Neetel Inside ニートノベル
表紙

エスト
少年

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寒い寒い、真っ暗な森を走り続けている。
息が切れて苦しいけれど、つかまってまた暗い場所に戻るのはもうたくさんだった。
友達を捨ててでも、遠くへ遠くへ逃げた。
森の中で四方八方から聞こえる音が怖くなって、隠れられる木の根元を見つけて息を整えた。
少し休むつもりが、すっかり眠ってしまった。
目が覚めた時には日が昇って、周囲が見えるようになっていたから、
もう少しだけ先に、とだるい体に鞭を打った。

森を抜けると、目の前は道だった。
馬車が通って行くのが見えて、そちらの方向になんとなくついていった。
丘を越えると、薄い水色の空に、金色の絨毯のような麦畑が広がっていて、
天国に来た気持ちになった。
重い足を引きずるようにして畑に近づく。
誰かが自分に声をかける。
振り返ると、驚いた様子のラエおばあさんだった。



 ゼルは目を覚まします。
身体が鉛になったように重たく感じ、すっかり両腕は激しい筋肉痛になっていました。
ぐしゃぐしゃの掛け布団をみて、自分がいかに寝相が悪かったのかを実感します。
目をこすりながら身体を起こし、ベッドに座ります。
大きくため息をついて、机の時計を見ます。

「…じゅ、10時…?」

 寝坊です。
普段、8時には朝食を食べ、9時には業務を開始している時間です。
血の気が引いて、今自分がしなければならないことを脳内で羅列しながらカーテンをひらき、
クロゼットを猛スピードで開けて服を探します。
 まずはディルトレイの部屋に行って謝罪しなければなりません。
イグジクトが愉快そうにあざ笑ってくる様子が目に浮かびます。
 パジャマを捨てるように脱いで、今日の予定を思い出しながらシャツのボタンを急いで留めますが、
留め終わりそうなところで段違いになっていることに気づき、
声をあげながらもう一度留めなおします。
 キュロットと靴下を履いてベストに腕を通し、髪を櫛でとかしたら、
全身鏡で足りないものがないか確認します。
 ハンカチをポケットに入れて、クラバットをリボン結びにすると、もう一度鏡で全身を確認し、
写真に「いってきます」と声をかけ、顔を洗いに行こうとドアを勢い良く開きます。
ぼん、と鈍い音がします。
ドアを開けようとしたオルガの顔と、大急ぎで部屋を出るゼルの肩がぶつかってしまったようでした。

「は!オルガ様!大丈夫ですか!」
「も、問題ありません…」

鼻をおさえて痛そうにしているオルガの顔を覗き込みます。

「すみません、急いでいたものですから…!」
「大丈夫ですよ、ゼル様。」

ふと横を見ると、サンドイッチとコーヒーカップ、それからお水の入ったガラスのコップと
おしぼりが乗ったワゴンがあります。

「これは…自分に?」
「ええ。」
「ありがとうございます…でも今は急いでいるので後でいただきます。」
「いえ、ディルトレイ様から、午前中は休んでいいと言伝を預かっておりますから、
 ゆっくり召し上がってください。」
「え?」
「昨日は嫌いな暗い場所で、怖い思いばかりで大変だっただろう、と。」

オルガは鼻をさするのをやめて、さあどうぞ、とお盆を渡してきます。
ゼルはそれを受け取って、少し困ったようにありがとうございます、とお礼を言いました。
お盆の上のサンドイッチを見つめて、はっと顔をあげます。

「あの、オルガ様はイーギル様の様子をご存じですか?」
「ええ、私が二時間前ほどに病棟へ様子を見に行ったときは、穏やかに眠っておられましたよ。」
「そうですか…よかったです。」
「あとでお顔を見に行ってはいかがですか。」
「…そうですね、そうします。」

ゼルはやっと安心して微笑みます。
それにつられてか、赤い鼻のオルガも微笑みます。

「お手数ですけど、食べ終わったらお盆と食器はキッチンに返しに来てください。
 お昼はきちんとホールにいらしてくださいね。その後に打合せがしたいとの事でしたよ。」
「わかりました。」

