【11日目:未明 屋外南ブロック】
三嶋ハナの能力『暴御壁(ファイアウォール)』は、暁陽日輝にも戦いの中で看過されたように、比較的シンプルな能力である。
全身鏡ほどの大きさの不可視の壁を自身の前方に出現させ、軽く押すだけでもそれなりの速度を持って地面を滑っていく。
一度に顕現させることのできる壁は一枚のみだが、再顕現に必要なインターバルは無い。
しかしその『暴御壁』も、ハナの貞操と尊厳を守ってはくれなかった。
生徒葬会が始まって間もない頃。
自身を捕えようとする東城の取り巻きたち相手にがむしゃらに『壁』を滑らすことで抵抗を続けていたハナだが、東城には能力の性質を容易く見抜かれてしまった。
ハナが滑らせた『壁』を素早く蹴り、むしろ足場として利用した東城は、ハナが『壁』を再出現させるよりも早くハナの首を掴み、そのまま彼女の体を片腕だけの力で持ち上げたのだ。
再び『壁』を出そうにも、両手で東城の手首を掴んで抵抗するのに精一杯で、首を絞められる苦しみと実感を持って迫る死の恐怖とに、反撃するという発想自体が奪われてしまっていた。
『あぅ…う……!』
足をジタバタとさせる。
その足を生温かい液体が伝い落ちる。
首を絞められたからか、それとも恐怖からか、ハナが失禁したのを見て、東城は嗜虐的に笑った。
『死にたくないよな。誰だってそうだ。生きていたいなら、俺が手を離してすぐに俺の靴を舐めろ。その後で服を全部脱いで土下座しろ。そうしたらエサやって飼ってやる』
あまりにも屈辱的で、あまりにも絶望的な要求。
それでも、その言葉に屈することしか、ハナが生き延びる術はなかった。
――そうして東城たちの奴隷に成り下がってからの数日間は、地獄でしかない。
確かに死にはしなかった。
だけどそれは、死ななかったというだけだ。
生きていればそれでいいのか?
自分のような弱い人間が、こんな異常な状況下で、生き方を選ぼうとすること自体が高望みなのか?
そんなことを思いながら過ごしていたからだろうか。
ハナは、『楽園』という場所も拒んだ。
生きて帰ることを放棄して、自給自足を続けながら細々と生き延びる。
そんな『楽園』の在り方もまた、ハナの望むところではなかった。
……しかし、殺し殺されが日常となる非日常の中で、ハナの心はついに壊れ、思考はまとまらなくなり、感情の脈絡もなくなっていった。
理性と狂気の狭間で、ハナは何人もの生徒を殺した。
そのまま完全に壊れてしまいたかった。
だけど完全に壊れることができないまま、ハナはひたすらこの地獄を彷徨い歩き。
そして再び、暁陽日輝と巡り合った。
自分に希望を与えてくれた人。
自分に希望を与えてしまった人。
その人は、相変わらず優しくて、強くて、ひたむきで、かっこよくて。
だけど――自分に救いをもたらしてくれない。
このひとにわたしはころせない。
だけど、このひとはわたしにころされてくれない。
――凜々花。
あなたが羨ましい。
あなたがいなければ、このひとはわたしにころされてくれるかも、なんてかんがえてしまう。
だけど。
だけど、やっぱり私は。
――この人たちを、殺したくない。
□
三嶋ハナは、『暴御壁』を出現させ、一ノ井雫めがけて突き出した。
辻見一花という人質がいるにも関わらず歩を止めないハナに動揺していた雫ではあったが、ようやく落ち着きを取り戻す。
ニヤリと笑った雫は、拳の一振りで『壁』を破壊した。
そう、『吸血鬼(ヴァンパイア)』の能力を持つ雫にとっては、この壁など発砲スチロールとさして変わらない。
ハナは――自分に雫を殺すことはできないと悟っていた。
ただ、ここで死ぬために、雫に向かっていったのだ。
自分が生きていれば、陽日輝を憎まずにはいられない。殺そうとせずにはいられない。だけど――殺したくない。憎みたくない。
その矛盾した感情を、この命ごと消してしまうために。
そしてこの地獄のような時間と空間から、逃れるために。
ハナはここを、死に場所に選んだ。
「死ね」
雫が邪悪な笑みを浮かべて蹴りを放つ。
その一撃を食らったとき、自分の肉は弾け飛ぶだろう。
もう、それでよかった。
これ以上の苦しみを味わい続けるくらいなら――それで。
だけど。
――それを許してくれないのが。
「――ハナちゃん!」
「……!」
――暁陽日輝という、男なのだ。
「――暁! オマエぇ……!」
