【9日目：夕方 屋外中央ブロック地下 『楽園』】
『楽園』では部屋数が限られているため、ほとんどの生徒は三～四人の相部屋で生活している。
しかし、『楽園』の創始者であり指導者である霞ヶ丘天は、異論も上がることなく個室を利用していた。
そして今、その個室に、天含め三人の生徒がいた。
天とは旧知の中であり、『楽園』において側近の立ち位置にある時田時雨。
そして、先ほど地上での戦いから呼び戻された、鎖羽香音である。
羽香音は肩で息をしており、少なからず疲労と憔悴の色が見られた。
汗が気になるのか、首のチョーカーを掴んでは位置を調整している。
そうしながら羽香音は天井を見上げ、「状況は良くないわ」と切り出した。
『千理眼（ウィッチウォッチ）』で天井と地面を透過して、地上の様子を見ているのだろう。
「若駒ツボミに立花百花――ほんとに厄介な連中が入ってきてるわ。どうもワケアリみたいで潰し合ってくれてるのは助かるけど、この『楽園』にあの二人とマトモに戦えるような駒はいないわよ」
「恩田がやられたことで倉庫に乗り込む生徒も出てきていますね。須々木（すずき）たちが食い止めてますが、彼らでは若駒立花どころか暁安藤相手も厳しいでしょう。『楽園』に乗り込まれるのも時間の問題ですね――このままでは」
時雨は、そう言って期待を込めた眼差しを天に向ける。
……そう、今交わされている会話の結論、終着点はすでに見えている。
そしてこの場にいる全員が、それを理解した上で言葉を連ねている。
「なるほどね。つまり、自分たちではもうどうしようもないから、私に助けてほしいというわけね？」
天は、微かな愉悦を滲ませた微笑を浮かべて訊ねた。
――そこから見え隠れしているのは、自分を必要とされていることへの充足感、そして優越感だ。
……天は、生徒葬会以前は、決して目立つような生徒ではなかった。
勉強もスポーツもそこそこできたが、注目を浴びる上位層ではない。
容姿も悪くないが美人だと持て囃されるほどの造形ではない。
学園の初代理事長の血筋であるように、代々社会的地位の高い仕事をする者が多い裕福な家系の人間でこそあるが、逆に言えば天本人は、大抵のことをそつなくこなすというだけの、凡庸な人間だった。
そのことをコンプレックスに感じるほど、天は繊細でもプライドが高いわけでもなかったが、一切意に介したことがないかというと嘘になる。
そんな天にとって、自分を慕う時雨の存在はありがたかったし、この生徒葬会において時雨と共に作り上げた『楽園』は居心地が良かった。
それが、今、壊滅の危機に直面している。
そのこと自体は苛立たしく、許し難いことだったが、これは上手く利用すれば『楽園』により強固な結束を生み出すチャンスでもあった。
『四天王』は羽香音以外全滅し、地上で応戦している親衛隊にも死者が出ているが、問題はない。
極論、自分と時雨さえいれば『楽園』はそれでいいのだ。
『楽園』に攻め入らんとする外敵を排除すれば、『楽園』の生徒たちは皆自分に感謝し、より深く真摯に崇拝することだろう。
そうすれば、自分は救世主として今以上の地位を得ることができる。
外の世界ではありえない、自分が中心で、自分が頂点で、自分が主人公の、この小さな完結した世界。
それを守るためならば――自分は矢面に立ち、救世主としての役割を果たそう。
「いいわ。この『楽園』に仇なす愚か者たちに教えてあげなくちゃね。『楽園』を終わらせることなんて、誰にもできないということを」
□
霞ヶ丘天が地上に姿を表す少し前。
立花百花は、若駒ツボミと対峙していた。
――弟・立花繚をツボミに殺され、その繚によって逃がされた百花は、一度は自暴自棄となり、降りかかる火の粉を払うように他の生徒を殺傷していった。
その果てに生き残れたのならそれでよし、生き残れなかったのならそれまで。
そんな投げやりな、捨て鉢な心境のまま、ただただ彷徨っていた。
しかし、あの『楽園』に関する放送を聞いたとき、思ったのだ。
この放送を聞いて、多くの生徒が『楽園』とやらに集まるだろう。
もしかしたらその中に、ツボミの姿もあるかもしれない。
そう考えた瞬間、繚の死により折られた心が、ふつふつと熱を帯び始めた。
繚の死によりぽっかりと開いた穴は、この先一生塞がることはない。
しかし、生きる目標も展望も失っていた自分を、その熱は――復讐心という名の漆黒の炎は、再び力強く駆り立てた。
復讐を果たしたとき、その炎は消え、後にはまた虚無感と喪失感だけが残ることは目に見えている。
達成感が無いとは言わない――きっと少なからずこの心は晴れるだろう。
しかしすぐに、繚がいないという現実と、再び向き合わなければならなくなる。
復讐という熱に浮かれていられる間は、ある意味その事実を忘れていられるのだ。
だからきっと――ツボミに勝利したとしても、自分にはその先はない。
自死を選ぶつもりはなくても、きっと抜け殻となった自分はどこかで敗れ、死ぬ。