オルガがワゴンを押して歩いていくのを見送って、ゼルは部屋に戻ります。
机にお盆を置いて、どさりと椅子に座り、うなだれてから大きな大きなため息をつきます。

「…いろいろよかった…」

こつんと椅子を動かして座り直し、ひんやりとしたおしぼりで手を拭いて、手を合わせます。

「イースを守りし崖よ、風よ、土よ、恵みに感謝いたします。」

お祈りの言葉をつぶやくと、サンドイッチにかぶりつきます。

「うまあ…」

ただのハムとレタス、トマトとマヨネーズのシンプルなサンドイッチが
いつもよりもおいしく感じます。
すすったコーヒーで、舌の先をちょこっとやけどします。

 サンドイッチを食べ終わって、一通り身だしなみをきちんと整え直して、
食器を戻しにキッチンへ向かいます。
洗い物をしているメイドに食器を渡して、今度はディルトレイの執務室へ向かうと、
ちょうど執事が執務室の鍵を閉めている所でした。
ディルトレイはキシェのラボに行っていると聞いて、今度は病棟と併設しているラボに向かいます。

 ラボと病棟は、お城とは別の建物でした。
外に出ると、太陽には雲がかかっていますが、まだ雨が降りそうな様子はありません。
ざあっと大きく風が吹くと、どこからともなく広葉樹の葉っぱが飛んできます。

 ラボを尋ねると、白衣を着た研究者が出迎えてくれました。
中に入ると、少し広いエントランスからまっすぐ伸びた廊下から、
たくさんの小部屋につながっているようで、いくつか開いている扉から中を見ると、
本や書類が積まれたり、薬棚やフラスコ、ビーカーが並んだ研究室が見えます。
少し広いラウンジを出て、植物園を抜けて、やっとキシェのラボに到着します。

     

 研究者が木製の重厚な扉をノックすると、見た目に反して軽い音を立てて開き、
中からカヨが顔を出します。
ゼルを見ると、どうぞ、と中に入れてくれました。
 部屋の中は、よくわからない薬品の瓶や道具などが、少しのズレもなく整然と並んでいて、
左奥のデスクにはたくさんの書類が積まれ、難解な数式の書いた大きな黒板が壁に掛けられています。
デスクに向かって座っているのは、鼻歌を歌ったりぶつぶつとつぶやいたりして楽しそうに何かに取り組んでいるキシェです。

 キシェは、天才でした。
若干9歳には医学や錬金術についてを理解し、”博士”となった14歳の今は、
既に普通の人々には追い付けない領域へと上り詰めつつあります。
ですが、その純粋さと能力は気味悪がられ、なかなか社会になじめないところに、
噂を聞いて目を付けたのがディルトレイでした。
 そして、カヨは”元 博士”です。
彼女も25歳と若いながら素晴らしい錬金術者であり、医者です。
しかし、恐ろしいほどに何もかもをインプットし、
応用してアウトプットするキシェには勝てないと判断し、自ら円卓の席を譲りました。
 キシェは、分解・思考・構成は出来ましたが、実践と人間関係の構築が苦手だったので、
上手にカヨがフォローすることでイースの医学も、錬金術も、飛躍的に進みました。

 カヨは中へどうぞ、と手で中に進むよう案内してくれました。
部屋に入って右手側にはサンルームがあり、その真ん中に設置された白いカフェテーブルに
数枚の書類を広げてディルトレイが座っていました。
中庭へ出られるガラスのドアが開いていて、時々風で書類がひらひらとめくれます。

「おや、ゼル。午前中は休んでいていいと伝わっていなかったかな。」
「オルガ様から聞いています。一応問題ないことをお伝えしたかったのと、お礼を言いたくて…」
「そうか、わざわざありがとう。イーギルの様子は見に行ったかい?」
「いえ、これからです。」
「ゼル、一杯くらいお茶飲んでく?」

