【8日目:昼 北第一校舎一階 階段】
暁陽日輝は、北第一校舎の一階と二階を結ぶ階段を登っていた。
踊り場を挟んで各十数段ずつの、そう長くはない階段。
しかし、音を立てないよう気を付けながらなので、どうしても一歩あたりに費やす時間は長くなる。
ふと顔を上げ、すっかり高くなった太陽が差し込む、踊り場の天窓を見つめた。眩しさに目を細め、すでに朝とは呼べない時間帯になっていることを改めて実感する。
思えば今朝は、激動に次ぐ激動の時間だった。
ボイラー室の扉を爆破されるという派手な襲撃から始まり、息つく間もなく峠練二による襲撃。東ブロックからこの北ブロックまで逃げてきた矢先にまた別の生徒に襲われたかと思うと、挙句の果てには両手両足をぶち抜かれるという深手を負った。
あとほんの少しの判断の遅れやミス、あるいは偶然次第で、自分あるいは凜々花、もしくはその両方が、すでに死んでいてもおかしくない。
それほどの目まぐるしい修羅場の数々をどうにか切り抜け、今、自分は新たな修羅場へと赴こうとしている。
「……やってやるさ」
――両手と両足の傷穴は、すでに塞がっている。
拳を握ったり開いたり、足首を床に付けて回したりしてみたが、痛みや違和感もない。
そのこと自体は喜ばしいことだが、その『代償』として自分はとんでもない役目を押し付けられたものだ。
――陽日輝は、あの二人組――焔と水夏との殺し合いの後の出来事を、回想した。
□
陽日輝は凜々花を背負い、どうにか北第一校舎一階の保健室前に辿り着いた。
保健室が昇降口近くにあるのが幸いだった。
思えば自分が通っていた小学校も中学校も、保健室というものは一階の、昇降口からそう遠くない場所に設けられていたものだ。
それは偶然ではなく、屋外で怪我をした生徒をすぐに連れて来たり、保健室では手に余る生徒を迅速に救急搬送できるように、そういう配置になっているのだと誰かが言っていた気がする。
なんにせよ、陽日輝は凜々花を落としてしまわないよう気を付けながら、保健室の横開きの扉を開けた。
――思えばこのとき、疲労と安堵からか、自分は警戒不足だった。
背後への意識はともかく、保健室の『中』への意識が、欠如していたのだ。
「――止まりなさい」
「……!?」
張り詰めた糸のような厳しい声。
扉にかけた左手を離すよりも早く、喉元に鋭利なものを突き付けられ、陽日輝はぎょっと目を見開いていた。
正面少し右寄りに、細く鋭い針のような剣を右手に持ち、その切っ先をこちらに向けている、射貫くような眼差しの女子生徒がいる。
身長は160cm台後半はありそうで、女子としては長身の部類だろう。
上半身はブレザーだが、下半身はスカートを履かずジャージだった。
学校指定の冬用体操服のそれとはデザインが違うので、彼女の私物だろうか。
「騒がなければただちに危害は加えない。名前と学年を言いなさい」
「……参ったな、先客がいたのか」
「質問に答えなさい。あなたの賢明な判断に期待している」
強い意志を感じさせる瞳は、今喉元に突き付けられている剣のように鋭い。
その凛とした声に彼女の背の高さ、ショートカットの髪型に、スカートを履いていないことも相まって、どこか男装の麗人のような印象を受けた。
……陽日輝は、そんな彼女の肩越しに、保健室の奥で身を寄せ合っている二人の女子生徒を確認する。
一人はベッドに腰かけ、もう一人はその傍らのパイプ椅子に座っていた。
不安と緊張の入り混じった、警戒心に満ちた視線が注がれる。
――今、自分に剣を突き付けているこの女子生徒をどうにかできたとしても、この満身創痍かつ凜々花を連れている状態で残り二人と戦うのは分が悪い。
何より、殺すつもりならすでにやっているだろうと考え、陽日輝は答えることにした。
「暁陽日輝、二年生だ。背中の子は安藤凜々花、一年生」
「安藤のことは知っている」
「……へえ」
それはまた意外な事実だった。
