【10日目：夜 南第三校舎一階 廊下】
南第三校舎での数時間は、暁陽日輝たちにとって、久方ぶりに味わう安寧のひと時だった。
生徒会長・水無瀬操（みなせ・みさお）の『不可侵領域（ノータッチ）』は、一度『拒否』を出した相手を建物外に強制転移させ、以降の侵入を不可能にするというもの。
操から聞いた話によると、現在生き残っている生徒のうち一人は、すでにこの能力により退けているらしい。
その生徒は、陽日輝の同級生でもある川北慧（かわきた・けい）。
彼はなんと自転車に乗ったまま侵入してくるという大胆な行為に打って出たそうだが、『拒否』を食らい転移させられた後は、再侵入を試みるもそれが不可能だと知ると、すぐに引き返していったという。
『自転車に乗っていることが使用条件、もしくは自転車に乗っていることでより恩恵がある能力と考えてよさそうですわね』
と、その話を共に聞いていた四葉クロエは言っていたが、同意見だ。
陽日輝は、トイレから戻る途中、そのクロエと安藤凜々花が会話しているのに出くわした。
「クロエちゃん、具合は大丈夫か？」
クロエは西寺汐音の何かしらの能力に巻き込まれた際に負傷している。
凜々花の手当のおかげで、事なきを得ているが、それでも気がかりなものは気がかりだ。
とはいえこれで三度目か四度目の問いかけなので、いい加減くどいかもしれない。
しかしクロエは微笑を返してくれた。
「ええ、おかげさまで好調ですわ。凜々花には迷惑をかけてしまったけれども」
「迷惑なんてとんでもないよ、クロエ。私も陽日輝さんも、クロエには何度も助けられてるんだから」
凜々花の言う通りだ。
北第一校舎での出会いから始まり、『楽園』でもクロエには大いに助けられた。
陽日輝は、「大丈夫ならよかった。何度も同じこと聞いて悪いな」と続け、再び廊下を歩きだす。
――少し行ったところで、小走りで追いかけてくる足音がした。
「陽日輝さん」
振り返ると、駆けてきていたのは凜々花だった。
「凜々花ちゃん？」
「あの……陽日輝さん、ずっと浮かない顔してます。私に隠し事はナシですよ？」
凜々花は深刻になりすぎないようにかどこかいたずらっぽく、しかし多少は咎めるように、口を尖らせて言った。
「隠し事って言われると、そういうわけじゃないって言いたくなるんだけど……まあ、隠し事っちゃ隠し事か。ゴメン凜々花ちゃん」
「陽日輝さんは優しすぎます。……そういうところが好きになったんですけど」
凜々花は顔を逸らし、小声でごにょごにょ呟いてから、改めてこちらを向き、確信を持った口調で言った。
「辻見さんのことですね」
「……ああ」
これは、クロエの提案で一花を操に預けることを決めてから、ずっと頭の片隅に引っ掛かり続けていたことではある。
自分たちが連れ回すより、ここで保護してもらうほうが一花にとってもいいだろうと、理屈で納得しようとしても、だ。
「世渡に何か言われましたか？」
「ああ……まあな」
世渡――世渡麻央斗（せと・まおと）。
操と共にこの南第三校舎に陣取っている男子生徒。
彼には一花に関することで辛辣な言葉を向けられている。
『邪魔になる辻見さんを、ココに捨てていくってことっすよね？ センパイ』
――と。
「私も多分、同じようなこと言われてますよ。皮肉屋なんですよ、アイツ」
「いや……それもあるんだけどな。俺、凜々花ちゃんたちと離れ離れになったとき――辻見さんと、ちょっとだけ、意味の通る会話ができたんだよ」
「えっ――！？」
凜々花が目を見開く。
一花は北第一校舎や『楽園』での体験により、心を閉ざしてしまっている。
その一花と会話を交わせたというのは、にわかには信じがたいだろう。
「どうしてそんな大事なこと、言ってくれなかったんですか……！」
「ゴメン。言うタイミングがなかったのもあるし――あまり、話したくなるような会話でもなくてな」
それでも、言わなければならないだろう。
凜々花に、そしてクロエにも――余計な心配をかけ続けるわけにもいかないだろう。
陽日輝は観念し、凜々花、そしてその肩越しに、こちらに視線を向けて耳を傾けているクロエに向けて話した。
凜々花たちと離れ離れになった後、南第二校舎において夜久野摩耶の『迷鏡死酔（ミラージュ）』に囚われた際に、一花が僅かながら意思のある言葉を口にしたことを。
そしてそれが、自分はもういいから置いていってほしいという申し出や、一花を生かそうとする陽日輝に対する非難めいた言葉であったことを。
陽日輝は、苦い気持ちが込み上げてくるのを噛み締めながら話した。
そしてそれを、同じくらい苦い表情で、凜々花も聞いていた。
「一花さん、そんなことを言っていたんですね……」