カヨはホーローの白いポットに水を入れて、
実験でいつも使用しているであろう小さなガス台に乗せて、火をつけています。

「あ、いや…自分はすぐに病棟へ行くので。」
「あらそう。でもお見舞いするほど弱ってないよ、イーギル。一応経過観察で居るけど。」

ディルトレイの目の前の椅子に座り、風で乱れた書類を、トントンと整えます。

「正直、医師やナースが様子を無駄に見に行こうとするから早く出て行ってほしい。」
「ああ、想像できます。」
「ふふ」

女性たちが病室に押しかける姿を想像して、ゼルとディルトレイは少し笑います。

「じゃあ、自分は病棟に向かいます。」
「そうだね、もうすぐキシェの集中が切れるから、その前に行かないと捕まるよ。」
「はい。それでは、ディルトレイ様は昼食でまた。」
「ああ」

ディルトレイが微笑んで頷くのをみて、ドアのほうへ向かいます。
ガチャリとドアを開いたとき、

「ゼル!どこいくの!」

突然、悲鳴のような声が響きます。
後ろから身体をがしりと掴まれて振り返ると、キシェが悲しそうな顔でしがみついています。
カヨはしまった、という顔をして、引きはがしにかかります。

「あいたたた」
「ほらキシェ、ゼルはイーギルのところにお見舞いに行きたいんだって。離してあげな。」
「イーギルは健康だよ!」
「あっはっは、たしかに。」
「あいててて」

正論に思わず笑ってしまうカヨでしたが、それでも引きはがす力を弱めません。
ゼルは筋肉痛の腕が引っ張られて、すぽん、と肩が抜けてしまいそうだし、
おなかのあたりも痛いしで、もみくちゃになります。

「ほら、ディルトレイ様がキシェに会いに来てるんだよ。
 お話聞きたいって来てるんだよ?」

 キシェがくるりとサンルームを見ると、
ディルトレイが優雅に座って手招きしているのを見てパッとゼルの腕を離して駆け寄ります。
さっきまでの悲しい顔が嘘のようにニコニコしながらディルトレイと話し始めます。
カヨはゼルに”早く行け”とジェスチャーをしたので、掴まれた腕をさすりながら部屋を出ました。

 病棟へは、ラボを出ずに渡り廊下を進むと到着します。
中は広々としており、昔戦争をしていたころは負傷兵でいっぱいになったといいます。
今は平和が続いているためか埋まることはほとんどなく、
お城で働く人々の診療はもちろん、重病者や特殊な病気の人などが中心に入院していること以外は、
普通の病院とは何ら変わりませんでした。
 ゼルが受付に行くと、マスクをした男性ナースがすぐにイーギルの病室を教えてくれました。
3階に上がって、階段すぐの右側の部屋、ここがイーギルの病室です。
 ノックをして中から返事が聞こえたのを確認してドアを開けます。
ベッドに座って本を読みながらウサギ型に切られたリンゴをたべるイーギルがいました。
なんだかやたらとお花や差し入れの入った箱に囲まれているような気がします。

「ゼル!」

イーギルは、顔を見ると嬉しそうにして本を閉じ、リンゴをサイドテーブルにあるお皿に置くと
どうぞ、とベッド横の椅子を引っ張って、座るように指をさします。
ゼルは静かに椅子に座ります。

「お身体はどうですか。」
「うん、なんともないよ。ひっかき傷も化膿してないし。ゼルは?」
「自分もなんともないです。」
「そうか。昨日思いっきり蹴り上げたから打撲になってないかなって思ったんだけど。」

確かに、キシェに引っ張られているとき、おなかも痛かったような気がします。
おへその上あたりをぽん、と触ってみると、確かに痛みがあります。
二人でおなかを確認してみると、確かに赤黒く内出血ができていました。
イーギルは”鍛錬がたりないな”と言いながら、おなかを慎重にしまうゼルを見て楽しそうに笑います。

「まだ入院は必要そうなんですか?」
「今日一日問題なければもう出ていいって。
 でも呼吸がまだ完全に元通りじゃないのと、あの少年の血が傷口に触れているから、
 まだ経過観察は必要みたい。」
「あの少年…」

昨日、自分にとびかかってきた細い体の少年、甘い香り。
肩を刺され、耳を貫かれ、脚を切られても怯まない敵意。
今思い出しても恐怖を感じるほどの身体能力。

     

