【8日目:夕方 北第一校舎一階 調理室】
暁陽日輝と安藤凜々花は互いに想いを伝え合い、口づけを交わした。
これが恋愛小説やドラマなら、その時点で大団円、物語はハッピーエンドを迎えるわけだが、あいにく自分たちが置かれている状況自体は変わらずシビアだ。
脱出どころか外部との連絡も不可能な状態で囚われ、三人しか生きて帰ることができない殺し合い前提のゲームへの参加を強いられているという、その絶望的な大前提は、覆すことができるものではない。
しかし、その絶望の中を生き抜いていくための希望は、確かに強まった。
陽日輝は凜々花を守りたいとずっと思い続けてきたが、凜々花のほうが自分のことをどう思っているかは、確信が持てずにいた――凜々花とは昨夜知り合ったばかりだし、行動を共にするようになったのも、自分に凜々花を殺す決断ができなかったからに過ぎないからだ。
しかし、自分だけではなく凜々花のほうも、自分を大切に想ってくれていることを知ることができた。
そのおかげで、生徒葬会で擦り減った心が少なからず癒された気がする。
――だが、今にして思うと、それは同時に油断を生んでいた。
そのことを、陽日輝は左手の痛みと共に文字通り痛感する。
陽日輝の左手を傷つけている、万能包丁の無骨な刃。
指と指の間から溢れ出る血が、手首へと伝い、床へと落ちていく。
目の前には、その包丁の持ち主である少女の、血走った眼でこちらを睨む顔があった。
――どうしてこんなことになったのか。
陽日輝は、数十分前からの記憶を思い返す。
……凜々花と口づけを交わしてしばらくしてから、四葉クロエが小会議室に戻ってきた。
東城一派から二階と三階を奪還したことで、彼らが蓄えていた食料を手に入れることができたのもあり、全員分の夕食を作るという話になり、その手伝いをすることになったのだ。
陽日輝自身、この生徒葬会が始まってからマトモな食事をしてきていないので、御馳走を期待して浮かれてしまっていた部分もある。
そこに凜々花に告白されたことによる充実感が重なり、さらに根岸藍実の『通行禁止(ノー・ゴー)』により安全が保障されている北第一校舎一階にいるという事実も合わさって、陽日輝は生徒葬会が始まって以来、最も気を抜いてしまっていた。
だから――気付けなかったのだ。
東城要を倒したからといって、それですべてが解決したわけではないということに。
――夕食はカレーを作ることになっていた。
十人もの大所帯なので、寸胴鍋で量を作れるカレーにしたのだろう。
陽日輝は料理なんて夜食のインスタントラーメンくらいしか作ったことがなかったし、調理実習でも同じ班の料理が得意な生徒に指示されるまま動いていただけだったので、正直あまり役に立てるとは思っていなかったが、それでも何もせずに食べるだけ食べるのも申し訳なかったので、調理室に顔を出したのだが――それが良くなかった。
東城一派に囚われていた星川芽衣たち四人の内の一人――藍実が『ハナ』と呼び捨てにしていたので恐らく一年生なのだろう――は、自分に対し明らかに怯えていた。
それ自体は、最上環奈だってそうだったので、陽日輝は『酷い目に遭わされたんだししょうがないよな』と思っていたが、その認識が甘かったのだ。
ハナと呼ばれた彼女が、東城たちに欲望の捌け口として利用され続けていたことは分かっていたし、それにより心に傷を負っていることも分かっていた――分かったつもりでいた。
しかし、真に理解していたのなら、彼女の様子に気付いてすぐ、調理室を出るべきだっただろう。
だが無神経にも自分は、彼女に近付き、話しかけてしまった。
『大丈夫か?』
――なんて言いながら。
……そのとき調理室に、凜々花・ツボミ・クロエの三人が不在だったこともまずかったかもしれない(凜々花はトイレに寄り、クロエは自分を調理室に案内したのち「すぐに戻りますわ」と退室した)。
彼女たちがいたら、自分がそんな迂闊な行動を取ることを未然に止めてくれていたはずだ。
『~~~~! 来ないでぇ!』
ハナと呼ばれた少女は甲高い悲鳴を上げながら、野菜を切るために使っていた万能包丁を振り下ろしてきた。
咄嗟のことでかわす余裕もなく、包丁の刃を左手で鷲掴むことによって無理やり止める形になってしまい、指や掌に傷を負ってしまった――というところで、今に至る。
「ハナ! 何してるの、やめてっ!」
陽日輝とハナ以外で調理室にいたのは、芽衣たち三人と環奈、そして藍実だったが、その中で最初に我に返ったのは藍実だった。
制止の声を上げ、陽日輝とハナのほうに駆け寄ってくる。
「大丈夫だ!」
包丁を持っている上にパニックになっている相手に近付くのは危険だ。
陽日輝は咄嗟にそう判断してそう叫び、右手でハナの右手首を掴む。
包丁をそれ以上押し込まれたり、振り回されたりしないようにだ。
しかしそれが、かえってハナを恐慌させる結果となる。
「いやあぁァぁ! 離して、離してよ、離せぇェ!」
「ぐっ……!」
ハナの腕力自体は大して強くない。
しかし、生徒葬会のこれまでの戦いと違い、ハナに反撃するわけにはいかないため、身をよじらせて暴れるハナを抑えるのは一苦労だった。
なんとか包丁の刃を自分の左手から離し、直後にハナの手首を捻って包丁を取り落とさせる。
すぐさま靴裏で後ろ向きに蹴り飛ばし、包丁は床を滑っていった。
「きゃあああ!」
誰かの悲鳴が上がる。
そのときガラガラと調理室の横開きの扉が開けられ、
「何事ですの!?」
とクロエが飛び込んできた。