「分かってたつもりだったけど、やっぱり堪えたよ。あんな目に遭って、自ら心を閉ざしたような人が、前向きな気持ちを持ってるわけがないって頭では分かっていても、ああも諦め切った姿を見るとな」
「それでもあなたは」
凜々花とは違い、冷静に話を聞いていたクロエが、ここで切り込んできた。
「凜々花を守り抜くために決断したはずですわ」
「――ああ。そのことに変わりはないよ」
「陽日輝さん……私の存在が、陽日輝さんの重しになってないですか？」
凜々花が、そう言って唇を噛んだ。
その言葉には、しかし、陽日輝は揺らがない。
首を横に振り、強く言い切った。
「逆だ。凜々花ちゃんの存在が、俺の生きる力になってる」
「……よくもまあ、そんな恥ずかしい台詞を堂々と言えますね」
凜々花は、悲痛さと羞恥とが入り混じった表情を浮かべ、視線を落とした。
そんな彼女の肩を、陽日輝はぽんぽんと優しく叩く。
本当は抱き締めてやりたかったが、クロエもいるので少し憚られた。
「俺はこれからもきっと迷ったり、悔んだりする。だけど、凜々花ちゃんを守り抜いてやるって気持ちは絶対に揺らがない。そのことは確信してる。――クロエちゃん、俺がもし迷ってしまっているときがあったら、その間は、俺の代わりに凜々花ちゃんを頼む」
「もとよりそのつもりですわ。本当に、あなたは頼りになるんだかならないんだか……」
クロエは呆れたようにそう言って、大げさに肩をすくめてみせた。
それから、切り替えるようにハッキリした声で告げる。
「明日の朝にはここを出ますわ。二人とも、心の準備はしっかりなさいませ。――それと、世渡麻央斗の能力はまず間違いなく戦いや殺し合いに向いたものですわ。一応警戒はしておいたほうがいいかもしれませんわ」
「……ああ」
麻央斗は自分の能力を隠している。
しかし、彼の態度からは、もし荒事になった場合にも対応できるという自信が感じられた――クロエも、同じことを感じていたのだろう。
陽日輝はそのあと、凜々花やクロエと二言三言交わしてから別れ、多目的室に戻った。凜々花とクロエはまだ少し廊下で話すそうだ。女子同士でしかできない話もあるのだろう。
多目的室に戻ると、操は部屋の真ん中にある椅子に腰かけ、丸テーブルの上に置いたアルバムをめくっていた。
「会長、それは？」
「ああ、暁君。――昔の卒業アルバムよ」
近付いて覗き込むと、確かにそれは卒業アルバムのようだった。
写真の色味からしてそれなりに古い世代だろう。
何列かに並んで撮影された集合写真。
まったく縁もゆかりもない人たちの写真なのに、どこか懐かしいような、切ないような気持ちに襲われる。
そして自分たちは、この写真のように物悲しくも嬉しい卒業の日を迎えることはない。
よしんば生き残ったところで、大多数の生徒は死んでいるのだ。
「知っている人でもいるんですか？」
「まさか。ただ、気晴らしになるかと思っただけよ。逆効果だったかもしれないけれどね」
操が寂しげに微笑む。
きっと彼女も、自分と同じようなことをこのアルバムを見て感じたのだろう。
ふと視線を感じて振り向くと、麻央斗が壁にもたれて立ったままこちらを注視していた。
会長と馴れ馴れしくするな、とでも言いたげだ。
そしてその予想はあながち的外れでもないだろう。
陽日輝は、わざわざ麻央斗の神経を逆撫でするつもりもなかったので、操からさりげなく距離を取った。
「会長は、この生徒葬会をどう考えています？」
「……ひどいことだと思うわ。こんなことがなければ、多少悪さをしたり、けんかをしたりすることはあれど、殺し合いなんて経験するはずもない日々を送って、卒業していくはずだったみんな――もう、二十五人しか残ってないんだから」
操は、俯いたままアルバムの上に指を這わせる。
キュッ、という音が、多目的室にどこか虚しく響いた。
「……辻見さんのこと、本当にありがとうございます」
「いいのよ。……世渡君はああ言ったけど、私もあなたたちのことは言えないの。殺し合いはしたくない、だけど死にたくもない――そんな気持ちで、こうしてこの場所に閉じこもって、問題を先送りしているだけなのだから」
「そんなことはないっすよ！」
陽日輝よりも先に、麻央斗が声を荒げて割って入ってきた。
「こんなクソみたいな状況で、手を汚していない会長は、とても立派だと――俺はそう思ってるっす」
「……ありがとう、世渡君。でも、あなたをこうして傍に置いていること自体が、いざとなったらあなたに守ってもらおうと――言い換えれば、あなたに手を汚してもらおうと思っている証左なのよ」
「っ！ それは――」