「あの子…人間なんでしょうか。」
「ウェアウルフにしては理性があったから、普通の人間じゃないかなと思うけど。」
「なんか、目がどうたらとか…言われたような気がします。」
「目?」
「はい」
「僕は殺してやる、みたいなことは言われたけど。」

あはは、と怖がるそぶりもなく笑うイーギルを見ながら、なんとなく引っかかった気がしました。
少しの間考え込み、無言の間ができていたことにハッとします。

「あっ、すみません。」
「ううん、後でどうせ昨日のことについて会議があるだろうから、言ってみなよ。」
「はい、そうします。…もうそろそろ、戻ります。」
「そう?じゃあ、また城でね。」

ゼルはスッと立ち上がって椅子を元の場所に戻すと会釈します。
イーギルが微笑んだままひらひらと手を振ったのを見て、病室から出ます。
ドアをぱたりとしめて小さなため息をつくと、
ふと目の前に人がいることに気が付きます。

「あれ、マージュ様。」

壁に寄りかかって、腕を組むマージュでした。

「随分しゃべっていたんだな。」
「はい、つい…マージュ様もお見舞いですか?」
「絶対しない。変な勘違いをされても困る。」

壁に寄りかかるのをやめて、階段のほうへ歩き出すマージュに、
ゼルもついていきます。

「変な勘違いって?」
「知らないのか。あいつ、私に3回も結婚を申し込んできているんだよ。」
「えへぇ…!」

驚いたゼルの口からは裏返った変な声が出ます。

「全部言葉が言い終わる前に断っているのに、
 まだあきらめないと豪語する気が狂っているやつだから、できるだけ関わりたくない。
 しかもどうせ大したケガしてないだろう。」
「はあ…へええ…まあ…はい…お元気そうでした…」
「なんだ、知らなかったのか。」

混乱と驚きで言葉が出てこず、意味のない声が口から漏れ出てきます。
それを聞いたマージュがちょっと面白そうに小さく笑うので、ゼルも自分を取り戻します。

「あ、でもどうして病室の前に?」
「捕まえた子供の様子を見に行った帰りにおまえを見かけたから、
 一緒に城に戻ろうと思って待っていた。」
「そうでしたか…」

1階へと降り、受付の前を通って、お城へ向かいます。
どうやら少年はあのあと、医師の治療を受けながら拘束されているようでした。

「…何か話が聞けるんじゃないかと思ったんだがね。」
「目は覚めてるんですか?。」
「いや、頭が痛いと暴れ始めたり、突然呼吸が止まったりと話せる状態じゃなかった。
 …どんどん弱っているように見えた。今晩には死んでるかもな。」

その一言に、なんだか心が痛んで、返事もできずに1歩先を歩いているマージュについていきます。

「ゼル、同情するな。疲れるだけだ。
 弱いものに心を寄せてやってばかりいると、変なものにつかれるよ。」
「…はい。」

口に微笑みを含んだまま、はちみつ色の瞳が優しくゼルを映します。
腰に差さっているレイピアと短剣が、雲間から一瞬見えた太陽に照らされて銀色に光ったのが、
まるで彼女の芯の強さを表しているようでした。
お城のエントランスでマージュと別れようとすると、
階段から大股でイグジクトが降りて来るところで、二人を見るや否やすかさず声をかけてきました。

「王を見ていないか?」
「キシェ様のラボにいましたよ。」
「キシェの所か…」

イグジクトは少しいやそうな顔をしますが、すぐに表情を変えて、ニヤリとします。

「おっ、マージュお前、まさかイーギルの見舞いにでも…」
「いかない。」
「だろうな。」

言い終わる前に即答が飛んできます。
はっ、と短く笑うと、イグジクトはまた大股でお城から出ていきます。
二人は顔を見合わせると、まあいいか、とそれぞれの方向へ向かうのでした。

ランチの時間まであとすこし。
どんどん雲が太陽を隠していきます。
雨はまだ降りそうにありません。

     

