【9日目:朝 裏山】
一度降り始めた雨は止む気配もなく、土砂降りとまではいかないまでも、街行く人の大半が傘を差すほどの降水量に達していた。
暁陽日輝は裏山の斜面で雨に打たれながら、先ほどまで激闘を演じていた相手――そして、同級生でもある楪萌の遺体を見下ろしていた。
「……ごめんな」
その言葉は、すでに顔面を『夜明光(サンライズ)』の一撃で焼き溶かされ、頭部のほとんどを欠損している萌には届くはずもない。
もっとも、萌が生きていたとしても、自分を殺した相手からの謝辞など唾棄していただろう。
陽日輝自身、この言葉が偽善に満ちたものであることを知っている。
いや、偽善ですらない――ただ単に、自分の心を慰めるためだけのものだ。
この生徒葬会が始まってから、自分は少なからず人を殺している。
今自分がいる裏山からほど近い旧校舎の裏では、正当防衛とはいえ友人も手にかけているくらいだ。
裏山を登り始めるとき、旧校舎の近くを通ることになるが、その際は意図的に遺体が目に入らないようなルートを辿った。
この期に及んで、と自分でも思う。
若駒ツボミに対して切った啖呵に嘘はない――安藤凜々花を何があっても守り抜くという誓いに、偽りなどあるはずがない。
しかしそれでも、たとえ自分を殺そうとした相手であっても――その死を、悼んではいけないなんてことはないはずだ。
ましてや萌は同級生で、知らない相手というわけでもなかったのだから。
「……本当なら、埋めてやりたいんだけどな」
萌を倒すため、あえて先に行かせた凜々花に早く追い付きたい。
小屋には入らないよう言ってあるが、小屋の中にいる誰かが凜々花に気付いて荒事になる可能性もあるし、それ以外の第三者に襲撃される可能性もある。
本当なら、星川芽衣のように手厚く葬りたいが、あのときとは場所も状況も異なるのだ。
生徒葬会において、死後に埋葬された生徒が果たして芽衣以外に何人いるか――ほとんどの生徒はその場に放置され、腐敗が進んでいるものも多い。
この裏山は他と離れたエリアであることと森林特有の木や土の匂いのおかげで大丈夫だが、それ以外の場所では風に乗ってむせ返るような腐臭が漂ってくることも珍しくない。
萌の遺体もいずれ虫に食われ、肉が腐り、生前の面影一つも無い有様になるのだろう。
そこに無常を感じながら、陽日輝は萌の遺体の手を胸の上で合わさせてやり、目を閉じて合掌したまま一礼した。
――ちなみに、その際に萌の胸ポケットを探ったが、手帳がなかった。
遺体とはいえ女子の体を探るのはためらわれたが、そうも言っていられない――隈なく探したものの見つからなかったので、陽日輝は諦めて凜々花と合流することにし、斜面を登り始めた。
もしかしたら、先ほど二人でこの斜面を転げ落ちた際に、どこかに手帳が落ちたのかもしれない。そう考えて、足元には注意を払いながら。
とはいえ、そうでない可能性もある――萌の言動から察するに、彼女は誰かに復讐しようとしていた。その『誰か』が、萌から手帳を奪ったのかもしれない。
それが誰なのかまでは、萌なき今知る術もないが。
――しかし、この雨のせいで全身がずぶ濡れだ。
あの小屋にはシャワーもあるので、無事に辿り着けたら服を着替えよう。
凜々花ちゃんも今頃、雨に濡れて震えながら待ってるんだろうな――と、陽日輝はそう思いを馳せた。雨風を凌げる小屋が目の前にあるのに入れないのは堪えるだろう。早く合流してあげなければ。
しかし、だからといって焦りは禁物だ。
雨音が自分の足音をかき消してくれているこの状況、裏を返せば、誰かが近付いてきていても、その足音も雨音に紛れて聞き逃すおそれがあるということだ。
聴覚が頼りにならない以上、視覚から得られる情報はより重要になる。
陽日輝はこまめに立ち止まって耳を澄ませながら、四方八方を見回しながら、木々の間や茂みの奥で動くものがないか目を凝らした。