凜々花のほうはどうだろうと思い、後ろに視線を向けようとしたら、動こうとしたとみなされたようで、剣の切っ先がさらに数ミリ、喉元に近付けられた。
「まだ動いていいと言っていない。――安藤は眠っているか。その様子だとかなり血を流しているな」
「……!?」
彼女にそう言われて、陽日輝は今さら、凜々花が先ほどから何も言わないことに思い至り、またしても振り返りかけ、今度は自制した(今度こそ刺されかねない)。
その代わりに耳を澄ませ、凜々花が微かに寝息を立てていることを確認して、ひとまず安堵する。
そんな陽日輝の一連の所作に気付いたのか、目の前の女子生徒の表情が少しだけ緩んだような気がした。
「安心しなさい、悪いようにはしない。私たちは積極的に表紙を集めようとは思っていない」
「……でも、それじゃあ帰れないぜ」
「表紙を集めるのは私たちである必要はない」
「……。なるほどな」
その言葉で、陽日輝はすべて理解した。
確かにこの生徒葬会、殺した人数は生還の条件に含まれていない。
あくまでも、表紙を百枚集めた人間三人だけが生きて帰れるというだけだ。
恐らく彼女たちは、ある程度生徒葬会が進んだところで、表紙を大量に集めた人間から奪う算段なのだろう。
体力の消耗を避けるという意味でも悪くない作戦だ――ただ、三人で行動している以上、動き出すタイミングを間違えると別の生徒に抜け駆けされ、三人全員の生還が不可能になってしまうという点に加え、『議長』が追加したルールにより、自分たちの『能力』は一つのままで、複数の『能力』を持つ生徒から表紙を奪わなければならないという懸念事項はあるが。
まあ、そのくらいは彼女たちも承知してはいるだろう。
いずれにせよ――そういうスタンスなら、なんとか穏便にやり過ごせるかもしれない。
「……俺はここに凜々花ちゃんの手当に来ただけだ。それが済んだらすぐに出ていく。だから、それまでここに置いてくれないか」
「い……嫌ッ……!」
震える声でそう言ったのは、ベッドに腰かけている女子生徒だった。
セミロングの柔和そうな顔立ちの女子生徒だが、今は恐怖に歪んだ表情だ。
そんな彼女を、傍らにいるお団子ヘアの女子生徒がなだめた。
「環奈(かんな)……落ち着いて」
環奈と呼ばれた女子生徒はその声が耳に入っていないかのように、頭を抱えて首を横に振っている。
――そのただならぬ様子に、思わず眉をしかめてしまったかもしれない。
剣を持っている女子生徒が、苦々しげに言った。
「私としても君たちを見殺しにするのは胸が痛い。しかし、私たちにも事情があってね。――安藤だけなら構わないが、君はここに置けない。すまない」
「……。俺が、男だからか?」
「そういうことだ」
剣を持った女子生徒は短く答え、フウ、と息を吐いてから続けた。
「――もっとも、安藤だけではなく君も手当を必要としているのは理解できる。むしろ君のほうが重傷に見えるしな。だから君たちの手当はしよう。――それだけならいいだろう? 環奈」
「……う、うん。ツボミさんが、そう言うなら……」
環奈は、この数メートルの距離でもギリギリにしか聞こえないほどのか細い声でそう言ったものの、こちらの視線に気付くと「ひっ」と短い悲鳴を上げて縮こまってしまった。
――この尋常ならない怯え方は、単に腕力があるから男性を恐れている、というだけではないだろう。そして恐らくは、生徒葬会以前からそうだったわけでもなさそうだ。
……陽日輝の頭の中に、胸糞悪い憶測が浮かぶ。
それが顔に出てしまったのだろうか。
ツボミと呼ばれた目の前の女子生徒が、咎めるように目を細めた。
「余計な詮索はしないことだ。――では、早速だが安藤をあなたから見て左側のベッドまで運ぶことを許可しよう。ただし妙な真似をしたら躊躇無く刺す」
「……ああ。ありがとう」
――そうして陽日輝は、ツボミに監視されながら凜々花をベッドに寝かせた。