雫めがけて、恐らく鹿島鳴人が持っていたと思われる石を投げ、陽日輝は地面を蹴っていた。
雫は、構わずこちらを蹴ってしまえばいいのに、蹴りの軌道を途中で変えて石を蹴り落とす。
人間離れした身体の駆動。
しかし、その間に陽日輝は一気にこちらまで走ってきた。
「ハナちゃん――ハナちゃんが死のうとしてるのは見てれば分かったよ。だけど、俺は――もう、俺の目の前で、良い奴に死んでもらいたくないんだ!」
陽日輝がそう言いながら繰り出した『夜明光(サンライズ)』による右フックを、雫は後ろ跳びでかわした。
しかし、すぐには反撃に打って出ない。
陽日輝・クロエ・ハナを同時に相手取っていたときの消耗は、決して小さなものではないのだろう。
これまでの雫なら、多少のダメージは厭わず突っ込んできていた。
しかしそれをしないということは、再生能力の限界が彼女の感覚的にも近付いてきているということだ。
だけど。
「……暁先輩は、ずるいです。あなたには、凜々花がいて、クロエさんがいて、なのに。どうして私や辻見先輩のことも、助けようとするんですか」
「……今、助けたいからだ。色々考えたけど、やっぱり俺には、それ以上の答えは用意できない」
陽日輝のその言葉を鼻で笑ったのは雫だ。
「偽善者ここに極まれりねぇ! いいじゃない死なせてあげたら!」
「……ハナちゃんがどうしても死にたいなら、俺には止められないかもしれない。だけど、こんな奴に殺されるのがハナちゃんにとってのベストか? ――俺は、自分の死を悲しんでもくれない奴に、殺されたくはないよ」
「――っ」
「あーあー鬱陶しい、どうせ死ぬんだから同じでしょうが! ――羽香音、一花をこっちに連れてきてよ。血ぃ吸って回復して、全力でそいつ潰すから」
雫の言葉に、羽香音が薄い笑みを浮かべて言った。
「そうだね、彼にはこの辺りで退場してもらおう」
羽香音が一花を連れて雫に近付く。
――その瞬間だった。
羽香音の首筋に一本、赤い線が入ったように見えたかと思うと。
そこから、勢い良く血が噴き出したのは。
「!?」
当の羽香音だけでなく、陽日輝も、雫も、後方にいるクロエも息を呑む。
そして――羽香音が、首を押さえながら振り返った先には。
休憩スペースの柵から身を乗り出し、腕を伸ばした体勢の凜々花がいた。
その唇は、部活の先輩を手にかけたからだろう、辛そうに結ばれている。
気を失っていた凜々花はいつの間にか目を覚まし、不意打ちのタイミングを見計らっていたのだろう。
とても冷静で的確な判断――凜々花らしい行動だ。
そして、それによって羽香音は一花を手放してしまう――だが、それでも、陽日輝が駆け寄るよりは雫が一花を確保するほうが早いだろう。二人の間には、今なおそれだけのスピードの違いがある。
だが。
雫が伸ばした手は、一花に届くことはなかった。
羽香音の拘束から逃れてなお、茫然自失のままだった一花が、凄まじい速度で地面を滑るようにして遠ざかっていったからだ。
――ハナが『暴御壁』を一花めがけて繰り出したことで。
「余計な真似をぉぉぉぉ!」
雫がハナに掴みかかろうとしたタイミングで、彼女の全身に小さな穴が開く。
後方にいたクロエが、大量の水の刃を飛ばして彼女に浴びせたのだ。
「陽日輝、ハナ、今ですわ!」
クロエの言葉に、陽日輝は半ば本能的に、自分が取るべき行動を理解していた。
雫の背後に回り込み、その背中に『夜明光』による一撃をぶつける。
そのタイミングで、陽日輝はハナに目配せした。
「ハナちゃん、『壁』を!」
その言葉にハナが乗ってくれるかどうかは賭けだった。
しかし、ハナは陽日輝の望み通り、『壁』を出現させていた。
それにより、背中を殴られた雫は『壁』に顔面から衝突し、跳ね返ってくる。
雫が殴れば容易く壊される『壁』ではあるが、それでも、人がちょっとぶつかった程度では壊れないくらいには強固だ。
「! 暁ぃぃぃぃ……!」
雫は、血走った目でこちらを振り返り、睨み付ける。
その背中の傷は再生しつつある。
しかし、その表情には明らかな狼狽が浮かんでいた。
無理もない。
この状態になってしまったら――雫がいかに人間離れしたスピードを持っていようが、無意味だ。
「でぃやあああああああ!!」
陽日輝は、両の掌に橙色の光を宿し、雫の背中に連打を浴びせる。
衝撃で吹っ飛ばされた身体はハナが出現させている『壁』にぶつかって跳ね返り、そこにすぐさま次の拳が炸裂する。
