもりなんですかね」
宇宙、という言葉が出たのは自分としても意外だったが、高く遠くへと飛び去って行く雄大な生き物の姿を見て、そう思うのも当然と言えば当然だったのかもしれない。
かつて卵だった生き物は見る見るうちに小さくなっていく。驚くほど自由に、嘘みたいに美しく空を舞っている。
私たち人間を歯牙にもかけない恐ろしいまでの冷淡さで、私たち人間を置き去りにして。
見上げた空に巨大生物が全く見えなくなったころ、誰かが正気に戻ったように「さ、片付けしないとな」と面倒くさそうに言った。