【9日目:夕方 屋外東ブロック】
嶋田来海は、御陵ミリアとの馴れ初めを思い出していた。
いや、正確に言えば一年次にクラスメイトだった時点で、四月の時点で顔は何度も目にしていたが、『あの日』が来るまでは、名前もあやふやなくらいだった。
来海自身がお世辞にも社交的とは言い難いことに加え、ミリアもまた同様であり、そもそも互いの席が離れている時点でグループワーク等の班分けが同じになることもない。
そのため、他の大多数のクラスメイト同様、『ただ同じクラスなだけ』に過ぎなかった。
そんな自分がミリアと深く関わることになったのは、ある日の放課後の出来事がきっかけだ。
その日自分は日直であり、担任の先生からのちょっとした頼まれごとをしていた。
頼まれごと自体は大した内容ではなく、先生から鍵を預かって、普段使われていない教室から、翌日の授業で使う小道具を教室まで運んだだけだ。
ただ、その途中、普段は通らない場所を通ったことで、偶然目にしてしまったのだ――ミリアが、男子生徒から何枚かの紙幣を、手の中に押し込まれるように渡されているところを。
さらにそれが、多目的トイレの前というのが決定的だった。
「あ――」
思わず声が出てしまったが、男のほうは気付かなかった。
――ただ、ミリアのほうはこちらに気付き、無表情に一瞥してきた。
その顔には、焦りも驚きもなければ、見られたことへの怒りも、気まずさを誤魔化すような笑みも浮かんでおらず。
ミリアはただ、男を促すようにして多目的トイレに連れだって入っていった。
――それを見届けた時点で、その場を離れるのが賢明な判断だったのだろう。
そして翌日以降も、素知らぬ顔で過ごす。
そうすればミリアのほうも、知らぬ素振りを決め込むだろう。
――しかし来海はどうしてか、その場を離れなかった。
ただ、再び二人が出てきたときに見つからないよう、少し離れた廊下の曲がり角の向こうにまで移動して、そこからドアが開く音が聞こえるのを待ったが。
数十分後、ドアは開いて、一人分の足音が去っていった。
十分に間を置いてから廊下の角から顔を覗かせてみると、男子生徒の背中が遠ざかっていっているのが見えた――どうやら、出て行くタイミングはずらしているらしい。誰かに見られることを危惧してのことだろう。
まあ、実際にはトイレに入る前に来海が目撃してしまっているわけだが。
……程なくして再び、トイレのドアが開く音がした。
それを聞いて、一瞬隠れようかと思ったが、来海はすぐに思い直し、自ら多目的トイレに近付いていった。
廊下の途中でミリアとすれ違いかけ、そこで立ち止まる。
自分が先かミリアが先か――とにかく、二人ともが立ち止まった。
「や、やあ……」
「あまり人には言わないでね」
ミリアはそれだけ言って、歩き出そうとした。
「ちょっ、待っ」
来海は反射的にミリアの進路を塞ぐ。
ミリアはその表情の無い顔を少しだけ気だるげにした。
「……なに?」
「いや、その……何をしてたのかな、なんて――」
「お金貰うとこ見てたよね。セックス以外にあると思う?」
「せっ……そ、……そう、だよね」
ハッキリと言われると、たじろいでしまう。
ミリアは、ポケットからしわの寄った数枚の一万円札を取り出してみせた。
「こんな私にも価値が付くの。面白いよね」
「……面白くない、よ。もっと、その、自分を大事に、とか――」
「いいよそういうの。大事にするような自分とか無いから。別に無理やりされてるわけじゃないし。嶋田さんに関係ないよね」
「……関係は……ない、ね」
「なら、別にいいよね」
ミリアはそう言って、来海の横を通り過ぎていく。
……遠ざかる足音を聞きながら、来海は、自分を納得させる言葉を探した。
だけど、どうにも見つけられなかったから――振り返り、ミリアを呼び止めた。
「待って、その――えっと……」
「御陵」
「……御陵、さん。キミの言うことも分かる――分かるんだ。だけど、やっぱり私は――キミに、自分を大事にしてほしいと思うよ」
「――偽善者。そういうのやめて。私を買った男の中にもいたよそういうこと言う人。やることやっといて笑えるよね」
ミリアは言葉とは裏腹に、にこりとも笑っていない。
しかしかといって、強い怒りや憤りがあるわけでもない。
今だって、自分に対する微かな苛立ちが滲んでいるだけだ。
彼女の言う通り、彼女には肯定する自己というものが無いのかもしれない。
だけど。
「そうだね、私はキミに偽善を向けているのかもしれない。だけど、そうだね――うん。やっぱり、言葉じゃ伝わらないな、この気持ちは」
来海は頷き、そして。
ミリアの頬を、ぱちんと打った。
「!? ……!?」
乾いた音が廊下に反響し、ミリアが目をぱちくりとさせる。
反射的に頬に触れ、その丸い瞳を大きく見開いて、こちらを凝視していた。
「な、なに……?」
