ディストピア―こんな社会は嫌だ
その3
3
安楽死は執行されなかった。
健二は黒ずくめの男達に連れられ、部屋に案内された。
「お疲れ様でした。落ち着いたらこちらの精神安定剤を服用してください」
黒ずくめの男達は、そう言って部屋をあとにした。
机と椅子がそれぞれ一つずつ置いてあるだけの、簡素な部屋だった。机の上には透明なグラスと精神安定剤が1錠だけ入った小さなプラスチックケースが置かれていた。
椅子の位置が少しずれていたので、この椅子に座っていた人間が先ほどまでここに居たのだということがわかった。健二は少しだけ胸を撫で下ろした。この部屋に来るまでの廊下があまりに無機質で、人間味のかけらも感じられず、なんというか怖かったのだ。
椅子に腰かけ、机をまじまじと見つめていると、コーヒーがこぼれた痕跡が残されていることに気付いた。この椅子にさきほどまで座っていた人物は、きっとコーヒーが好きなのだろう。
この椅子に座っていたということは、安楽死を免れた人物であるということに違いない。健二はその人物と会って話がしてみたいと思った。その人物の年齢や性別、性格等はわからないが、きっと自分と同じような苦しみを抱えた人物であるに違いない。健二はその人物と話をすることで、自分達に課された呪いのような苦しみをわかち合いたいと思った。
まだ精神安定剤を服薬する気にはなれなかった。ついさっきまで起こっていたことを思い返すと、心臓が張り裂けそうになるのだ。
スマホでもいじろうかと思い、健二はズボンのポケットの中を探った。ここに連れてこられた時、ポケットの中にスマートフォンを入れっぱなしにしていたはずなのだが、左右のポケットのどちらを調べてもスマートフォンは見つからなかった。
何もすることがなかった。しかし何かをしていないと不安でたまらなかった。
手持無沙汰になってしまった健二は、左手の親指の爪を噛んでいた。
健二には不安に駆られると親指の爪を噛んでしまう癖がある。良くない癖だということはわかっていたが、不安の渦に呑まれそうだったので、爪を噛まずにはいられなかった。
しばらくして、ガチャリ、という音とともに扉が開いた。白い作業着の男が立っていた。
「こんちは。なあ、よかったら今からおっちゃんとちょっと話してみいひんか?」
健二はぎょっとしたような顔で男の顔を見つめた。そして健二は男から目を逸らした。この男は一体何者なのか。
「すまんすまん、自己紹介がまだやったな。おっちゃんは安楽死の対象になった人に話を聞いて回ってる、澤田っていう者やねん。おっちゃんはな、今の安楽死制度はおかしいと思てるんや。兄ちゃんはどう思う?」
「……べ、別に。何も思わないですけど」
「そうか、そうかぁ。おっちゃんは、絶対おかしいと思てるねんけどなー」
「……そうですか」
話を打ち切るように健二はそう言った。しばらくの間、沈黙の時間が流れた。
それから少し時間が経った。健二のお腹がぐうと鳴った。それを聞いた男は、すかさず健二にこう話しかけた。
「なあ兄ちゃん、お腹空いてへん? 一緒にファミレスでも行かへんか? おごったるでー!」
健二は男の誘いを無視した。健二は、この男の張り付いたような笑顔が気に入らなかった。
「まあなぁ……。あんなことがあった後やしな。そら落ち着いてなんかおられへんもな。でも大丈夫や、安心しとき。おっちゃんはお兄ちゃんの味方や。絶対悪いようにはせーへん。約束する。だからちょっとおっちゃんと一緒にファミレスに行ってくれへんか? パフェもジュースもおごったげるで」
パフェとジュースという言葉を耳にした時、健二の心が少し揺らいだ。
「兄ちゃん、甘いものが好きなんか?」
「いえ……別に……その……」
「ええんやで。うんうん。おっちゃんに着いてきたら、甘いもんいっぱい食べさせたる。ケーキも頼んでええで。パンケーキも、シュークリームも、おっちゃんと一緒なら食べ放題や!」
ガハハ、という声で男は笑った。
「わかりました。それでは……ファミレスに行きましょう」
健二は男の頼みを快諾した。