=少年=


「シーシア様は他国での業務、キシェ様は黒い影の少年の対応、イーギル様はお怪我のため病棟、
 王は執務中、王子は行方不明、以上で本日の昼食はお二人のみです。」

 大きな丸いテーブルにぽつんと座る二人に、ディルトレイの執事がはっきりと伝えます。
誰も来ない状況におかしいとは思いながら待ってはいたものの、
マージュはずっと小説を読みふけっていて話しかけてもぼんやりとした返事しかなく、
誰かを呼びに席を立とうとするとややこしくなるからやめろと止められるしで、
困っていたところでした。

「ディルトレイ様すらいないとは珍しいな。」
「そうですね…何かあったんでしょうか。」
「あったろうな。」

 マージュは料理はまだかとグラスに注がれている水に口をつけていると、
5分も待たずに料理が運ばれてきて、特に会話もなく二人は食事を始めます。
 食事も半分くらい進んだところで、ドアの外から突然どかどかと足音がして大きく扉が開かれると、
右手にパスタとシルバーを持ったイグジクトが入ってきました。

「ゼル、今すぐラボに行け。昨日の少年から何か聞き出せ。」
「えっ」
「早くしろ死にかけてる。」
「わ、わかりました。」

ゼルは食事をそのままに立ち上がり、ナプキンで口を拭いて、大急ぎでラボに向かいます。
扉が閉まり足音が遠ざかると、イグジクトはマージュの隣に座って持ってきたお皿とシルバーを
がちゃんと置き、どさりと椅子に座ります。

「うるさいぞ。」
「悪かったな。」

ちぎったパンを口に含みながらマージュが注意します。

「おまえじゃ少年から何も聞き出せなかったのか。」
「そうだ。私には殺してやるとしか言わなかった。」
「…ゼルが行ったところで変わるか?」
「イーギルに話を聞いたとき、応戦時ゼルへの反応が違ったと言っていた。」
「ふうん?」

 イグジクトにアイスティーが運ばれてきて、喉が渇いていたのかぐいぐいと飲み始めます。
半分ほど飲んだところでグラスを置いて大きくため息をつくと、
フォークを持ってパスタを食べ始めます。

「問題はそれだけじゃなさそうだな。」
「そうだよ、しかもその問題の原因が15時にやってくる。」
「どういうことだ。」
「帝国の第一貴族が突然今日の朝手紙をよこしてきて、
 イースがどんな国なのか知りたいから訪問してくると。」
「ほほう。門前払いすれば帝国と角が立つ、準備不足では国内でなにをされるかわからないと。」

数秒、マージュがパスタを食べながら思考を巡らせているようでした。

     

「何を目的としているんだろうな。」
「さあな。」
「王が出るのか?」
「いや、私が出る。お前も道連れだ。」
「そうか。」

さも楽しそうに、マージュは口元に笑みを浮かべます。

「いつも傍若無人のお前がどう貴族に猫を被るのか楽しみだな。」

二人はそこから、無言で食事を進めます。
帝国の貴族がこの国を訪れるまで、あと2時間ほどに迫っていました。


 ゼルはへとへとになりながら走り、本日二度目の病棟の受付に行くと、
何も言わずともナースが案内してくれました。
 建物の奥の隠れたようにある扉に入り、無機質に感じられる真っ白な壁の長い廊下をまっすぐ進み、
柵を開くとさらに現れた鉄の扉を開けて、また短い廊下を進み、こげ茶の木製の扉をノックします。
 静かに扉が開き、中からカヨが出てきました。

「ゼル!」
「イグジクト様が、少年と話せと…」
「そっか、入って。」

 中に入ると、タイル張りの床はつやつやとしており、壁が見えないほどに薬棚が並び、
よくわからない機械なども並べられています。
 部屋の真ん中には手術台が置いてあり、あの少年がこちらに足を向けて横になっています。
しっかりと身体はしばりつけられ、見ているだけでも不安になるような有様でした。
 少年の右隣にはキシェが座って、無表情で見ています。
ゼルが、少年を挟んで向いに座ると、甘い香りがします。
キシェはこちらに目を合わせず、少年を見つめたまま言います。