その繰り返しになるため、どうしても進みが遅くなる。
一刻も早く凜々花の無事を確かめたいのはやまやまだが、その気持ちは無意識に周囲への警戒を甘くしてしまいかねない。
陽日輝は自分を律しながら、斜面を登り続けた。
すでに振り返っても、萌の遺体が見えないところまで来ている。
何度も小屋に足を運んだ自分だから、一見同じように見える山の景色の違いもなんとなく分かる――そろそろ小屋が見えてくる頃だ。
となると、小屋の近くに身を潜めているであろう凜々花の姿も探さなければ。
陽日輝は、汗と雨でびっしょりと濡れた額を手の甲で拭いながらそう考えた。
□
安藤凜々花は、この生徒葬会が始まってから幾度となく、自分の体力不足を痛感していたが、この裏山を訪れてからは終始そうだった。
運動神経自体は平均的高校生女子のレベル――だと、思う。しかし、昔からスポーツやアウトドアにあまり興味がなかったため、中学の頃は絵も描けないのに美術部に所属していたし、高校ではゲーム部でボードゲームやカードゲームに興じる日々を送っていた。
そんな凜々花にとって、裏山を登るという行為は重労働だった。
これは明日にでも筋肉痛になるかもしれない――いや、運動不足だから明後日以降になってやっとでもおかしくないか。
もっとも、そのとき自分が生きていれば、の話だが。
「……嫌になるなあ、本当に……」
大木の陰に身を隠した状態で、凜々花は呟く。
もちろん、降りしきる雨の音に紛れて、一瞬でかき消されてしまう程度の声量で。
すでに凜々花は、陽日輝が仲間たちと過ごすのに使っていたという小屋と思われる建物を視認していた。
そして、陽日輝に言われていた通り、小屋には近づかず待機している。
――凜々花は決して馬鹿ではない。
陽日輝がわざわざ自分を行かせたのは、楪萌を二人で迎え撃つ以上の勝算があるからだということはすぐに察した。陽日輝のここぞというときのひらめき、爆発力を、凜々花はすでに何度も目の当たりにしている。
もちろん、心配していないというと嘘になる。
しかし、その感情に任せて引き返すことは選択肢になかった。
凜々花は元々、どちらかというとロマンテストではなくリアリストだ。
感情は理性で制御すべきもの。
衝動は知性で抑止すべきもの。
そんな凜々花だから、テーブルゲームも性に合っていたといえる。
部内では、ゲームごとの得手不得手はあるものの、総合的な腕前は、部長と一つ上の先輩・白木恵弥に次いで三番手に位置していたと自負している。
――ただ、この生徒葬会が始まってから、理性や知性というものがいかに脆く弱いものであるかを思い知らされた。
自分も一度は恐怖に負け、ただ死にたくない、生き残りたいという思いに駆られるまま殺し合いに身を投じていたし、それに、中学時代からの親友だった天代怜子が惨殺されたことで、憎悪や絶望に脳を焼かれる思いもした。
突き付けられた『死』を前にして、人はこうも簡単に醜く堕ちるものなのか。
何より自分はこんなにも、弱く脆い人間だったのか。
――正直なところ、自分はもっと精神的に強い人間だと思っていた。
しかしそれは思い上がりも甚だしい、ただの自惚れで。
だけど――そんな自分にとっての運命の分かれ道は、彼に出逢ったことだろう。
「……陽日輝さん。私は、あなたが思っている以上、あなたに救われているんですよ」
本人を前にしては、気恥ずかしくて言えないような台詞を、一人であることと、雨が降っていることをいいことに呟いてみる。
陽日輝からすれば、自分を殺そうとしてきた相手だというのに、彼は命を取らなかった。
そして、二人で行動を共にするようになって、幾度となく危機を乗り越えて。
――いつの間にか凜々花は、陽日輝を心の底から愛してしまっていた。
吊り橋効果? だったらなんだ。