「よっしゃ! ありがとうな! 車出してくるから、ちょっと外で待っといてくれる?」
男はそう言って部屋を後にした。男の後を追って部屋を後にすると、鬱蒼と生い茂った森が施設の周辺を覆い隠していることがわかった。
「一体この施設は何なんだ……」
健二はそう呟いた。
しばらくすると、車に乗った男がやって来た。
「お兄ちゃん、ちょっと待たせたな。ごめんな。じゃあいこかー」
健二は後部座席に座った。
15分ほどでファミレスに着いた。
ファミレスのメニューを眺めながら、男は言う。
「なあ兄ちゃん、何頼む? 何頼んでもええんやで? おっちゃん全部おごったるし」
「あ、ありがとうございます……」
小心者の健二には、一番高いメニューを選ぶ勇気などなかった。
なので健二は、ハンバーグにライスとスープとサラダが付いたセットを頼んだ。その店のセットメニューの中では少し高めな値段設定のセットを頼んだ。
「なんや兄ちゃん、遠慮しとるんか?」
「そういうわけじゃないんですけど……」
健二はたじろいだ。
しばらくすると、ハンバーグのセットが運ばれてきた。同時にナポリタンが運ばれてきた。
「あっ、それとあれや。名前聞いてへんかったな。兄ちゃん、名前なんていうの?」
ナポリタンを口いっぱいに頬張りながら、澤田は健二にそう聞いた。
「……健二です」
「そうか、健二くんかー。ええ名前やなぁ」
男はグラスにそそがれた水を勢いよく飲み干した。
皿いっぱいに盛り付けられたナポリタンに舌鼓を打ちながら、澤田は言う。
「ここのナポリタン、めっちゃうまいんや。兄ちゃんもちょっと食べてみるか?」
「遠慮しておきます」
「おお、そうかそうか。でも別に遠慮せんでもええんやで? ワシも兄ちゃんくらいの歳の時は、みんなにめっちゃおごってもらってたさかい」
「そう……ですか」
他人にご飯をおごってもらった経験などない。もう大学二年にもなるが、健二には今までの人生でご飯をおごったりおごられるような関係性に至った人間などひとりもいなかった。健二は男のことが少しだけ羨ましかった。
「……何でも好きな物頼んでええんやで? 兄ちゃんはほんまにようがんばった。ちょっとくらい人に迷惑かけても誰も怒らへん」
そう言いながら男は健二にメニューを手渡した。
今までの人生、誰かにこれだけ優しくされたことはなかった。健二の心の奥底にある氷のような何かが、途端に溶け出した気がした。
気が付くと健二の目には涙が溢れていた。
「兄ちゃん……、いや、健二くん。ワシの名前は覚えとるか? 澤田や。澤田のおっちゃんって呼んでくれ」
「さわ……澤田さんですか」
健二は復唱した。
「そう、澤田や。健二くんそのハンバーグを食べ終えたら、話を聞かせてもらってもええか?」
食べかけのハンバーグを見つめながら、健二はこくりと頷いた。
もしかしたら、この男なら心を開いてもいいのかもしれない。少なくとも自分が接してきた人間の中では、澤田が一番優しい。健二はそう思った。
ちょうどハンバーグを食べ終えた頃だった。澤田が口を開いた。
「なあ健二くん、今まで何があったか、おっちゃんに少し聞かせてくれんか? もちろん無理にとは言わへん、話せる範囲でええんや。なあ健二くん、おっちゃんに話聞かせてくれへんか?」
この人なら、自分の過去を話してもいいかもしれない。
健二は、澤田にほんの少しだけ心を許した。
そして健二は、ぽつりぽつりと話を始めた。
窓の外に映るポプラ並木を見つめながら、健二は幼い頃からの出来事に思いを馳せていた。
親しい友人にも話していなかったが、実は小学生の頃から想いを寄せていた女の子がいたということ。その女の子とは中学までは一緒だったけれど、高校進学を境にもう会えなくなってしまったということ。その女の子とまた会える日を夢見ていたので、小学校や中学校でのいじめにも耐えられたということ。その女の子が自分にとって唯一の希望だったということ。