「この子はね、もう、もう死ぬよ、ゼル。」

突然立ち上がるとゼルの目の前にひょいと立って、
両手でゼルの顔を挟みこみ、ぐい、と自分に向けます。
キシェのまん丸で、透き通るような青い瞳がゼルを見つめます。

「みどりのめ、め、って言ってた。ゼルの目も緑、人間の、人間としては希少な瞳の色。
 なんだろうね?メラノサイトのメラニンが少なく、フェオメラミンの含有率が高い虹彩…」

顔から手を離すと、考えるように顎に手をあてて、入り口の扉の側にいるカヨの元へ歩いていきます。
カヨは扉を開けてキシェを部屋から出すと、振り向きざまにゼルに声を掛けます。

「その子、30分くらい前までは王子に殺してやる、なんて言う元気があったんだけどね…
 ゼルならきっと何か聞けるよ。」
「…話しかけてみます。」
「うん、ドアの目の前にいるから、何かあったら教えて。」

扉がパタリと閉まります。
世界が音を失ったような静寂が訪れます。
ゼルは少年の胸のあたりに左手をおいて、ほんの少し呼吸で上下しているのを感じます。

「ねえ、起きているかな。」

ゼルは静かな声で話しかけます。
少年が、本当に薄く、目を開きます。

     

「はい」

空気が漏れるような返事があります。
光の入らない深い茶色の瞳が、こちらをゆっくりと見ます。
ゼルはなんと声を掛けていいものか、黙ってしまいます。

「しにたく、ないです」

少年から、また蚊の鳴くような声が聞こえてきます。
きっとキシェの言葉を聞いていたのでしょう。
ゼルは心がえぐられるような気がしました。
深呼吸をします。

「…ここまで来るの、大変だったろう。」

精一杯の一言でした。
返事はありません。

「…俺を探していたの?」
「わかりません」

言葉を紡ぐことすらつらそうに、少年は弱弱しく呼吸します。
声、というよりは、ほとんど息の音のようです。

「…緑の目を、さがしていました。」
「どうして?」
「あのひとが、探してほしいって。」
「あの人?」

 少年の目が閉じます。
ゼルはそれを見て、限界なのだと思いました。
ラエおばあさんを看取った時にも感じた、
命のろうそくの炎が、どんどん小さくなっていくような感覚。

「…あの人に会ったら伝えておくよ。ちゃんと見つけたよって。
 がんばったね。」

ゼルは右手で少年の頭を撫でます。
少年は小さく口を開けて、微笑みます。

「はい」

そのまま、数十秒ほどで、ゼルが左手に感じていた生の動きは止まってしまいました。
大きく息を吸います。
あの甘い香りがして、昨日の夜を思い出します。
ゆっくり立ち上がり、部屋のドアを開けると、すぐそこにキシェとカヨが待っていました。

「何か聞けた?」
「…誰かが緑の目を探しているということくらいでした」
「そっか。」
「カヨカヨ、早く。」

キシェがぐいぐいとカヨの腕を引っ張って、二人は部屋の中に入っていきます。

「あの子はどうなるんですか?」
「解剖するんだよ」

     

「解剖…?」

 開けっ放しのドアから、キシェが答えます。
少年を拘束していたベルトを取り外しながら、手際よく生命反応を確認しています。
カヨは戸棚からメスやガーゼを取り出して、ラックにのせています。

「ゼル、ゼル、解剖は、解剖って、この子をたくさん知ること、大切なことだよ。
 ただバラバラにするんじゃなくて、何があったのかわかる、知ることができる。」
「…血だの内臓だの、見たくないならお城に戻りな、ゼル。」

 二人の言葉を受けて、ゼルは海の底に沈んだ気持ちのまま、お城へ戻ります。
しにたくない、といった少年は、どうしてああなってしまったのか。
消毒液のにおいのする病棟から出て、肺の中の空気を入れ替えるように大きく深呼吸をします。
 空は相変わらず曇っていますが、青空も見えています。
イグジクトに報告すべく、重たい足でお城へと向かうことにしました。

