【8日目:朝 屋外西ブロック】
立花繚は、校舎脇に設置されたウォータークーラーで水分補給をしていた。
ウォータークーラーから出る水は、蛇口から出る水道水に比べて冷たく、その刺激が程よく疲れた脳を覚醒させてくれる。
そうしている間にも、自身の能力『完全空間(プライベートルーム)』で作ったアメジストのペンダントの中からは、姉・立花百花の声が飛んできていた。
「もうすぐ昼だっていうのに、結局一枚も能力のページ手に入らなかったじゃない!」
「仕方ねえだろ、姉ちゃん……。実質能力無しの状態なんだぜ、俺」
そう、繚は姉・百花をペンダントの中に隠すことに能力を使っているため、この生徒葬会において、身一つで駆け回っているに等しいのだ。
いざとなれば姉を外に出すこともできるが、それはいざというときのための切り札であり、実際、このゲームが始まって百花と合流してから、百花がペンダントの外に出たのは、飲食とトイレのタイミングだけだ(そのたび、「お腹すいた!」「繚、オシッコしたいから物陰があるとこ探して!」などと指示が飛んでくる)。
繚はすでに何度か、他の生徒と遭遇しているが、そのときも、百花の力を借りることなく乗り切っている。
……とはいえ、まだ、他の誰かを殺してはいない。
陸上部の短距離レギュラーにだって引けを取らない自慢の俊足で、全員振り切ってきた。
しかし、第二・第三、あるいはそれ以上の能力を手に入れることができるという追加ルールが組み込まれた今、逃げてばかりもいられないのは確かだ。
多少のリスクを冒してでも――そして、殺人という行為に手を染めることになったとしても、戦わなければならないだろう。
……自分は決して、善人というわけではない。
それでも、殺人なんて行為を進んで行いたいと思えるほど図太くもない。
だからといって――姉の手を汚させるのも、気が進まない。
なので繚は、正直なところ、新たな能力を得るために誰かを探さなければならない、という思いがある一方で――このまま誰とも遭遇しなければいいのに、という、非現実的な期待もまた、胸の内に抱いている。
だが――その願いは、儚く打ち砕かれた。
「あ――」
思わず、声が出てしまう。
幸い、『相手』に聞こえるほどの声量ではなかったが。
――校舎の出入り口から、一人の男子生徒が駆け出してきた。
足がもつれそうなほどにふらついていて、その顔は、恐怖に歪んでいる。
そいつと目が合った――のかどうか、繚にはわからない。
その直後には、その男子生徒は前のめりに倒れていたからだ。
――彼の首の後ろには、ハサミが突き刺さっていた。
「――繚」
「姉ちゃん、静かに」
何か言いかけた百花を制し、繚はウォータークーラーの陰に隠れる。
――コツ、コツ、と、聞こえてきたのは、靴が廊下を叩く音。
足音を隠そうともせず、余裕げに――むしろ、どこか優雅さすら感じさせながら、『彼女』は、先ほどの男子生徒に続いて、姿を現していた。
「人のハサミを泥棒するなんて、感心しないわね」
落ち着き払ったその声は、決して大きな声ではないのに、芯があった。
背中まで伸びた長い黒髪に、知的な印象を受ける銀色のメガネ。
こんな状況でなければ、思わず見惚れてしまいそうなほどの美少女が、倒れ伏している男子生徒の傍らでかがむと、その首からハサミを引き抜いていた。
「ハサミ越しでも気分は良くないわね、この肉の感触は。それに、このハサミ。血と脂で切れ味が落ちてるのかしら。首に刺すのにもだいぶ力を入れなきゃいけなかったし――そろそろ替え時かしらね」
あまりにも物騒な台詞。
顔色一つ変えず、少女は真っ赤に濡れたハサミを宙にかざし、目を細めて見つめていた。
――間違いない。
彼女は、あそこで倒れている男子生徒以外にも、誰かを殺している。
そしてそのことに、何の罪悪感も抱いてはいない。
……繚は、ウォータークーラーに添えた手に、自然と力がこもるのを感じていた。
