【9日目:朝 北第一校舎一階 小会議室】
暁陽日輝と安藤凜々花は、朝早くに起床して身支度を整え、小会議室で朝食を摂っていた。
他のメンバーは調理室で朝食を摂っているが、昨日のこともあるので、男性である自分は引き続き別室での食事を申し出て、凜々花がそれに付き合っているという形だ。
朝食のメニューは、トーストにウインナーに目玉焼き、そしてヨーグルトとコーヒー。いかにも朝食といった内容だ。
それを口に運びながら、陽日輝はこの場所であった出来事を回想する。
この北第一校舎で過ごした時間は丸一日にも満たないが、あまりにも色々なことがありすぎた。東城要との戦い、若駒ツボミとの駆け引き、星川芽衣との別れ、凜々花と過ごした夜。
恐ろしいことや苦しいこと、辛く悲しいことのほうが多かったが、それでも、もう間もなくこの場所を後にすることになるのだと思うと一抹の寂しさを感じる。
それは正面で食事を続けている凜々花も同じなようで、コーヒーの水面に映る自分の顔を見下ろしながら、神妙な表情で呟いていた。
「……ここでこうして食事をするのも、これで最後なんですよね」
それは陽日輝も、口にしかけていたことだ。
外に比べれば平穏なこの場所で、他の生徒の襲撃を恐れず豊富な献立の食事を摂れる――それがどれだけ恵まれていたことか。
「ああ……そうだな。味わって食べないとな」
「あはは……そうですね」
凜々花の笑顔にも、少し寂しさが滲み出ている。
――凜々花の同級生である四葉クロエと三嶋ハナは、自分たち同様ここを出て、根岸藍実と最上環奈は、ツボミと共にこの場所に残る。
芽衣が死んだ今、ここに同級生は一人も残っていない自分と違い、凜々花にしてみれば生徒葬会以前から関わりのあった知人たちとのお別れになるのだ、少なからず感傷的になったとしても無理のないことだろう。
自然と言葉少なになりながら、陽日輝と凜々花は朝食を終えた。
その後、一旦凜々花と別れて片付けや歯磨き、最後の身支度を終え、ようやく一息ついたとき、クロエが廊下の途中で壁にもたれて立っているのを見かけたので声をかけてみた。
「クロエちゃん、おはよう」
「おはようですわ陽日輝。そういえば、バタバタしていて挨拶がまだでしたわね。凜々花とはトイレで会いましたけども」
「まあ、もうすぐ出発だしな。一度外に出たら、若駒さんはもう入れてくれないだろうし――忘れ物が無いかの確認は大事だ」
陽日輝と凜々花は昨日の時点で、必要なもの、あったら便利そうなものは、二階や三階も含めた北第一校舎中を回ってかき集めたし、クロエたちも同様の動きをしていたのを見かけている。
しかしそれでも、ここまで物資を補給できる場所や機会は、今後の生徒葬会の中でも恐らく二度と無い――それが分かっているから、今朝になっても何か頭の中から抜け落ちているものがないか不安になってしまい、最後の身支度に余念がなかったというわけだ。
――この北第一校舎を発つのは六人。
『議長』による放送の直後に話し合った結果、それぞれの組が十分置きに出発するという段取りになっており、その順番も決めている。
最初がクロエ、次にハナたち三人、最後に陽日輝と凜々花という順番だ。
つまり、クロエはこの北第一校舎から一足早く出て行くことになる。
「そういえばちゃんと言ってない気がするから、言わせてくれ。クロエちゃん、力を貸してくれて本当にありがとう」
「礼には及びませんわ。あなたや凜々花のことは好ましく思っていますけれど、一番の理由は打算ですわ。私は私が生き残るために最善を尽くしているだけですの」
「だとしても、だよ。――生きてまた会おうぜ」
「ええ。お互いにとって、望ましい形で」
そう――状況によっては、自分たちは再び出会ったとき、殺し合わなければならなくなる。
こうして打ち解けた、少なくとも自分はそのつもりでいる相手と、そんなことはしたくないが、生徒葬会は確実に終わりに向かって進んでいる。その事実に対する焦りは、少なからずあった。
しかし、その焦りに囚われてしまっては、重要な場面で判断を誤りかねない。一つのミスが自分や凜々花の死に直結しかねない以上、冷静さを失うわけにはいかなかった。焦らず急ぐ。心がけるべきはそれだ。
――クロエとそんな会話をしていたとき。
「あ、あの」
恐る恐るといった様子で、三嶋ハナが声をかけてきた。
凜々花やクロエと同じ一年生で、東城一派に囚われていた生徒の一人。
そのトラウマから、昨日は自分に対して切りかかってきたりもした。
その後、芽衣が起こした騒動があったりもしたし、自分もハナたち三人、特にハナには出来るだけ近づかないようにしていたので、まともに対面するのは久しぶりかもしれない。
クロエと顔を見合わせてから、陽日輝はハナに話しかけた。
……またハナの感情が爆発してしまうのではないかという懸念を抱きつつ。
「……どうした? ハナちゃん」
「わ、私――暁先輩に、ほんとにひどいことして――ごめんなさい!」
ハナが勢いよく、そして深々と頭を下げる。
ハナのうなじや背中がはっきり見えるくらいの全力の礼だ。
「あ、ああ――気にするなよ」
謝られている陽日輝のほうが、思わずたじろいでしまう。
このままだと落ち着かないので、「とりあえず、頭を上げてくれ」と促した。
「は……はい。すいません!」
ハナはまたしても勢い良く顔を上げた。
その際に一瞬風が起きたのを知覚できたくらいだ。
凜々花から聞いたが彼女は運動部(バドミントン部だそうだ)なので、上下関係には敏感なのかもしれない。
