第6話 つまらないいつかちゃん
わたしは別段母親を嫌いになることのないまま、明日中学生になる。たしかに変わった人かもしれないし、どこかで変わってしまったのかもしれない。だけどそれはあまり気にならなかった。母親と一緒に過ごしたこの小学生の終わりまでの時間で、わたしは母親が何を言われるとキレるのかを想像できるようになったし、絶妙なタイミングで触れてはいけないことに触れてしまうことは避けられるようになっていた。思ったことをそのまんま言うのはよくない。それを理解できたのは、わたしなりの大いなる進歩であり、また上手く生きていくためのコツだった。浄水器を通した水はエグさが抜けて飲みやすいし、豆も素朴さゆえに飽きがこない。化粧品ももう少し大きくなったら使わせてもらえるよう頼んでみようと考えているし、頼んだストレートブラシが果たしてわたしの癖のある髪質にどの程度好影響を与えてくれるのか、今から期待している自分がいることはどうにも否定できなかった。
いつかちゃんとは、なんと6年生、最後の最後に同じクラスとなった。その事実を知ったときには胸が爆発するんじゃないかというくらいに激しく躍動したのだけれど、一学期の途中あたりで違和感が拭えなくなってしまっていた。
なぜならいつかちゃんが普通すぎる。わたしはその姿を知っていた。去年の遠足のときだ。あのときと同じだ。なんだか妙な生き物の皮を被っているように感じられたあの日のいつかちゃんが、その皮を被り続けている感じ。よく見るとそれはあちこち表面がほつれているのだけれど、性格が几帳面なのだろう、その都度縫われていてぱっと見は誰にも気付かれないようになっていた。ある一人を除いて――。
みんなは気づかないだろう。いつかちゃんはいつの間にか公園であの儀式も一切やらなくなっていたから、“普通の子の箱”の中にいつかちゃんを仕舞っていたのだ。だけどわたしはそんな薄っぺらい紙みたいなのじゃ欺けない。
可愛い女の子の皮を被ったいつかちゃんは人気者と化していた。いつもほかの女の子と話しているし、男子もいつかちゃんのことをチラチラ見ている。わたしはいつかちゃんと二人きりでないと、あの話の続きはしたくなかったけれど、なかなかそのチャンスは訪れなかった。
「すーちゃん、なんか気持ち悪い」
そう言ったのはしずくちゃんだった。わたしとしずくちゃんは先生たちからセットだと思われている節があるようで、けっきょく六年間最初から最後まで同じクラスだった。
「そう?」
「ここんとこずっと須崎さんのことばっか見てる。私嫉妬しちゃうわ」
「嫉妬しないでぇー、困るし」
「……実際あの子変わったよね、見た目もそうだけど、雰囲気っていうか」
「見た目と雰囲気って、どっちが先に変わるんだろうね」
「見た目でしょ。見た目が変わるから、雰囲気も変わるんだよ。人は見た目が九割って聞いたことない? 雰囲気が良い方に変わるとね、これまでバカにされてた部分が逆に褒められたりするから不思議だよねー」
しずくちゃんは物知りだと思った。人は見た目が九割。それなら、わたしも去年までのいつかちゃんと同じ格好になれば、同じように言われるのだろうか。公園の砂場で“波動”を感じ取る? ために額を砂に擦り付けていれば、お祈り女と呼ばれたり、道行く人達からまるで転がっている手頃な石のように蹴られたりするのだろうか。
「だけどすーちゃんは変わんない」
なにか見透かされたような気がして、しずくちゃんの顔を見た。
「昔っからそう。興味あること以外なんにも見ないし、自分がどう見られてるかも気にしてないし」
なんと言っていいやら分からず、わたしは持っていたシャープペンの芯を出して、自分の手の甲に刺すように引っ込めてから、またいつかちゃんの顔に視線を戻した。可愛いと思った。そして違うと思った。こんないつかちゃんは、正直言ってつまらない。
辛抱強く待っていれば、チャンスは女神の髪の毛一本分だけ降ってくる。そんなようなことをお父さんが好きで観ていた野球選手のインタビューで言っていたのを聞いた記憶があった。やはりすごい人の言うことに嘘はない。チャンスは到来した。
いつかちゃんは我慢強い。それは知っていた。授業中に見る見る顔色が悪くなっていくのが分かったけど、自分から手を挙げて保健室に行くわけはない。いつかちゃんは耐えることが得意なのだ。だからわたしが代わりに手を挙げた。
「所、どうした? まさか自分から音読したいって?」
国語の授業中だったのがいけなかった。わたしには今、宮沢賢治を音読している余裕などないのだ。
「そ、そうじゃなくって……先生、いつ……す、須崎さんのことを保健室に連れて行きます。保健委員として……」
「ん? 須崎、調子悪いのか?……悪そうだな、顔色悪いもんな。じゃあ、所、悪いけど保健室連れてってやってくれ」
「はい!」
悪いどころか、これ以上に幸福なことなどなかった。自分が保健委員だなんてついさっきまで忘れていたけれど、わたしはついにいつかちゃんと二人きりになれる貴重な機会を手にしたのだった。