自分は、決して善人ではないと思っていたが。
それでも――こうして、平然と殺人を犯した人間を目の当たりにして、義憤の心が芽生えるくらいには、どうやら善性というものがあったらしい。
――しかし、今ここで考え無しに飛び出して行って、未知の能力によって返り討ちにされてしまっては元も子もない。相手の能力が分からない以上、取るべき手段はこのまま隠れてやり過ごすか、走って逃げるか――いや、そうしてばかりもいられないと、さっき考えていたところじゃないか。
だとしたら、もっと近くに来たところで、隙を突いて――
「――繚。アンタはここで隠れてなさい」
「えっ――」
突然の姉の言いつけに、繚が思わず聞き返したそのときには――繚の胸から、ペンダントは消えていた。
その代わりに、繚の目の前に、姉の背中が現れていた。
――百花が、『完全空間』を解除したのだ。
そう、『完全空間』の解除は、繚の意思もしくは繚の死、そして、人を収納している場合は、その人の意思によってもなされる。
なので、百花が出たいと思ったなら、すぐに出れてしまうのだ。
「姉ちゃ――」
呼び止めかけた繚の口を、百花の左手が塞ぐ。
唇とその上下を覆う指には、女子特有の柔らかさの中に、そのあたりの女子には無いしっかりとした硬さもあった。
空手の有段者である百花の指は、並の男子よりも鍛えられている。
繚は、自分が家のリビングでテレビを見ているとき、百花が拳を作って腕立て伏せをする拳立て伏せというものを何十回何セットと行っている姿を、毎日のように見続けてきた。
かと思ったら、バケツに砂利をたっぷりと入れてきて、そこに手刀を突きいれるという、格闘漫画に影響されたとしか思えない鍛錬をしていたのも見たことがある。……さすがに指が血だらけになっていたが。
――その百花が振り返り、こちらを見つめる。
彼女の目は、「いいから静かにしてなさい」と如実に物語っていた。
血の繋がった姉弟だからこそ、視線ひとつから、そこまで汲み取れる。
その目を見て、繚は思い出していた。
そうだ――姉は、立花百花という人間は。
強気で、勝気で、弟である自分にとっては暴君のようで――だけど、その心の内には、熱いものを持っているんだった。
「――愛巫子。アンタ、随分と殺し慣れてるじゃない」
百花は繚をその場に残し、自らあの少女――愛巫子と呼んだメガネの女子生徒の前に、進み出ていた。
愛巫子は動じず、メガネの奥の目をスウッと細める。
……その視線のあまりの冷徹さに、繚は、自分が見られたわけでもないのに背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
それにしても――姉ちゃんは、この人の名前を呼んだ。
ということは、知り合いなのか。
「ああ――誰かと思えば立花さん。人を殺人鬼みたいに言って、人聞きが悪いわ。まだ三人しか殺してないのに」
とんでもないことを口走りながら、愛巫子はハサミをブン、と振った。
その刃に付着していた血の一部が、滴となって地面に飛び散る。
百花は、長い間ペンダントの中にいたためあまり動かしていなかった体をほぐすように、地面に爪先を立てて足首をグルグルと回し、同時に肩も回してみせた。
……間違いない、戦闘態勢だ。
まだ、相手の能力も分かっていないというのに。
――いや、自分には、こうなることは予想できたはずだ。
姉は口では、というより、弟である自分に対しては、やることなすことにあれこれ言う癖に、自分自身は割と考え無しに、直情的に動くことが多々あるということくらい。
「アンタねえ……三人も殺せば大抵死刑よ。平気で人殺しそうな奴だとは思ってたけど、本当にやるなんてね」
「……前から苦手だったわ、あなたのこと。私を『平気で人殺しそうな奴』だなんて、そんな――――ふふ。正確に的確に評価できているのだから」