横に逃れる暇は無い――それだけ、陽日輝と『壁』との距離は詰まっており、雫もここまでのダメージでかなり身体能力及び再生能力を低下させている。
そして、陽日輝の『夜明光』は当たりさえすれば当たった箇所を焼き溶かす必殺の一撃。なので、この状況なら拳にそこまでの力を込める必要すらない。
雫に脱出や反撃の隙を与えないよう、ジャブの要領でひたすらに連打するのみだ。
「あが――が――あ――」
雫の再生能力を、次第にダメージが上回っていく。
ここで羽香音が健在なら何かしらの手を打っただろうが、凜々花によって倒された今、雫を助け出そうとする者はいない。
雫の上半身が穴だらけになり、手首から先が失われたまま戻らなくなり。
そうして、何十発目かの拳が彼女のうなじに触れたとき、その首は焼け溶け、ポロリと落ちた。
そしてそのまま、生首のほうからも胴体のほうからも、再生しない。
無事なのは下半身だけという壮絶な有様で、雫は崩れ落ちた。
ハナが出現させている透明な『壁』は血に塗れ、そのせいで空中に大量の血が固定されているかのように見える。
雫が倒れ伏したのを見て、ハナはその『壁』を消失させた。
陽日輝はそこでようやく、手帳を取り出して残り人数を確認した。
残り人数は『20』になっている。
どうやらまだ、羽香音は息があるらしい。
見ると、仰向けに倒れている羽香音の傍らに凜々花が跪いていた。
部活の先輩である羽香音を、看取っているだろう。
陽日輝は一瞬警戒したが、羽香音の首から流れ出た血液で大きな血溜まりができていて、その顔色や制服から覗く手足から血色が失われている。
彼女がそう長くないことは、容易に見て取れた。
この生徒葬会で培われた、ろくでもない経験による知恵だ。
「ハナちゃん――」
「……辻見先輩を利用したこの人に殺されるのは、確かにいやだと思いました。でも、私はまだ、死にたいという気持ちでいます」
「……悪いけど、俺にはハナちゃんを殺せないよ」
「わかってます。……でも、だったら私は――それに、辻見先輩も。どうしたらいいんですか?」
ハナは、『壁』によって十数メートル離れた場所にまで運ばれ、そこで無気力に寝転んだままの一花へと歩み寄った。
そして彼女に肩を貸し、立たせる。
地面を滑ったことで多少土埃に塗れてはいたが、大きな怪我はなさそうだ。
もっとも、一花の場合は『血量維持(フラット・ブラッド)』の能力によって、出血による死はありえないのだが。
「それは――」
「こういうのはどうだ? 暁」
「!」
突然聞こえた声に振り向くと、そこでは鹿島鳴人が立っていた。
雫に吹っ飛ばされたダメージからか脂汗を浮かべてはいるが、命に別状はなさそうだ。
「タフですね。さすがは野球部員といったところですわ」
クロエがカラビナで提げたペットボトルに手をかけながら、警戒心を露わにして言う。
しかし当の鳴人のほうは、敵意は無いと言わんばかりに手をヒラヒラと振った。
「いやいや、一ノ井にぶっ飛ばされてさっきまで気ぃ失ってたんだぜ。それでお前らまとめて相手するなんて無理無理。――俺はな、同盟を提案してるんだよ。俺が三嶋ちゃんと辻見を連れていく。お互い最後の六人になるまで不可侵。っていうの、どうだ?」
「!」
陽日輝は、鳴人からの思いもよらぬ申し出に驚いた。
しかし、すぐにその発言の裏を探らんと、問いかける。
「……凜々花ちゃんは危うく死ぬとこだった。簡単には信用できないな」
「おいおい、そこはお互い様だろ? こんな状況なんだからよ。お前らだって殺す気で戦ったろ? 三嶋ちゃんとはともかく、俺とはな」
「…………」
それは確かに、否定できない。
陽日輝が言葉に詰まっていると、クロエが代わりに訊ねた。
「それで、ハナはともかく辻見一花も連れて行くというのはどういう心変わりですの? あなたは『楽園』で、彼女のことを足手まといだの殺してやるべきだの言っていたじゃありませんの」
「あのときと違って三嶋ちゃんがいる。お前らも実感しただろうけど三嶋ちゃんの能力は割と強い。それならお荷物一つくらいどうってことないさ。それに、ここにいる全員にとって悪い話じゃないはずだぜ。三嶋ちゃんは死にたい、けど暁には殺す気は無い。だったら俺と一緒に行動してるうちにどこかで死ねるなら、お前らお互いにとっていい話だろ」
「それは――」
「そうですね。鹿島先輩、いいこと言いますね」