それから、包帯や消毒液を貰っていいかと尋ねたところ、ツボミに「その必要はない」と言われ、そこで環奈の『能力』を目の当たりにしたのだ。
環奈――最上環奈(もがみ・かんな)の能力は、『超自然治癒(ネオヒーリング)』。
自分が触れている間、対象の自然治癒力を劇的に強化し、傷の治療から失った血の回復に至るまで、凄まじい速度で行えるという能力らしい。
あくまでも『回復させる能力』ではなく、『自然治癒力を強化する能力』に過ぎないため、陽日輝と凜々花二人分の治療には小一時間を要したが。
……ちなみに、凜々花はともかく陽日輝の治療の際は、ツボミに剣先を突き付けられた状態で、環奈は後ろから指が触れるか触れないかくらいのギリギリでタッチしてきて、という状態だった。
ツボミには「気を悪くしないでくれ」と言われたが、正直微妙な気分にはなる。
ちなみに、ツボミのフルネームは若駒ツボミ(わかこま・つぼみ)、もう一人のお団子ヘアの女子生徒は根岸藍実(ねぎし・あいみ)と言うらしい。
ツボミは三年生、残りの二人は一年生だそうだ。
ツボミは体育祭の実行委員繋がりで、残りの二人は同級生ということで、全員が凜々花のことを知っているらしい。
環奈の治療を受けながら、陽日輝はツボミたちと情報交換を行った。
といっても、話し相手はほとんどツボミで、藍実がたまに話に参加するくらい、環奈に至っては一切口を利いてくれなかったが。
やはり、環奈の男性への恐怖心は相当なものらしい。
また、ツボミたちはほとんど北第一校舎の一階に籠っているらしく、目ぼしい情報はなかった。逆にこちらがすぐ外で焔たちと戦ったことを話して驚かれたりもした。
凜々花は眠ったままだったが、治療のおかげかひとまず顔色は良くなった。
――と、そんなこんなで、環奈による二人分の治療が終わったところで、ツボミが「ところで」と切り出した。
……どこか申し訳なさそうなその表情に、陽日輝はあまり良い予感がしなかった。
「――実を言うと、私があなたたちを助けたのは安藤が知人であることと、人道的観点というだけではなく、もう一つ理由があるんだ」
「……。まあ、命の恩人の言うことだ、聞くだけ聞くよ」
「――感謝する。実は、この北第一校舎の二階と三階には、ある男が『王国』を作っている。力で他の生徒をねじ伏せて、使役しているんだ」
「……それはまた、穏やかじゃない話だな」
生徒葬会という異常な環境で、平和な日常の世界では禁忌とされていることに手を出してしまっている生徒を、陽日輝も見てきている。
しかし、他の生徒を使役しているというのは、今までに見聞きしたことのないケースだ。
――そして、それを自分に話すことの意味。
ツボミたちの生徒葬会におけるスタンスと合わせて考えると、とても嫌な予感がする。
しかし敢えて口を挟まず、陽日輝はそのままツボミの話に耳を傾けた。
「その男の名前は東城要(とうじょう・かなめ)。私と同じ三年生だ。元々素行の良い輩ではなかったが、この生徒葬会を利用して欲望の限りを尽くしている。男は手帳を集めるための労働力、女は奴の欲望の捌け口にされている」
「――っ。それはまた――酷い話だな」
凜々花から聞いた、彼女の親友の最期を思い出し、陽日輝は陰鬱とした気分になる。
それだけではなく、東城要という名前が出た瞬間と、『女は奴の欲望の捌け口にされている』というくだりとで、環奈が明らかに動揺したのが分かり、自分が当初から抱いていた予感が当たっていたことを知ってしまった。
――きっと環奈も、東城要の被害を受けていた一人なのだろう。
「酷いなんてものじゃない。私は環奈から話を聞いて、奴を殺すため一度三階に行ったから、奴が根城にしている教室の中を見ている。――今も同じ建物で、あんな地獄が存在しているのだと思うと、身の毛もよだつ」
ツボミは、心底不愉快そうに顔を歪めた。
唾でも吐き捨てそうなくらいに、嫌悪感を露わにしている。
……一体どんな光景が、広がっていたというのだろうか。
