【10日目:朝 南第二校舎一階 教室】
掃除ロッカーの中に辻見一花を隠れさせたのは、殺し合いに巻き込まれないようにするためだったが、結果的には杞憂だった。
暁陽日輝は、ロッカーの中で人形のように大人しくしていた一花を抱き起こし、またおんぶをして教室から出た。
廊下に出てすぐ左側に視線を向けると、右腕の肘から先を失った夜久野摩耶が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに濡れた顔にどこか壊れたような笑みを浮かべて立ち尽くしているのが見える。
「ひっ――」
こちらに気付いた摩耶の笑みが凍り付き、彼女は尻餅をついた。
彼女が漏らした尿でできた水溜まりに尻から倒れたことで、ビシャッ、という水が跳ねる音が廊下に響いた。
――手帳こそ奪ったものの、彼女をここで殺さない理由は薄い。
むしろ、『夜明光(サンライズ)』はそのあまりに強力な熱によって傷口を止血してしまうため、頭や胴体に当てれば致命的な損傷を与えるものの、摩耶のように手や足に当たっただけなら、少なくともすぐには死なない。摩耶は腕すべてを失ったわけではなく、肘から先だけなので、失った血液もその分少ない――このままでも、あるいは生き延びることができるのかもしれない。
そして、彼女の能力――教室に入ったときに手帳を開いて確認したが、『迷鏡死酔(ミラージュ)』というらしい――は、その状態でも使用することはできる。
ここで摩耶を生かしたことで、他の誰かが死ぬかもしれない。
そしてそれは、今朝別れた相川千紗や日宮誠、残り三十人の生存者が読み上げられた際に名前があった三嶋ハナといった、生徒葬会以前から、あるいは生徒葬会中に関わりがあった生徒かもしれない。
そう考えると、自分は摩耶を殺しておくべきなのだろう。
女だから、同級生だからというのは、この状況で彼女を生かす理由にはならないだろう。
それを言うなら、自分は女であり同級生である楪萌を殺している。
――摩耶が必死に命乞いをしてきたからか。
――一花と二人で過ごす内に、弱者を手にかけることに迷いが生まれたのか。
――それとも、二時間ほど校舎内を彷徨い歩いたことで、『殺人』という精神的エネルギーを大きく消耗する行為を避けたのか。
どれも正解なようで、それがすべてというわけではないように思う。
ならば――自分も、知らず知らずの内に心が擦り減ってきているのかもしれない。
凜々花が――誰よりも大事な人が傍にいるときは、彼女を守りたい一心で、そんなことを意識することもなかっただけで。
何度も死にかけ、何度も死を目の当たりにし、何度も殺しに手を染め。
この心が悲鳴を上げていたのに、気付かない振りをしていたのかもしれない。
「……殺さないって言っただろ」
摩耶に聞こえるかどうか分からないくらいの小声で呟き、陽日輝は出口へと向かった。
一応、摩耶が背後から不意打ちを仕掛けてくるという懸念はしつつだが、あの様子では大丈夫だろう。
案の定、陽日輝は無事に廊下の突き当たりの扉まで辿り着いた。
外の気配を窺ってから、扉を慎重に押し開く。
そこには、朝日に照らされた外の景色があった。
――『迷鏡死酔』は、摩耶の言った通り、解除されていた。
「……おいていくんだね」
おんぶした一花が耳元で囁いたのに、ドキリとする。
一花に『おいていって』と言われたのは、ほんの数分前。
一花の心は深い傷を負い、閉ざされているが、完全に崩壊しているわけではない――ということが、薄々分かってきている。
「……ああ。俺が殺さなくても、きっと誰かに殺される」
「……わたしもそうだよ」
一花は、抑揚の無い声で続けた。
「すぐしぬか、あとでしぬか」
「……っ。――だったら、少しでも後で死ぬほうがいいでしょう」
言ってから、ずるい言葉だと思う。
この生徒葬会から生きて帰れるのは三人だけで、自分は凜々花とクロエと組んでいる。
だから、言葉を選ばずに言えば、一花のことを生きて帰すつもりがない。
その欺瞞に触れずに、うわべだけ耳障りの良い言葉を吐いた。
そう――摩耶を生かしたことだけじゃない。
こうして一花を生かしていることすら、矛盾であり欺瞞なのだ。
それでも。
「……俺は、辻見さんに少しでも長く生きてほしいと思ってますよ」
その言葉自体に嘘は無い。
嘘は無いが、あまりにも空々しく白々しい台詞だ。
それでも、自分はそう言うしかないし、そうするしかない。
「……ずるい」
一花がそう呟いたように聞こえたが、それは気のせいだったかもしれない。
自分の罪の意識が生み出した幻聴だったかもしれないし、一花が本当にそう呟いていたのかもしれない。
それは分からないが、とにかく、陽日輝は南第二校舎を後にした。
凜々花たちが待っているはずの、南第三校舎を目指して。
□
陽日輝と一花が南第二校舎に囚われている間に、安藤凜々花は四葉クロエを背負ったまま南第三校舎に辿り着いていた。
その間、他の生徒に遭遇することがなかったのは幸いだった――しかし、凜々花は南第三校舎にいるという生徒会長・水無瀬操(みなせ・みさお)のことをよく知らない。