愛巫子は、口元に薄い笑みを浮かべて言った。
……これだけのやり取りで十分伝わってきたのは、二人が以前から、あまり良好な関係ではなかっただろうということ。
そして、これはまあ分かっていたことだが――愛巫子の冷酷さ。
繚は、対峙する両者が醸し出す張り詰めた空気に、ごくりと生唾を飲み込んでいた。
「それにしても、立花さん。ご自慢の弟さんは、一緒じゃないの?」
「さあ? あのバカ、今も生きてればいいけど。アイツのことだから、彼女か何かと一緒にいるんじゃない?」
――よく言ったものだ、と繚は呆れ半分感心半分で思った。
生徒葬会開会後、そう時間の経たないうちに自分たちは合流したというのに、不自然な素振りひとつなく嘘を吐いている。
直情的だが、嘘がつけないような愚直さや不器用さとは無縁で、何より肝が据わっているのが立花百花という人間だ。
「それは残念。弟さんと一緒だったなら、五人分の手帳が揃ったのに」
「……アンタ、人を殺すこと、どう思ってるの?」
百花の問いかけに、愛巫子は意外そうな表情を見せた。
「この状況では殺さないと生きて帰れないのに、どうも思わないわ。面倒だとは思うけれど。あなたは違うの? 空手なんて野蛮で暴力的な習い事をしている癖に、随分と繊細なのね」
「……はあ……。アンタ、私は読書家ですー頭良いですーみたいな雰囲気出しときながら、随分と人間が浅いわね」
百花は、煽るつもりというわけでもなく、心の底からそう言ったのだろう。
しかし、それを聞いた愛巫子のほうは、そうは取らなかったようだ。
「……まさかあなたのような、頭の中まで筋肉で出来ていそうな人種にそんなことを言われる日が来るなんてね。殺しなんて面倒なだけでどうとも思っていなかったけれど、どうしてかしら――あなたのことは心底殺したいと思えてきたわ」
愛巫子は、ハサミをチャキチャキと開閉しながら言う。
――物陰から聞いているだけの繚にも、愛巫子が苛立っているのが分かる。
……あれだけの美少女なのだ、面と向かって非難されること自体ほとんど無く、慣れていないのだろう。
そんな愛巫子に、百花はさらに追い打ちをかける。
「あっそ。アタシは、アンタのこと殺さないわよ。アンタと同レベルになりたくないから」
そして、話は終わりとばかりに、左足を前に出し、右足を下げ――空手の構えを取っていた。
左手は顔の前、右手は肘を引いて、腰にぴったりと付ける。
――当たり前だが、やはり様になっている。
愛巫子は、そんな百花を冷めた目で見つめ――次の瞬間、踵を返し、さっき出てきたばかりの校舎に向けて駆け出していた。
「エイッ!」
百花は、気合の込められた掛け声と共に、左足を右方向に、横薙ぎにするように動かしていた。
いわゆる、足払いだ。
もちろん、愛巫子との間には十数メートルは距離があり、その足払いが愛巫子に当たることなどない。
が――愛巫子は、まるで直接足払いをかけられたかのように、バランスを崩して転倒していた。
予想外のことだったのもあり、愛巫子は受け身を取ることもできず、顔面から地面に叩き付けられる。まあ、いかにも運動とは縁の無さそうな感じでもあったので、反応できないのも無理はないだろう。
むしろ、だからこそ――自分と百花との身体能力の差を理解しているからこそ、戦うのではなく逃走という選択をしたのだろうが。
立花百花の能力の前では、その選択は無意味となる。
「あ、あなた――何を」
左手で鼻を抑え、愛巫子が振り返りながら起き上がる。
その指の隙間から、ぽたぽたと鼻血が零れ落ちていた。
愛巫子の目には、ギラギラとした殺意の光が宿っている。
繚が思わず身じろぎしてしまいそうになるほどの憎悪の眼差しだ。
その鋭い眼差しを、百花は涼しい顔で受け流す。
空手は、ルールの中でとはいえ互いに殴り合い、蹴り合う。
そのような、痛みを伴う真剣勝負の場に慣れている百花にとっては、恐れるようなものではないのだろう。