大学一年生の夏休みのとある日の昼下がり、その女の子が他の男と仲睦まじく歩いているのを見かけたということ。自分の姿を目にした女の子は、自分のことなど目もくれず、自分の前を過ぎ去ってしまったということ。自分にとってそれは、絶望を通り越した何かであったということ。
健二は、今まで誰にも打ち明けていなかったことを澤田に話した。
澤田は健二の身の上話を、否定するわけでもなく、ましてや茶々を入れるわけでもなく、ひたすらうんうんと聞いていた。
健二はこの男のことが信用できると思った。澤田は他の奴らと違って自分のことを馬鹿にしない。澤田は自分の話をちゃんと聞いてくれる。健二はそれがとても嬉しかった。
次に健二は、自分に安楽死の通知が来ていることを知った時のことを話した。
どうして自分がこんな目に遭わなければならないのだ、確かに自分はあまり勉強ができなくて、運動もダメで、交友関係も狭いけれど、だからといって生きる権利まで奪うのはやりすぎではないか、健二はそう語った。澤田もそれに同意している様子だった。
「せや、そんなんはやっぱりおかしいで。おっちゃんもそう思う。誰にだって生きる権利はあるんや」
「そう……ですよね」
「そうやそうや、こんな世の中おかしいわ! やっぱ、変えていかんとな。ワシらの手で!」
澤田はそう言って左手に握りこぶしを作った。
「健二くん、ワシと一緒に世界を変えていこうやないか!」
澤田は健二の手を握りながらそう言った。ゴツゴツした手だった。しかしその手の中には、健二が今までの人生で感じたことのない温もりがあった。
健二はこの男を信用しようと思った。
「そうや、健二くん、ちょっとトイレに行ってきてくれへんか!」
「トイレ……ですか? どうしてですか。トイレにはさっき行ってきたのですが……」
「……ええから!」
澤田は大きい声でそう言った。一瞬、澤田が鬼のような形相をしていた気がした。もしトイレに行くことを拒めば、ひどい仕打ちをされるかもしれない。そう思った健二は、渋々トイレに行くことにした。
健二がトイレに行ったのを確認した後、澤田は健二が飲んでいたオレンジジュースに白い粉末を振りかけた。周囲の目を確認しながら、澤田は隠し持っていたストローで粉末をかき交ぜた。
健二がトイレから戻ってきた。澤田は何だかソワソワしている様子だった。
「あの……澤田さん? どうかしましたか?」
「いや、何でもない! そ、そうや! 今日はもうこれくらいでお開きにしとかんか? いっぱい食うもん食うたやろ。ジュース、ちゃんと飲み干しきや。おっちゃんはなんぼでもおごったるけど、食べ物を残す奴は大嫌いなんや。ジュースの一滴でも残したら、おっちゃん許さんからなー」
はにかみながら澤田はそう言った。財布を取り出し、会計に向かうタイミングを伺っているようだった。
「澤田さん、今日はどうもありがとうございました」
そう言って健二はオレンジジュースを飲み干した。その様子を澤田は凝視していたので、健二は何だか不安になった。
「あの……、ジュースがどうかしました? もしかしてジュースの中に何か入ってたりしますか?」
「い、いや。何でもあらへん。ほな、お会計してくるわ! 健二くんは外で待っといてな! 家までおっちゃんの車で送ってあげるわ!」
そう言って澤田はレジへ向かった。澤田に言われた通り、健二は店の外で男が出てくるのを待つことにした。
二車線の道路を行き交う車を見ながら、健二は漠然と思った。この男と一緒なら人生を良い方向に変えていくことができるかもしれない、と。
澤田が店から出てきた。
「よし、じゃあ帰ろか」
澤田がそう言うと、健二はこくりと頷いた。
健二は澤田の促されるままに車に乗り込み、後部座席に腰をおろした。
車のエンジン音が聞こえてくると、健二は猛烈な眠気に襲われた。
「健二くん、家はどこや?」
「すいません……、ちょっと眠たくなってきちゃって。少し寝てもいいですか」
今にも寝てしまいそうなのを必死に堪え、健二はそう応えた。
「……ええで。健二くん、今日はようがんばったもんなあ」
優しい声で澤田はそう言った。
健二は睡魔に身を任せた。
すぅ、という寝息とともに健二は深い眠りに就いた。