「いいの、無理に弁護しなくて。……私もみんなと同じ。本当に殺し合いが嫌なら、自ら死を選ぶのが正解なんだから。私はそれができなかったから、今もこうして、あなたたちと話している」
その口振りからして、操も生徒葬会が始まってから、死を選ぼうとしたことがあるのだろう。
そしてその踏ん切りは付かなかった。
しかし、それは非難されることではない。
死にたくないと思うこと、生きたいと思うこと。
そこに一体、何の罪があるのだろうか。
「……そのおかげで、俺たちは辻見さんのことを会長に託せました。それに、俺も世渡と同意見ですよ。あなたは立派な人です。――この生徒葬会で出会った誰よりも」
操と同じように平和を訴えた、『楽園』創始者・霞ヶ丘天を思い出す。
彼女はその美しい理想の裏で、役に立たない生徒を隔離・監禁したり、配下の生徒たちに命じて『楽園』の理念に反発する生徒を排除したりしていた。
そのことを思えば、操はとても崇高で、高潔だ。
「俺が言おうと思ったこと取らないでくださいよ。でもまあ――会長のこと、そういう風に言ってくれたことには、礼を言うっすよ、暁センパイ」
「……思ったことを言っただけだよ」
陽日輝がそう呟いた、そのときだった。
――それは、唐突かつ、あっという間の出来事で。
もし自分の身に起きていたことだとしても、対応が間に合ったかは分からない。
それはつまり、『それ』への対応が間に合わなかったことを意味する。
――立て続けに、順番に近付きながら響いた轟音に目を見開き、視線を上げたときにはすでに、多目的室の天井は崩落していて。
数メートル前にいた操がハッとして椅子から立ち上がりかけたときには、彼女を呑み込み、圧し潰していた。
砕けた木片やコンクリート片が飛び散る轟音に、操の悲鳴すら聞こえない。
飛び散ったものの中には、操のものと思われる血も含まれていた。
そして――先ほどまで操がいた場所に形成された数メートルの瓦礫の山に、一人の女子生徒が立っていた。
八重歯を剥き出してニタアッと笑う、長髪の女子生徒。
彼女の真上には、夜空まで見通せる吹き抜けが出来ていた。
それらの光景から、彼女がこの南第三校舎の屋根から、天井や床を順番にぶち抜きながら降下してきて、その結果操が圧し潰された――という、現実離れした事実を、認めざるを得ない。
「か――会、長……？」
麻央斗の声が震えている。
彼はまだ、状況を呑み込み切れていない。
だが、彼の麻痺した頭が思考を再開させたとき、彼の心に訪れるのは。
「うわああああああああああああああ！！」
麻央斗の絶叫が多目的室に響く。
そのときすでに、廊下を走って来る足音が聞こえてきていた。
凜々花とクロエが、先ほどの轟音を聞いて駆けてきているのだろう。
――陽日輝は、固く拳を握り締めた。
一瞬で、生徒会長は――水無瀬操は命を奪われた。
そしてこれは、明らかに操がいる場所を把握しての、操を狙っての襲撃だ。
――操の『不可侵領域（ノータッチ）』の弱点を突かれた。
操が『拒否』する相手を認識して『拒否』を出す前に、電撃戦で命を奪う。
明らかに、操の能力のタネが割れている。
「――会長の能力を知ってて、会長から狙ったのか？」
「君は冷静だねぇ。そこのパーマ君とは大違い。うん、そうだよ？ 操ちゃんの能力、羽香音ちゃんの言ってた通りだったなぁ」
「！ 鎖羽香音……！」
『楽園』四天王の一人であり、凜々花が所属していたゲーム部の部長でもある女子生徒。
彼女の『能力』は探知系ではないかと凜々花は以前推測していたが、ともかく、この襲撃者に操の能力を教えたのは間違いない。それができる能力だというわけだ。
「あら、羽香音ちゃんのこと知ってるんだ。まあどうでもいいや。私が用があるのは、一人だけ。――ここにいるんでしょ、一花ちゃんが」
……彼女は、陽日輝たちに対して名乗ってはいないし、それぞれ二年生と一年生である陽日輝と麻央斗に、三年生である彼女の名前は分からない。
彼女の名前は、一ノ井雫。
『吸血鬼（ヴァンパイア）』の能力によって、人間離れした肉体性能を手に入れることに成功し、純粋な戦闘能力なら生徒葬会参加者中最強となった少女。
御陵ミリアに不覚を取った後、彼女は羽香音に協力を持ちかけられた。
当初はお構いなしに羽香音を非常食にするつもりだったが、羽香音からもたらされた情報を聞いて気が変わったのだ。
それこそが、辻見一花の能力に関する情報。
羽香音曰くそれは、『血量維持（フラット・ブラッド）』。
――失血をしても致死量に達する前に、自動的に血液が補充され続ける能力。
「私に一花ちゃんをちょーだい。そしたら――アハハ！ 今日のところは見逃してあげる！」
「ふざけるな……ッ！」
傲慢に笑う雫を睨みながら、陽日輝は拳をさらに強く握った。