「奴の取り巻きは何人か殺したが、無理やり従わされている者を巻き添えにはしたくなかった――だから私の『能力』では存分に戦うことができなかった。しかしそれを差し引いても、奴の能力は厄介だ。恐らく奴は腕を振ることで猛烈な冷気を起こすことができる。掠っただけで腕が酷い凍傷になったよ。環奈がいなければ片腕をなくしていた」
ツボミは、左腕をさすりながらそう言った。
――冷気、か。
しかし掠っただけで腕に重度の凍傷を与えるともなれば、それはもはや、自分の『夜明光(サンライズ)』と同じく、必殺の領域に達している。まともに当たれば命は無いだろう。
……いや、むしろ、その能力。
自分の『夜明光』と対を成しているのかもしれない。
「私と藍実は環奈を連れて一階まで逃げてきた。そこで藍実の『通行禁止(ノー・ゴー)』を使って、この建物の一階と二階との行き来を不可能にした。それからもう三日になる。状況に変化は無いままだ」
「……膠着状態ってことか」
根岸藍実の『能力』については、先ほどの情報交換で聞いていた。
『通行禁止』、不可視の壁を展開する能力だ。
人の行き来はもちろん、物を投げても向こう側には渡らない。
その性質は、『議長』がこの学校の敷地内と敷地外とを分断している見えない壁に近い印象だ。ただし、『議長』のそれとは違い、壁の向こう側の景色は互いに見ることができるし、声も届く。
また、壁を張る範囲も校舎のワンフロア分が限界だという。
何より大きな制限は、屋内でしか使用できないという点だ。
確かに広範囲に展開できる見えないバリアと考えれば強力なので、『議長』がバランスを取るためにそのような仕様にしたのかもしれないが――
「そういうことになる。……しかし、いつまでもこのままではいられない。東城から他の生徒を解放したいし、それに昨夜の放送での追加ルールだ。あの教室には十人近い生徒がいた――東城はすでに二つ、最悪の場合三つの能力を持っていると考えるべきだろう」
「……若駒さんの話を聞いて俺が想像している東城の性格だと、無理やり従わせている奴らから能力のページを奪っているだろうな」
「そういうことだ。だとしたら、冷気を発生させる能力以外に未知の能力を持っているということになる。さらに言うと、『通行禁止』は万能じゃない。二階に戻ることができないというだけで、奴らは窓から飛び降りれば外には出られる。『通行禁止』で覆っているのはあくまでもこの『一階』だけだからな。まあそちらは大きな問題ではないが、厄介なのは、この能力を使っている間、藍実が眠ることができないということだ。こまめに仮眠を取ってもらっているが、どうしても『通行禁止』が解除されている時間が出来てしまう。そこを突かれるようなことがあれば、私たちは終わりだ」
「……なるほどな。俺と凜々花ちゃんがこの校舎に入れたのは、ちょうどその時間に通りかかったからってことか」
「そういうことだ。――正直な話、肝が冷えたよ。藍実を休ませている間、すべての出入り口を監視するのは不可能とはいえ」
こうして改めてツボミたちの状況を聞かされると、あまり良くない状況なのが分かる。
藍実が休んでいる間は『通行禁止』が使えない。
しかし、環奈は体格・性格・『能力』そのすべてにおいて戦闘に向いておらず、有事の際に戦えるのはツボミのみ。
だが、『通行禁止』が解除されている間、この一階は安全地帯ではなくなってしまい、昇降口や階段はもちろん、窓からも侵入が可能となる。
ツボミは気丈に振る舞っているが、実際のところかなり精神的にも辛い状況だろう。
別の場所に逃げるにしても、『通行禁止』が屋外では使用できないという制限がネックとなり、逃げ切れるかどうかは分からないのだ。
――そして。
これらの話を踏まえた上で、ツボミが切り出してくること。
それが何なのか、陽日輝にはおおよそ察しが付いていた。
「暁陽日輝。あなたには、東城要を殺してもらいたい」