少年の名はサイ。薬学研究者として原生生物を研究する為に、相棒バグと共にこのミシュガルドへとやって来た。
そしてその原生生物が多く生息しているであろう森に、連日調査をしていたのだった。
突然、バグが大きなくしゃみをした。気候が暖かくなってきたため、植物の多い森では花粉が飛び交っているようだ。
「ドラゴンのくせにだらしないな」
「はくしょ! 薬で誤魔化している、っくしゅ! だけのっ……お前に言われたくないっ! ぶしっ!」
軽口を叩きつつ、サイはバグの為に薬を飲ませてやった。すると忽ちバグのくしゃみは止まり、鼻水も出なくなった。
花粉症が治まった事を確認すると、改めてサイは未確認の植物を採取しつつ、森の奥へと向かっていった。
「サイ、あれは何だ?」
ふと、バグの言葉でサイは手を止めて振り返った。
花をつけ始めた木々の中で、珍しい葉の色をしたものが見えたのだ。
サイは訝しんだ。先日も同じ場所を探索したが、あんな木は見た事が無かった。
周囲を警戒しつつ近付いてみると、少し開けた場所の中心にその木は立っていた。
二人は息を呑んだ。薄桃の珍しい色の葉と思っていたのは花であり、先日は無かった筈の大樹が正に満開の状態でどっしりと構えていた。
「こんな木を見逃してたなんて……!」
「見逃したとは限らんぞ。この大陸は予想だにしない事態で溢れているからな。突然現れたのかも知れん」
満開の花の美しさに見惚れながらも、二人はそんな話をしていた。
早速その大樹について調べようとしたサイだが、あまりの美しさにとても枝を折る気にはなれず、鱗の様になっている樹皮を剥がしたり落ちた花を拾うぐらいしか出来なかった。
「バグ、この木他の人達にも教えてあげようよ」
「うむ。二人で眺めるには少し寂しいからな」
採取を終えた後で、サイは薬師仲間にこの大樹の場所を教える事にした。
そして呼ばれた仲間達は、サイと同様に満開の花をつけた大樹をぽかんと見つめていた。
その中で最初に言葉を発したのは、少女アコウ=クスリだった。
「これ……、サクラけ?」
「あら、知ってるの?」
「こん時期やとエドマチにも咲いとる。やけんど、こんなでけぇんは見た事
夫人ラピス=マトリクスの問い掛けに、アコウはまじまじと大樹を見つめながら答えた。
すると嬉しさに震えていた者が一人、突然雄叫びの様な声を上げた。
「会いたかったぜショウリョウ! 何で急に消えたりするんだよー!」
「ロイカ!!!」
少年ロイカはそう叫ぶや否や、出し抜けにショウリョウと呼ばれた大樹の枝をぽっきり折ってしまった。
乳鉢頭の相方アルドも思わず声を上げる。他の者達は突然の非情な行動に、目を疑わざるを得なかった。
「いきなり無粋な奴だな!」
「すいません! すいません!」
ラピスの側に居た小さな獣竜、夫のヘリオドール=ノックスが怒りの目を向けた。折った枝を恍惚と見つめるロイカに代わり、アルドが平謝りをする。
そしてアルドは、以前にこの大樹を見た事があるとその場に居た全員に話した。
「去年の今よりちょっと暑い時期、こんな風に満開の花をつけて立ってた。砂漠で」
「砂漠で!?」
今度は全員が声を上げた。砂漠でこんな大樹が立つとは誰もが想像に難かった。
そしてそれはアルドとロイカも同じだった。故に生命力の強い木として、ロイカはその一部を持ち帰ろうと先程の様に枝を折ったのだと言う。
「なら、それで作った薬の効果は凄かったって事かしら?」
「いや、ある日突然消えた」
「消えた?」
ラピスの問いにアルドは首を横に振った。丁度夏に差し掛かる時期だったらしく、成分を分析している途中で、折った枝が花弁も残さず忽然と消えたのだと言う。
慌てて再度砂漠へ向かうも、あった筈の大樹は影も形も無かったそうだ。
「まるでお化けだね」
アルドの話に、青年アレクがそんな感想を言った。大樹の前に佇むアコウを眺めながら、スケッチブックに絵を描いている。
サイがこっそり覗き込むと、絵の中のアコウは全く別の少女になっていた。亡き妹に置き換えて描いているらしい。サイは何も見なかった事にした。
「ところで、ショウリョウって?」
「他の人、そう呼んでた」
サイもアルドに質問を投げた。砂漠に立っていた大樹は大きく目立った為、ある学者がそう名付けたものらしい。
当時薬師の中ではアルドとロイカの二人だけがこのミシュガルドに上陸しており、他の者達が知らないのも無理は無かった。
すると、先程まで黙ってショウリョウを見つめていたアコウが口を開いた。
「砂漠のんはともかく、枝は盗まれたんじゃろ。それか、んな事すっからショウリョウが怒って消えたんとちゃうんけ?」
その言葉に、アルドとロイカ含め全員血の気が引けた。同じ事をしてしまった今、また突然大樹が折った枝ごと姿を消す兆しが出てしまったのだ。
新しい発見に繋がる可能性があると言うのに、消えてしまっては困る。薬師達は慌てて落ちた花をなるべく多く集め、その日はすぐに各々の持ち場へと戻る事にした。
それから日が経ち、『暖かい』から『暑い』になりかけていた頃、薬師達は悲鳴を上げた。
「ワレほんま、ざけとんちゃうぞ! どないしてくれんねん!」
「アルド、助けてくれ!」
「自業自得」
採取した筈のショウリョウの花が姿を消し、慌てて森へと向かうも大樹も忽然と消えてしまっていたのだ。
アコウはロイカに掴みかかり、ラピスは集めた花で夫のヘリオドールに花飾りを作ってもらっていたらしく、それも全て消えてしまった事に落ち込んでいた。
サイは逆に胸を撫で下ろしていた。採取したものが消える事については覚悟していたが、分析した際の記録まで消えてしまうのではないかと気が気では無かったのだ。
アレクに至っては終始落ち着き払っていた。そして同業者達の顔を其々見つめ、一番平常であるサイに近付いた。
「サイ君、これ見て」
そう言ってアレクが見せたのは、沢山のショウリョウの大樹のスケッチだった。
その近くに必ず彼の妹も描き加えられていたが、それに関しては何も言わない事にした。
「まさか、あれからずっとスケッチしていたのか?」
「うん。何か気付く事、無い?」
バグの問いに、アレクは頷いた。サイに連れられてショウリョウの大樹を見つけたその日から、毎日の様にスケッチしに来ていたようだ。
アレクに言われて、サイは古い日から準にそのスケッチを注意深く見つめた。
一見、ショウリョウの大樹に変わった点は無い。そう告げてから、自分の放った不自然な言葉に気付いてしまった。
「そう、ずっと満開のまま。あんなに花びらが飛び散って、花が落ちてたりもしてたのに。普通なら、散った所から葉が生え始める筈なんだけど」
サイは思わず唾を飲み込んだ。アレクは泣き叫ぶ同業者達の方を見ると、こう結論付けた。
「多分、折っても折らなくても関係無いよ。あの大樹は綺麗なまま何処かに現れて、綺麗なまま何処かへ消えるんだ」
「そんな事……」
そんな事は有り得ないと言いかけて、サイはその言葉を引っ込めた。
先日バグが言っていたように、このミシュガルドは予想だにしない事態ばかりが起こるのを、以前から体感していたからだ。
サイのそんな様子を見て、アレクはふっと口元を緩ませた。
「ショウリョウ、って言ってたっけ? 本当、お化けみたいで面白いよね」