陽日輝が反論するよりも先に、ハナがそう言ってニッコリと笑った。
「暁先輩、あなたと一緒にいるのはつらいです。だから、私はこの人と一緒に行きます」
「……そうか。ハナちゃんがそう言うなら――そのほうが、いいのかもな」
陽日輝は、相川千紗が日宮誠と共に行くことを選んだときのことを思い出していた。
そのときにも近い寂しさと疎外感が胸に浮かぶ。
しかしそれは、とても傲慢な感情だ。
自分は凜々花を選び、もう一人にもクロエを選んだ。
であるならば、他の誰かから選ばれなかったとしても、文句の言いようはないはずだ。
「――まあ、落としどころとしては悪くないかもしれませんわね。凜々花は、それでよろしくて?」
「……うん」
凜々花は、羽香音を看取り終えたのか、静かに立ち上がる。
その表情は浮かないが、当然だろう。
いくら『楽園』で非道を尽くしていたとはいえ、羽香音は凜々花にとってゲーム部の先輩であり、尊敬する部長だったのだから。
ふと手帳を見ると、数字はまたも減って『19』になっていた。
雫、羽香音が死に、ついに残り人数が20人を割った。
ここにそのうちの三分の一ほどが集まっている。
「なら、決まりですわね」
クロエがそう言って、陽日輝たちは『同盟』を結ぶことになった。
陽日輝・凜々花・クロエと、鳴人・ハナ・一花に分かれて、最後の六人になるまでは敵対しないという、消極的協力関係を。
これでいいんだろう――きっと。
そう思いながらも、陽日輝は後ろ髪を引かれるような思いだった。
ふと視線を向けると、ハナは静かに首を横に振った。
……自分がハナにしてやれることは、もうないのだろう。
若駒ツボミの言葉が、またしても重くのしかかる。
『あなた一人に背負える命は限られている』
「……分かってるさ」
そう呟いてみたが、何の気休めにもならなかった。
□
――時間をほんの少しだけ遡る。
安藤凜々花は、自身が致命傷を与えた鎖羽香音を看取っていた。
すでに陽日輝とハナによって一ノ井雫は倒されている。
それを横目に、羽香音が力無く笑った。
「私の……悪い癖、だね。手札の強さだけを見て、雫と組んだけど……『楽園』を落としたあなたたちを、この期に及んで、侮っていたのかも、しれない……」
「……部長。あなたにとっては、この生徒葬会も、ゲームだったんですよね」
「……負けたけどね。あなたと組んでみたかったけど、あなたが私と組むわけが、なかったか」
羽香音は、今度は顎を引き、自分の胸に目線を向けた。
「持って行くといいよ……私の手帳。私の『千理眼(ウィッチウォッチ)』を使うかどうかは任せるけど……きっとあなたなら、使いこなせる」
「……ありがたく頂戴します。ゲーム部で、私の面倒を見ていただいて――本当に、ありがとうございました」
凜々花は、羽香音の胸ポケットから手帳を抜き取り、そう言って頭を下げた。
「この期に及んで、私を先輩扱いして……礼儀正しいにも程があるよ、凜々花ちゃん」
羽香音は、苦笑いをしようとしたのか、少しだけ表情を変えた。
すでにそれもうまくいかないくらい、彼女は死へと近付いていた。
「そんなあなたにだから――教えてあげる。本当は黙ったまま死ぬつもりだったけど、このままだと、あなたが少しだけ、不憫だから」
羽香音はそう言って――凜々花の目を、まっすぐに見上げた。
そして、これまでのか細い声とはうってかわって、ハッキリとした声で、こう告げた。
「――四葉クロエに気を付けて。彼女には、あなたたちに秘密にしていることがある」
「!? それは、どういう――」
凜々花が訊き返したときには、羽香音はすでに目を閉じていた。
それから数秒と経たずして、彼女は事切れていた。
「…………」
クロエはこれまで、何度も自分たちを助けてくれた。
北第一校舎での東城一派との戦い、『楽園』での霞ヶ丘天との戦い、そして一ノ井雫との戦い。
クロエがいなければ、自分や陽日輝はすでに死んでいただろう。
そのクロエに、気を付けて――なんて、敵だった羽香音に言われても、にわかには信じがたい。
だけど――あの人は、死に際にこちらを攪乱させるためだけに、嫌がらせめいた嘘を吐くような人じゃ、ない。
だとしたら――クロエは本当に、自分たちに対し秘密を抱えているのか。
凜々花は、羽香音の遺体を見下ろしながら、自分の胸の内に迷いが生じかけていることを自覚していた。