それでも構わない。
今はただ、弟を殺したツボミへの復讐を果たすためだけに、この手足は動き、この目は仇敵を捉え、この心は燃え焦がれている。
そして、一切の迷いも躊躇も無い今の百花は、最速最強の一撃を即座に放った。
自身の能力『絶対必中（クリティカル）』による一撃を相手の無防備な両目に対して繰り出す『絶対必殺（クリティキル）』。
――あの北ブロックでの戦いで、自分が最初からツボミにその一撃を放っていたのなら、繚は死なずに済んだ。
そんな、先に立たない後悔を振り切るように、百花はツボミめがけて目潰しを――ジャンケンのチョキを、より深く指を突き入れられるよう少し指関節を曲げた形を取った左手で、繰り出した。
「流石にもう躊躇いは無いか、百花。しかしだ」
百花が左手を鋭く突き出したときには、すでにツボミは――百花に背中を向けていた。
「ッ！」
「確か、『絶対必中』と言っていたな。お前のその能力は、視認できていなければ当てられないだろう？」
「――だったらアンタの正面に回り込んでやるだけよ！」
百花は、そう言いながら地面を蹴り――しかし、跳んだ先は左斜め後ろだった。
直後、百花がまっすぐツボミに向かっていたならちょうど首があったであろう位置の空気が薙ぎ払われたように揺れたのを感じる。
ツボミの能力――『斬次元（ディメンション・アムピュテイション）』によるものだろう。
「よくかわせるものだな。私の『斬次元（DA）』はお前の『絶対必中』と違い、座標の計算さえできれば必ずしも視認する必要は無い――しかも先ほどは先回りした位置を指定したんだがな」
「アンタの読みくらいお見通しなのよ！ それと、見る必要は無いって言ったって、見ないより見るほうが座標の計算とかってしやすいでしょ？ アタシ相手にそのインターバルは、致命的よ」
百花は、ツボミから距離を取ったまま、その背中めがけて肘打ちを繰り出す。
肘や膝は、肉が薄く骨が体表に近いため、素人が使用しても威力を出すことができる部位である。
ましてや、空手の有段者であり全国大会でも上位の実力者である百花が放つ肘打ちは、初心者には難しい『体重を乗せる』という点も完璧だ。
「ぐっ……！」
さすがのツボミも苦しげな声を漏らし、大きく前につんのめった。
そこで踏み止まるも、すかさず百花は足払いを放つ。
肘打ちを背中に受けた直後ということもあり、ツボミは足を掬われて地面に倒れた。
すかさず持ったままだと危険な剣を投げ捨てて受け身を取ったようだが、硬い地面に勢い良く倒れるということは、それだけでも少なからずダメージが入る。
「地面に転がされるのは慣れてないでしょ、ツボミ。アンタがやってんのボクシングだもんね」
「……知っていたのか」
「体つきとか足運びとかでなんとなく分かるのよ。アンタの体格だとフェザー級ってとこ？ アタシのほうが重い分突きも重いし、アンタのほうがリーチはあるけど、それはアタシに『絶対必中』がある以上無意味。もっとも、わざわざ危険を冒してショートレンジでやり合う気は、お互い無いみたいだけど」
「……そうだな。残念なことに、格闘家としては私はお前に及ばない。ジムには健康のために通っていただけだからな。しかし私の『斬次元』は当たれば勝ちだ」
「当たればね。あいにく、アンタに座標の計算だとかさせる余裕は与えない」
百花はその言葉通り、会話の最中すでにツボミに近寄ることなく、『絶対必中』により襟首を掴んで立たせ、その後頭部に蹴りを見舞っていた。
一歩間違えれば死ぬような部位への攻撃だ。
――百花は、目潰しに固執していない。
ツボミには、回り込んでやると嘯いたが、それが困難であることは理解している。
確かに格闘ではこちらの技量が上回るが、他の大多数の生徒のような素人ではなく、格闘技経験者であるツボミの正面を取るのは難しい。
もともとボクシングは足運び――フットワークという点には、空手より拘りのある種目だ。
ツボミが対策を練り、意地でもこちらを向かないというのなら、その背中を一方的に殴り、蹴る。
ツボミに『斬次元』を発動させる隙など与えない。
もちろん、同じ場所に留まるのは悪手――移動を続けながら、ツボミを打ちのめすのみ。
次は、後頭部を蹴られて地面につんのめったツボミの右脇腹を狙った蹴り。
いわゆるレバーへの一撃だ――マトモに入るとしばらく動けない。
なまじこちらを見ていない分、どこにどんな攻撃が来るか分からず、心の容易ができないことで、実際のダメージ以上の体感ダメージがあることだろう。
ツボミはそれでもなお立ち上がろうとしたが、百花は攻撃の手を緩めない。
ここで油断はしない――ツボミの言う通り、『斬次元』が一撃入ればこの優位は一瞬で覆される。
とはいえ、すでにツボミにはかなりのダメージが入っているはず――百花は、自身の復讐が果たされる瞬間が近いことを感じていた。