全校集会などで登壇して話すときは、その声はよく通り、表情にも不安が無い、堂々とした立ち振る舞いだった。
生徒会長としては優秀かつ真面目な人だったことは疑いようがない。
ただ、今は平和な日常の空間ではなく、生徒葬会という異常な状況下に置かれている。
虫も殺さないような顔をしていた生徒が、生き残るために剥き出しの殺意を向ける、そんな光景が当たり前で、それに関しては自分だって、偉そうなことを言えたものではない。
自分も客観的には優等生で通っていたはずだが、親友の天代怜子以外の生徒に関しては、生き残るためなら殺す覚悟を決めて生徒葬会に臨んでいたのだから。
暁陽日輝と出会い、行動を共にすることがなければ、自分は怜子の復讐と自分の生存のためだけに手当たり次第に他の生徒を殺め、その内に命を落としていたに違いなかった。
とにかく――生徒会長と生徒葬会中に出会ったのはクロエであり、そのクロエが意識を失っている今、南第三校舎に不用意に足を踏み入れるのは躊躇われた。
クロエは生徒会長の能力を『不可侵領域(ノータッチ)』と言っていた。
根岸藍実の『通行禁止(ノー・ゴー)』以上に守りの堅い能力だと。
その言葉を信じるなら、南第三校舎に進入したほうが安全なのかもしれないが、もしかしたら、侵入者に対して致命的な反撃を行う類の能力かもしれないわけで、本来なら南第三校舎に足を踏み入れる直前にでも、クロエが注意点を説明してくれるつもりだったという可能性も考えられる。
その場合は、ここでクロエが目覚めるまで待つのが正解だ。
「クロエ……」
凜々花は、南第三校舎の入口近くの植え込みの陰に隠れ、そこにクロエを寝かせている。
体力も腕力も女子の中でも決してあるほうじゃない自分がクロエを背負ってここまで移動するのはなかなかに骨が折れることで、凜々花もまた、地面にお尻をついて体力の回復に努めていた。
バッグの中からタオルを取り出して汗を拭い、ペットボトルの中の水を飲む。
秋の朝のひんやりとした空気は、汗をかいた身体を容赦なく刺激してきていた。
欲を言えば冷たい水ではなく、温かいお茶を飲みたかったが、この生徒葬会でそんなものにありつける場所は限られている。
凜々花はぶるっ、と身体を震わせてから、クロエの顔を覗き込んだ。
クロエが微かに呼吸するたび、胸がゆっくり上下するのが分かる。
頭を打っているので心配だったが、見たところ大丈夫そうだ。
もちろん自分は医者でも看護師でもないので、素人判断でしかないが。
「……陽日輝さん、遅いですね」
凜々花は呟き、自分たちが来た方角に視線を向ける。
あのとき南第一校舎で二手に分かれたとき、自分たちのほうが南第三校舎に近い側の窓から出たとはいえ、クロエを背負いながら周囲への警戒もしつつ移動しているため、それなりの時間がかかっている。
陽日輝のほうが体力も体格も上な以上、多少の距離のロスがあったとしても、陽日輝たちのほうが先に着いていても不思議ではないはずだった。
と、すると、西寺汐音を追っていた何者かが陽日輝のほうに行ったのか、それとは別の生徒に遭遇してしまったのか。南第一校舎からこの場所までの距離と、あれから経過した時間を鑑みるに、そのどちらかと考えたほうがいいだろう。
そこまで考えたところで、胸がドクン、と跳ねるような感覚を覚える。
陽日輝が他の生徒と遭遇し、恐らくは殺し合いになっていることはほぼ間違いないという事実。
これまでにも何度も修羅場を潜ってきたとはいえ、今度も大丈夫とは限らない。
それに、愛する人の命の危機なんて、何度経験したって慣れるものではない。
それでも――凜々花は、強い意志を帯びた声で呟いた。
「生きてまた合流するって約束したんですから、ちゃんと守ってくださいよ――信じてますから」
陽日輝を迎えに行きたい気持ちはある。
しかしそのためには、未だ意識の戻らないクロエを放置するか、背負って行く必要があり、そのいずれでもクロエを危険に晒すことになる。
だから凜々花は、陽日輝を信じて待つと決めた。
北第一校舎で、東城一派と戦ったときも。
裏山で、楪萌と戦ったときも。
そして、『楽園』での戦いのときも。
陽日輝は生きて帰ってきたし、自分もそう信じて戦い抜いた。
それは論理的ではないだろう。
以前の自分は、そういう心の機微にはどこか懐疑的だった。
怜子と一緒に映画を観たり、昨夜のドラマの話をしたりしたときも、自分は少し冷めた視点で、純粋に物語を楽しんでいた怜子を羨ましく思ったものだ。
だけど今は、この論理的ではない信じる気持ちが、自分に勇気と活力を与えてくれている。
陽日輝と出会い、心を通わすことがなければ、自分はこの生徒葬会という絶望に心を折られていた。
だから、一花のことは他人事のようには思えない。
陽日輝がいなければ自分も殺し合いの中で摩耗し、傷つき、辱しめを受け、壊れていてもおかしくなかっただろうと、生徒葬会の過酷さを知った今なら思う。
だから凜々花は、一花が陽日輝と出会わなかった自分のように思えてならない――ゆえに、陽日輝が一花と共に無事に戻ることを、願っている。
それが、嘘偽りの無い凜々花の思いだった。