今この胸の内にある、嘘偽りのない気持ちがすべてだ。
その気持ちが形作られるに至ったプロセスなんてどうでもいい。
――昨夜のことは、鮮明に覚えている。
陽日輝に想いを伝え、それに口づけで応えられて。
こんな状況だというのに――否、こんな状況だからこそ。
この想いは、凜々花にとって何より強い力となり、希望となっていた。
――しかしそれと共に、今でも捨てることができないものがある。
怜子を辱めて殺した、名前も知らない鬼畜への復讐心だ。
映画や小説なんかでは、愛するものが出来たことで復讐心が薄れる、ないし失われるといった展開が散見されるし、そういった心の機微は理解できる。
しかし凜々花は、陽日輝と同じくらい、怜子のことも大切に想っている。
だから、その怜子をただ殺すに飽き足らず、欲望のままに凌辱したあの男が憎い。
すでに生存者の数も残り少なくなっている現状で、あの男が今も生きているかどうかは分からないが――もし、この視界に入ったのなら。
そのときは、必ずや怜子が味わった倍の苦痛と絶望を与えてやる。
その誓いは、今なお色褪せてはいなかった。
……しかしそれにしても、この雨はすぐには止みそうにないようだ。
髪の毛から滴る滴が時折目に入りかけるのが鬱陶しい。
肩にかけたバッグの負い紐が鎖骨に食い込む鈍い痛みに、何度も負い紐の位置を微調整した。
よくもまあこれだけ重たい荷物を提げてここまで登ってこれたものだ。
体力不足は間違いないが、人間、生きるか死ぬかの極限の状況では、多少の無理はできるものなのだろう。
しかし、小屋に着いて一段落したら、荷物の配分を調整してもらおう――と、そんなことを考えていたとき。
「!」
凜々花は、小屋の木製の扉が、わずかに開いたのを見た。
ほんの数センチだが、注意深く見ていたので分かる。
中にいる何者かが、外の様子を窺っているのだ。
――今ここで僅かにでも物音を立ててしまうと、その何者かの警戒レベルは一気に上がる。
こんな森林で、しかも雨も降っているのだから、例えば石が転がったり、枝が揺れたりしてもおかしくはないが、生きるか死ぬかの状況で、そんな風に楽観的に捉える人間はそうはいない。
たとえ自然に発生し得る音であっても、それが人間によって発されたものであると考えて行動するほうが生存戦略としては正しい。
だから、ここは微動だにせず待つのが正解だ。
欲を出して、開いた扉の隙間から覗く何者かの顔を見ようとしたり、逆にその何者かに見つからないようにとより深く身を隠そうとしたり――そういった行動を取るのはかえってリスクを高めてしまう。
大丈夫、自分が今立っているこの木陰は、先ほど遠巻きに小屋が見えた時点で、一旦縦の移動をやめて横に移動し、グルリと一周した上で、最も小屋から見えにくく、かつ小屋の様子も窺える場所として選定した絶好のポジションだ。
ましてやこの荒天で辺りは薄暗い――ここに自分が隠れていることはまずバレないだろう。
――と、思っていた矢先。
扉の隙間から、銀色のL字型の箱のようなものがスッと姿を覗かせた。
――それは、規制が厳しい日本では、なかなか直接お目にかかることができないもの。
そして、この生徒葬会においては、あってほしくないもの。
――拳銃、ハンドガン、ピストル――そう呼ばれる類のものだった。
「……!」
大丈夫だ、落ち着け。
ここで動揺して身じろぎしてしまってはならない。
確かに拳銃の射程距離と殺傷能力は脅威だが、こちらの存在は変わらず露呈していないはずだ。
不意打ちでさえなければ、拳銃の引き金を引かれるのと、こちらが『一枚入魂(オーバードライブスロー)』を放つのと、そこまで速度に差はない。
自分はちゃんと急な襲撃に備えて、指の間にカードを挟んだ状態でいるのだからなおさらだ。
飛び道具の無い陽日輝さんには辛いだろうけど、私なら対応できる……!