「アンタを殺しても繚は生き返らない――だけどアタシがアンタをぶちのめしたいの――悪く思わないでよ、ツボミ！」
「……ああ、思わないさ。――なぜなら死ぬのはお前だからだ、百花」
「――は？」
百花は。
焼けるような鋭い痛みが、自身の左手に走ったのを知覚した。
――ツボミには、『斬次元』の座標を計算する隙など与えていないはず。
そうでなくとも、視覚に頼らず、音だけを頼りに座標を指定するしかないツボミには、こんなに正確にこちらに『斬次元』を当てることなどできないはずだ。
百花は――手首から先を失った、自分の左手を呆然と見下ろしながら、そう考えた。
しかし――すぐに気付く。
うつ伏せに倒れているツボミが、隠し持っていた『それ』は。
とても小さな、折り畳み式の丸形の化粧用鏡だ。
「お前と再び相まみえたときにどう戦うべきか、私が何も考えていないと思っていたか……？ その傷は致命傷だ、百花。お前の――負けだ」
「――バカにすんじゃないわよ！ アンタみたいな、元カレを平然と殺せるような奴には分かんないでしょうけど――大事な人のためなら、手や足の一本や二本吹っ飛んだくらい、――どうってことないわよ！」
「……！」
百花は、すかさず足を浮かせてすぐに下ろし、ツボミの鏡を踏み割った。
そしてすぐに、ツボミに追い打ちをかけるべく動き出す。
ツボミは、この予想外の一撃によりこちらの動きが止まると踏んでいたはずだ。しかしその読みは外れた。
ツボミは、立ち上がることもできないほどのダメージを受けている。
だから、このまま後頭部に全力の一撃を浴びせればこちらの勝ちだ。
左手がないなら右手を使えばいい。
滝藤唯人に負わされた傷が開くかもしれないが、知ったことか。
百花は、ツボミの後頭部に全身全霊の下段突きを放とうとした。
「――百花。お前は本当に、繚のことが大好きなんだな。最後だから本心を言うが、私は、そんなお前が羨ましいと思っていたよ。私は繚を、そこまで愛してやれなかったからな。だから私は――こんな形で、繚を利用してしまえるんだ」
その声には、幾ばくかの寂しさが混じっていた――ような、気がした。
その意外な声音に、百花の手は緩みかけたが、それは一瞬。
しかし、倒れたままのツボミが後ろ手に放り投げた『それ』に――百花の目は、奪われた。
忘れもしない、その、アメジストのペンダントは。
繚の、『完全空間（プライベートルーム）』……！
「アンタ、繚の能力を……！」
百花が、さらなる激情に駆られたそのときだ。
アメジストのペンダントが消失し、空中に突如出現したものがあった。
ツボミが、『完全空間』を解除したのだろう。
何かこちらにダメージを与えられるようなもの――例えば爆発物などが仕込まれていたのかと身構えたが、違った。
だが――それは、百花の手を完全に止めてしまうのに、十分すぎた。
「りょ、う――」
――空中に出現したのは、瞳孔を見開き、土気色の顔をした、繚の亡骸。
それも、両手両足を切断された上に腹を裂かれ、内臓が露出した状態の。
――最愛の弟の死自体は、覆すことのできないもの。
受け入れることはできずとも、受け止めてはいた。
しかし、あまりにも無惨に傷つけられたその亡骸に、百花の思考は停止する。
それは時間としては、そう長い時間ではなかったかもしれない。
百花の体感ではとてつもなく長く感じられたが、せいぜい数秒くらいだっただろう。
しかしその数秒は、ツボミが地を這いながらも振り返るのには十分な時間だった。
百花は、ハッと我に返って、ツボミの両目に目潰しを放とうとした。
もし百花が平静でいられたなら、ツボミが振り返った直後にその両目を潰せていただろう。
しかし――ああ、冷静でなんて、いられるわけがない。
弟の死体を、あんなにも惨たらしく壊されて、それをぶちまけられて。
地面に落下した瞬間、繚の露出した腸が外へと伸びた。
この生徒葬会が始まってから、同じような死体は何度も見ている。
最初は生理的嫌悪感や恐怖心も芽生えたものだが、次第に慣れてしまっていた自分がいた。
だけど――それが最愛の弟のものであれば、話は違う。
体が震え、涙が浮かぶ。
その状態で繰り出そうとした目潰しが、どれだけ精彩を欠いていたか。
「このようなことができる自分への嫌悪が無いと言えば嘘になる。しかし私の心の鈍さは、生まれつきなんだよ。それを心の強さだと、繚は言ってくれていたがな」
「ツ……ツボミィィィィ！！ うわあああああああああッッ！！」
百花が張り上げたその声は、もはや気合でも咆哮でもない。
ただの悲鳴――怒りと悲しみと悔しさと絶望で、泣き叫んでいただけだ。
溢れかえる感情を爆発させただけ。
そしてその感情のままに、百花が目潰しを繰り出し切る前に。
「繚を殺したその瞬間から、こうすればお前を殺せることは分かっていた。できれば使いたくはない、と心から思ってもいたが――思っただけだ。私の鈍い心は、感傷では決して鈍らない」
――ツボミは、『斬次元』を発動させていた。