百花は言う。
「アタシに背中を向けて逃げようなんて無謀もいいところね。ま、いかにもこれからアナタを殺しますーみたいな空気出しときながら、逃げの一手を打てたところは感心したけど」
「あ……あなたのような空手馬鹿と、ハサミだけでやり合おうなんてほど無謀じゃないのよ……!」
愛巫子は、左手で鼻を押さえたまま、右手に持ったハサミをかざし――
次の瞬間には、百花の「エイアッ」という掛け声と共に、そのハサミは弾かれるように宙を舞っていた。
愛巫子が目を見開いたときには、すでにハサミは愛巫子の後方五メートルほどの位置までクルクルと回りながら飛ばされてしまっていた。
「またしても小賢しいわね。ハサミ投げてアタシの隙を作ろうとしたんでしょ? アタシから逃げる隙を。アンタの上辺だけ綺麗な顔の、化けの皮が剥げてきてるわよ」
百花がそう言い放つのをウォータークーラーの陰で聞きながら、繚は微かな不安を覚えていた。
――百花の能力『絶対必中(クリティカル)』は、視認している相手に対して繰り出した素手による攻撃の衝撃だけを、必ず相手に命中させることができるというものだ。
要するに、百花が突きや蹴りの型を実演すれば、相手が百花の視界内に存在している限り、何十メートル離れていようがその分の威力が直撃する。
常人が使用しても強い能力だが、百花は女子とはいえフルコンタクト空手の有段者で、その打撃力は折り紙付きだ。
そんな百花が使用すれば、『絶対必中』は相手を文字通り寄せ付けない、まさに鬼に金棒の能力となる。
姉ちゃんに面と向かってそんなこと言ったら『誰が鬼よ!』とぶん殴られそうだが――そんなことより。
愛巫子の能力を、自分たちはまだ知らない。
少し離れた場所に倒れている男子生徒を含め、すでに三人を殺しているというのが本当だとして、見るからにか弱い愛巫子がハサミだけでそこまでできるものなのか?
……確かに、見るからにか弱そうだからこそ、隙を突けるとも考えられる。
愛巫子は美少女だし、特に男子生徒は、泣きつかれたとしたら少なくとも動揺はするだろう。
しかし――本当に、それだけなのか?
繚は、愛巫子のギラギラとした眼差しを改めて見つめる。
そこには憤怒と憎悪はあっても、恐怖や絶望の色はない。
あまりにも強い感情が、別の感情を塗り潰してしまうことは確かにあるが、それにしたって、姉ちゃんと以前からの知り合いなら、姉ちゃんの強さは分かっていたはず――そして、この生徒葬会で与えられた能力が、鬼に金棒なものであることも、すでにその身を以って思い知ったはずだ。
にも関わらず、愛巫子の戦意は萎えていない。
だとしたら――彼女には勝算があるのだろうか。まだ自分たちが目にしていない彼女の能力には、この状況を覆すほどの効果があるというのか。それとも、すでにその能力は発動していて、すでに何かが起こっているのだろうか。
繚はそこまで考えたところで――ようやく、気付いた。
いつの間にか――愛巫子の左手の指の間から零れ出ていた鼻血が、止まっている。いくらなんでもこの短時間で?
まさか――と、繚がある仮説に思い至って目を見開いたのと、愛巫子が地面を蹴ったのとはほぼ同時。
愛巫子は逃げるのではなく――百花に対し、まっすぐ向かってきていた。
愛巫子の足は女子の中でもそんなに速くはないであろうことが、彼女の動きで分かる。百花との距離は開いている。普通に考えれば、愛巫子は百花の間合いに踏み込むことすらできないまま、一方的に『絶対必中』による連打を浴びてノックアウトだ。
「アンタも懲りないわね――!」
百花が、右腰の横に引いていた右の拳を、下半身を捻る動きと連動させて繰り出す――素人目にも惚れ惚れさせられるほど綺麗な、中段突きだ。
――だが、繚は見逃さなかった。
駆ける愛巫子の、鼻血の痕があってもなお美しいその顔に一瞬、身も凍るような冷笑が浮かんだのを。