「これが私の気持ちだ。無表情で体売ってるような奴を放っておけるわけないだろ? キミがその手の中のお札でしか自分の価値を感じられないのなら、そんな必要が無くなるくらい、私がキミの価値を見出してやる」
「……それは、つまり、どういうことなの?」
「友達になろう。話はそれからだ」
□
「……ミリア。キミは私の想像以上の価値、……いや、そんな無機質な言葉じゃダメだな――魅力を、私に見せてくれたよ」
「喋るのはいいけど、少しでも動くと喉笛を掻っ切るわよ。まあ、あと数秒でそうなるけれど。7……」
……来海の耳元でそう囁くのは、同級生の月瀬愛巫子だ。
来海の正面では、ミリアが同じように男子生徒に後ろからナイフを突きつけられている。
生徒葬会で、親友の久遠吐和子を失い、今、残された自分たちも絶体絶命の危機にある。
……ミリア。
私はキミが、少しずつ笑顔を見せるようになってくれたことが、何より嬉しかった。
あのとき私は、柄にもなくキミに対して熱くなったけど、今思えば、キミとは親友同士になれるようなそんな予感を、どこかで感じていたからかもしれない。
――だから、キミは私を生き残らせようとしているようだけど。
「……ミリア。キミが今でも自分を大事にできないというのなら、それでもいい――だけど。私と、吐和子が親友と認めたキミが、無価値なわけがない!」
「うぶっ!?」
来海は、思い切り首を後ろに倒し、愛巫子の顔面に頭突きを食らわせた。
あわよくばこの隙に愛巫子を振り切れたらよかったが、そう都合よくはいかなかった。
「このっ!」
愛巫子は、躊躇無くその手を引き、カッターナイフの刃が、来海の首を横一文字に切り裂いた。
痛い、という感覚は一瞬。
それは閾値を超えたことによる錯覚なのかどうなのか、熱さに変わった。
噴き出す血のフィルター越しにミリアの驚愕した顔を見る。
そしてその後ろで、ほぼ棒立ちになっている早宮瞬太郎の姿も。
――やはり、愛巫子ほどの覚悟は彼にはないようだ。
それならば、付け入る隙はある――この致命傷を受けることと引き換えに、自分は自由になった。
だから――懐に隠し持っていた、予備の懐中電灯を、ミリアに放り投げることも――できる!
(ミリアッ!)
懐中電灯が放物線を描く。
自分は膝から崩れ落ちる。
叫ぼうとした喉から血の塊だけが出る。
それでも来海は、ミリアが懐中電灯を受け取り、そのまま後ろ手にライトを照射したのを見た。
「ぎぃああああああ!!」
早宮の影が『影遊び(シャドーロール)』によって照らされ、全身を焼かれながら早宮が倒れるのが見えた。
しかしその直後には、来海もまた、力尽きて倒れ伏してしまう。
ミリアが、今度は愛巫子に懐中電灯を向けたようで、愛巫子の悲鳴が降り注いできた。
しばらくその悲鳴は聞こえていたが、遠ざかっていく足音から判断するに、彼女は影を焼かれながらもこの場から逃げ去ったらしい。
――程なくして、ミリアの泣きそうな顔が視界いっぱいに映し出された。
「来海! 来海ぃ!」
来海は弱々しく微笑んだ――少なくとも、自分ではそのつもりだ。
しかし、言葉すら出せない、意識も薄れかかっている今、上手くできたかはわからない。
「どうして……! どうして、来海が……!」
――私がキミに生きてほしかったからだよ、ミリア。
「吐和子も、来海も、私のために……! 私のせいで……!」
ミリアの瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、来海の頬や額に落ちる。
薄れかかった意識の中でも、その温かな熱は、はっきりと感じられた。
「みり……あ……どう……か……いき……て」
「私を一人にしないで……来海ぃ!」
ミリアのその言葉に、来海は首を横に振った。
――残念ながら、自分はこれまでだ。
吐和子もいない今、ミリアだけを残して逝くのは、確かに心残りだけど。
でも――これだけは、伝えなければ。
喋るたびに唇の端から血がこぼれる状態だが、それでも来海は、渾身の力で背中を起こし、ミリアをそっと抱き締めて。
その耳元で、囁いた。
「私……たちの……こと……生きて……一秒でも……長く……覚えて……それで……私、たち、は……ミリアの……中、で……生き、続け、られる……から……」
「…………!」
「ありがとう……ミリア……私の……親友で……いて、くれて」
そこまで言い切ったところで、ぷつんと糸が切れたように、全身に力が入らなくなった。
ミリアの肩を撫でるように力を失った手は滑り落ち、来海は再び地面に仰向けに倒れた状態に戻る。
ミリアが何か叫びながら肩を揺さぶっているのが霞む視界の中で見えたが、それもすぐに見えなくなってしまった。
視覚も聴覚も失われ、最後に残ったのは微かな触覚のみ。
ミリアが自分の肩を揺さぶっていることにより、僅かに感じる振動だ。
だけどその僅かでも、ミリアとの繋がりを感じられるものを最期の瞬間まで意識していられるということに、心底感謝しながら。
来海は静かに、永遠の眠りに就いた。