実際、凜々花やクロエとは違い『先輩』呼びをしているし。
「あのときは、あいつらにされてたことが浮かび上がってきて――まともじゃなかったです。後になって、私たちを命がけで助けてくれた暁先輩に、あんな仕打ちをしてしまったことをすごく後悔して――ほんとに、すいませんでした!」
またしても深々と礼。
その直後、ハッとしてからすぐさま頭を上げる。
先ほど頭を上げるように言われたばかりなのを思い出したのだろう。
動揺のためなのか、あるいは元々そそっかしい性格なのか。
いずれにしても、ハナがこうして自分と会話を交わせるくらいには立ち直ってくれていることは嬉しかった。
「ハナちゃんがこうして生きていてくれている、それで十分だよ」
「そう言ってもらえて嬉しいです。……暁先輩は、優しいですね。私なんかに、そんな風に言ってくれるなんて」
ハナはそう言ってから、クロエのほうに視線を動かして言った。
「クロエは、一人で出発するんだよね? ――怖くないの?」
「ええ。――と断言すれば嘘になりますわね。私もこの校舎での戦いで死にかけましたし、ここを出てからの不安は当然ありますわ。ですが決めたことですの」
「……そっか。――えっと――また、会えると――……はあ。『また会えるといいね』って言いづらいの、本当に嫌」
ハナが、この状況への怒りと自嘲の入り混じった表情でそう漏らす。
そんなハナの肩をポンポンと叩き、「気に病むことではありませんわ」とクロエは言った。
それから、ハナの肩から離したその手をヒラヒラと振ってみせてから、廊下の向こうへと歩き始めた。
「私は出発の支度をしたいので、そろそろ部屋に戻りますわ」
「ああ、それじゃあまた」
「うん、分かった」
陽日輝とハナの挨拶に、もう一度後ろ手にヒラヒラと応えて、クロエは去っていった。
「クロエちゃんは飄々としてるよな。いつもあんな感じだったのか?」
「そうですね、生徒葬会の前も今も変わらなくて――そういうところ、羨ましいです。……私も、ああいう風に強くなりたいです」
ハナが、少しだけ顔を伏せて、ぎゅっと唇を結んだ。
……その肩が小刻みに震えているのに、陽日輝は気付いた。
「ハナちゃん――」
「……怖いんです。私、鈍臭くて弱虫だから。井坂先輩と辻見先輩の足も引っ張って、そのうち見捨てられちゃうんじゃないかとかも考えちゃって。……でも、星川先輩みたいに大それたことする勇気もない。私はきっと、このまま流されて生きて流されて死ぬんです」
「……!」
ハナの、弱々しい微かな笑みを浮かべ震えるその姿には、既視感があった。
それは、星川が――星川芽衣が見せたものに、とてもよく似ている。
折れた心を諦めが満たした、あまりにもやるせない嘆きの表情だ。
だから――陽日輝は、思わず声を荒げてしまった。
「そんなこと言わないでくれ!」
「! えっ、あの――」
怯えるハナの目をまっすぐに見つめ、陽日輝は言った。
それは、芽衣には届かなかった言葉。
あるいは、届いたとしてもこの心を変えるには値しなかった言葉。
「俺は――ハナちゃんたちに生きてほしかったから助けたんだ。恩着せがましいと思ってくれていい。星川には実際そう言われた」
「――! 星川先輩に――」
「……ああ。俺には星川を説得できなかった。俺がもっと上手く立ち回っていれば、アイツは死ななかったんじゃないかって考えたりもした。でも――やっぱり、俺にはただ『死なないでほしい』って言うことしかできないんだよ。俺は口が上手くないし、『ハナちゃんを守る』とか無責任なことも言えない」
ツボミに言われた通り――自分に背負える命は限られている。
自分自身を守り、凜々花を守る。恐らくそれで手一杯。
だから、ハナのことを『一緒に行こう』と誘うことはできない。
ハナのほうから頼まれたとしたら――断ることができるかは分からないが、きっと断ったほうがいい。
自分はきっとハナを守り切れないだろうから。
自分にとっても、凜々花にとっても、ハナにとっても、苦い未来が待っているだけだ。
「ハナちゃんは強いよ。俺の想像も付かないような目に遭っても、俺のことを気遣ってこうして声をかけてくれたんだから。……だから、ハナちゃんには生きようとし続けてほしい」
「……暁先輩は、厳しいですね」
数分前、『暁先輩は、優しいですね』と評したハナの口から、反対の言葉が出る。
しかしその表情は、あのときよりも穏やかなように見えた。
「私が生き残れる可能性が高くないことくらい、分かってるはずなのに。……でも、暁先輩の気持ちは伝わりました。私なんかにそこまで言ってくれて――本当に、ありがとうございます。――頑張ってみます。精一杯」
ハナは、そう言ってニコッ、と白い歯を見せて笑った。
それは、これまで見てきたハナの表情の中で、一番晴れやかな笑顔だった。
「また会いましょう。約束です」
クロエに対して、再会を望む言葉をかけるのを躊躇ってしまったハナが、今、何の迷いも無くそう言ってのけた。
――だとしたら本当に、自分の言葉や想いは、彼女に届いたのか。
……それはきっと、無責任な願いなのだろう。
自分ではハナを守れないのに、ハナに生きてほしいのだから。
それでも、それこそが、今の自分の紛うことなき本心からの願いだ。
「――ああ。約束だ」
陽日輝は、大きく頷いてそう答えた。
次に出会うときは、敵同士になるしかない状況かもしれない。
それでも、ハナと交わしたこの約束を守りたいというのもまた、偽りようの無い本当の気持ちだった。