少し遅れて、凜々花も。
――そのときようやく、ハナはハッと動きを止め、それから、その場に崩れ落ちて咽び泣いた。
「うあああああああああああああ……!」
これまで抑圧されてきた感情が爆発したかのような泣き声。
そんな彼女を見下ろしながら、陽日輝はようやく自分の浅はかさを自覚する。
そして自分が、どれだけ油断していたかを。
自分は、ハナたちの心の傷の深さをまったく理解できていなかった。
東城を倒したからといって、彼女たちが東城にされたことがなかったことらなるわけではないというのに。
「――不用意だな、暁」
「……若駒さん」
最後に調理室に現れたツボミが、渋い顔でそう言った。
それから、床で泣き崩れているハナの傍らでしゃがみ、彼女をそっと抱き締める。
「もっとも、私の注意不足でもある。――あなたが東城を倒してくれた恩人であることは、ハナも含めてみんな理解しているよ。頭で分かっていても、心はままならないものだ」
「……すいません」
「ハナのことは私に任せてほしい。藍実たちは引き続き料理を。暁、あなたは申し訳ないが、しばらくまた小会議室にでもいてくれないか」
「……分かりました」
陽日輝は、後悔と自己嫌悪に唇を噛み、頷いた。
――ハナの背中を抱くツボミは、まるで聖女のように見える。
冷徹に生徒葬会での生存戦略を実行する彼女も、今ここで傷ついた少女を気遣う彼女も、どちらも若駒ツボミという人間の一面なのだろう。
どこか敗北感すら覚えながら、陽日輝は出口へと向かう。
その途中、凜々花が心配するような眼差しを向けてきた。
「陽日輝さん――」
「……ごめん、凜々花ちゃん。料理は、凜々花ちゃんたちに任せるよ。クロエちゃんも、頼む」
「かしこまりましたわ」
この『頼む』というのは、自分が不在の間凜々花のことを頼む――という意味なのだが、クロエにはきっと、ちゃんと伝わっただろう。クロエの表情を見てそう信じ、陽日輝は調理室を出る。
「あ、あの!」
廊下に出て数歩歩いたところで、後を追ってきた環奈に呼び止められた。
振り返ると、環奈は慌てて目線を落とし、「傷……治します」と呟いた。
「ああ……ありがとう。さっきはゴメン――怖がらせちゃったな」
「いえ、あ、まあ……怖かった、ですけど。でも……ハナちゃんも、分かってると、思うから――だから、その、気に病まないでください……」
――環奈だって、東城に虐げられていた被害者の一人だ。
だから心のどこかで、ハナたちも環奈と同じく、会話くらいは問題なくできるだろうと思い込んでいたのかもしれない。
……いや、そんなのは卑怯な言い訳だ。
まるで環奈のせいだと言わんばかりじゃないか。
すべては俺が浮足立っていたのに加え、無神経だったせい――
「……ごめんな。環奈ちゃんだって辛いだろうに、気を遣わせちゃって」
「いえ……私は、恵まれてますから……」
環奈は、陽日輝の左手首に恐る恐る触れ、『超自然治癒(ネオヒーリング)』を発動させた。廊下にポトポトと落ちていた血の滴が止まり、少しずつ左手の指や掌の裂け目が塞がっていく。
「私は、逃げたから……それで、若駒さんに助けられて……だから私は、ハナの気持ちが、完全に分かるわけじゃ、ないんです。きっと、私よりずっと、ひどい目に遭ったはずだから……」
環奈は、悲痛そうに唇を結んでいる。
……東城に虐げられたという点は同じでも、環奈とハナたちとでは、東城に捕らえられていた時間が違うのは確かだ。
そのことを、環奈は内心気にしていたのだろう。
きっと環奈は、繊細で優しい子だ。
だから、自分も被害者だというのに、こんな風に他者を慮ろうとする。
「……無神経にあの子に話しかけた俺が言うのもなんだけど、それで環奈ちゃんが負い目を感じなくてもいいんじゃないかな。どっちのほうが辛いとかどっちのほうが苦しいとか、そんなので上も下も無いだろ」
「……ありがとうございます。暁さんは、その……優しいんですね」
環奈は、わずかに微笑んだようだった。
そのときには、陽日輝の左手の傷はあらかた塞がっていた。
あくまでも自然治癒力を高めているだけなので、どんな傷でも治せるというわけではないそうだが、それにしても強力な能力だ。
しかし――『優しい』か。
「……優しくなんか、ないさ」
ただ、甘いだけだ。
凜々花を守ることを誓いながら、この体たらくではその凜々花を失いかねない。
とはいえ、北第一校舎を出る前にそのことに気付けたのはよかったかもしれなかった。
今一度、緩んだ気を引き締め直さなければ。
――そしてその結果、いつか自分は、この心優しい少女も手にかけなければならないのだろうか。
そうでなくとも、自分と凜々花が生還する道を選ぶということは、大多数の生徒を見捨てるということを意味する。
これまで何度も考えてきたことだが、やはり気が滅入ってしまう。
しかしそんな気持ちと裏腹に、陽日輝の胃は空腹を思い出していた。
調理室からは、寸胴鍋の中に入れられた野菜が立てるジュウジュウという音と、香ばしい匂いとが漂ってきている。
「……美味しそうですね」
「……そうだな」
環奈と顔を見合わせ、互いに照れ隠しのように笑う。
なんだか、少しだけ彼女と心が通じ合えたような気がした。
――憂いても仕方のないことを憂いても仕方がない。
そうクロエに言われたばかりだったことを思い出す。
だからとりあえず今は、夕食を楽しみにしながら大人しく小会議室で待っていることにしよう。
陽日輝は、そう自分に言い聞かせた。