お城へ近づくにつれて、兵士たちがあわただしく感じます。
エントランスに入ろうとしたところで、いつも城の扉を守っている兵士に引き留められます。

「ゼル様」
「はい?」
「イグジクト様が部屋に来てほしいとおっしゃってました。」
「あ…はい、わかりました。」


全く何があるのか見当のつかないゼルは、バタバタと動く人々を避けつつ、
3階のイグジクトの部屋に到着します。
部屋のノックをしようとすると、オルガが中から出てきました。

「ああ!ゼル様、驚きました。」
「すみません…はは、朝とは逆ですね。」
「ふふ、そうですね。…イグジクト様でしょう、どうぞ。」

部屋に入ると、髪をきちっとセットして、深い青に刺繍の入ったアビ・ア・ラ・フランセーズを着た
余所行きのいでたちの王子がいます。
鏡に向かって、凛とした顔でジャボの位置を調整している所でした。
ゼルが入ってきた気配を感じて、話始めます。

「ゼル、もう一度西区域に行って少年からしていた甘い香りのするものを探し、
 見つけたらラボに持っていけ。キシェに分析させろ。」
「甘い香りのするもの…」
「絶対ある。」
「わかりました。」

こちらに顔も向けずに、手首のレースを綺麗に見えるように引っ張って、
目にかかっている髪を横に引っ張って耳にかけ、降りてこないように調整します。

「それが終わったらついでに5番風車の進行状況を確認し、
 ざっとでいいから書類にまとめて私に提出しろ」
「わかりました…」
「で、おまえが不思議そうにしているから答えてしまうが、
 今日は突然の来客の予定でこうなってる。」
 
紫の瞳で全体を確認すると、くるりとゼルに向き直り、肩こりがひどいかのように首を回して、

「ダルいな。」

といつものように悪態をついて、
鏡台の椅子をゼルに向け、いつもより丁寧に座っていつも通りふんぞり返ります。
開いた窓からうっすらと入る外からの光に、刺繍やビジューが上品に光ります。

     

「いつもと全然印象が違って素敵ですよ。」
「いいんだよそういうのは。
 …少年とは何か話せたか。」

風がざあ、と入ってきます。
ゼルは目を伏せて、少年の姿を思い出してしまいます。

「はい、でも聞けたのは、緑の目を探している誰かがいる、ということだけ…」
「ふうん、死んだか。」
「…はい。」

ゼルは視線を戻します。
目線が合って、イグジクトの紫色の瞳が透き通って、自分の考えすらも見通されそうです。

「そうか。同情しすぎるなよ。」
「…はい。」

 すこしだけ無言の時間ができ、その間もイグジクトはいつもの三白眼でゼルを
探るように見つめていましたが、お互いに視線を逸らしませんでした。
 遠くから、カシャカシャと金属の擦れるような音が近づいてきます。
軽いノックが3回響いた後、返事も待たずにドアが開きました。

「イグジクト、今日来る貴族だが…あ、ゼル」

豪華な金装飾の入ったプレートアーマーを身に着けた、マージュでした。
金色の髪、輝く鎧、兜を小脇に抱え、外側が白、内側がスカイブルーのシルクのマントを翻す姿は、
騎士という称号にふさわしい出で立ちです。

「珍獣を見に来たのか?」
「正装している私を珍獣扱いするな。指示を出すために呼んだんだ。」
「ふふ、そうか、がんばれゼル。で、今日の貴族なんだけど」

用件を始めるマージュに、ゼルは会釈をして部屋を出ます。
イグジクトはひらひらと手を振ってくれました。

 さて、今日は午前中から色々なことが押し寄せて、息をつく暇もありません。
一度キッチンにいって、コップ一杯のお水を飲みます。
 少年の姿と言葉を思い出して、また重たく沈む感覚がします。
そして、王子の目を思い出します。
おそらく、あの時目を逸らしたら、円卓から引きずり下ろすつもりだったでしょう。

「行くか。」

 自分を奮い立たせるようにつぶやいてグラスをテーブルに置き、力強く歩き始めます。
相変わらずお城の中はあわただしく人が動き回っていましたが、
街に出ると変わらないにぎやかさがゼルを包み込み、なんだかほっとました。

       

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Neetsha