そう思っていた、瞬間。
「!?」
パァンッ、という乾いた音が、雨音の合間を縫うようにして響き。
直後、凜々花が身を隠している大木の端、凜々花の頭があるのと同じくらいの高さの場所で、木っ端が舞い散った。
あの銃からの発砲で、飛んできた弾丸が大木を掠ったのだということは、考えるまでもなく分かる。
その証拠に、扉から突き出た拳銃の高さが、少しだけ上がっている。
発砲の反動によるものだろう――しかし、妙だ。
あの銃からは煙の一つも上がっていないし、薬莢も飛び出していないように見える。
――いや、この学校に元々拳銃が保管されていたなんて非現実的なケースでもない限り、あの拳銃は『能力』によって作られたものに違いない。
とすると、普通の拳銃とは勝手が違っていても不思議はなかった。
煙も上がらず薬莢も排出されずに撃てる銃なら、かえって本物より隠密性は高く便利だろう。
しかし――迷うことなく、こちらが隠れている木を撃ってきたということは。
「そこにいるのは分かってるのよ。大人しく出てきて頂戴」
言葉を発した者の警戒と緊張がひしひしと伝わる、鋭い声。
女性の声で、雨音のせいで分かりづらいが、知っている声ではない。
――陽日輝さんが言っていたように、陽日輝さんの友人の一人なのかもしれない。
だとしたら、陽日輝さんの名前を出して説得を試みるのが正解か――いや、あの人の生徒葬会に対するスタンスが分からない以上、それで良い方向に転ぶとは限らないか。
それなら陽日輝さんが追い付くのを待つべきだろうか。
……いや、あの人がもし陽日輝さんの友人ではなかったら、友人だとしても、構わず陽日輝さんを殺す心積もりだったなら、『不意に向けられる拳銃』は非常にまずい。
ここは――陽日輝さんが追い付く前に、私がなんとかすべき状況だ。
「このまま返事が無いなら、敵対の意志ありとみなすわよ。逃げようとするのも駄目。その場合背中を撃つわ。あなたが信用できる人間だと分かれば、私はあなたを殺さない。だから、そうね――私が今から五数えるから、ゼロになったら出てきて。行くわよ――」
「勝手に話を進めないでくれませんか? 私に敵対の意志はありません」
「! ……そ、それならさっさと返事しなさいよ」
声の主は明らかに動揺した様子でそう言った。
――よし、成功だ。
こういうとき、相手のペースに乗せられてしまうのはあまりよくない。
こちらから相手の提案を遮ることで、出鼻を挫いたのはそのためだ。
あちらからの突然の発砲によって初っ端から奪われていたイニシアチブを、こちらに取り戻すことができた。
とはいえ、銃という武器が持つ力は大きい。
あちらが我に返り銃による恫喝を推し進めてくれば、容易にイニシアチブを奪い返されかねない。
だから、ここは畳み掛けなければならない場面だ。
もちろん、変に刺激しすぎて激昂させることがないように注意しながら。
「あなたは銃を持ってますよね? ですから、あなたは姿を見せた私を容易に殺すことができるはずです。私に敵対の意志が無いのは間違いありませんが、そんな状況で気軽に姿を晒すことはできないということをご理解いただけますでしょうか」
「……」
言葉は発されなかったが、銃口が少し下がった。
どうやらこちらの言葉を咀嚼し、思案しているようだ。
その考えがまとまる前に、さらに続ける。
「そこで提案なのですが、まずはお互いに自己紹介をしませんか? この様子だとお互い知り合いではないかと思いますが、名前だけでも知ることができれば、お互いに少しは安心できる気がします。私は一年の安藤凜々花といいます」
くどいくらいに『お互いに』を多用したのは意図的だ。
こちらだけではなくあちらにも利があることを強調する。
そして先にこちらが学年付きで名乗ったことで、相手にも学年を言わせるように仕向けた。
本当ならこの小屋に何人いるかも合わせて言わせたいところだが、少し露骨すぎるし、それを聞くとしても、それはもう少し会話を重ねてからだ。
「……私は相川千紗。二年よ」
――こちらの思惑通り、名前と学年を言わせることに成功した。
そして、その名前には聞き覚えがある――凜々花は陽日輝に前もって、小屋で出会う可能性がある、つまり小屋の存在を知っている友人たちの名前と特徴を聞いていたからだ。
千紗は陽日輝たちのグループでは紅一点となる人物で、女子バスケットボール部に所属しているという。
なんにせよこれで、陽日輝と無関係な第三者という線は消えた。
後はここから、どういう風に話を持って行くかだ。
凜々花は扉の隙間から覗く銃口、そしてその奥に影だけ見える千紗を見据えながら、思考を巡らせていた。