Neetel Inside 文芸新都
表紙

電世海
24:Definition Of Life

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頭の中が真っ白になるということを、沢口は初めて体感した。
多分一生懸命何かを叫んでいたのだと思う。
見慣れたルミナの姿かたちが、いつもとはどこか違っていた。

多分彼は、「ダメだ」と叫んでいた。
ダメだ、イヤだ、ルミナ。
その瞬間その瞬間でぽんと出てきた拒絶の言葉を、彼はただひたすら叫んでいた。
そして彼は多分殴られた。
誰にかはよくわからなかったが、後から考えてみると、きっとあれはセスだったのだろう。

後ろに倒れ、電脳空間の天井を見上げる。ここは現実ではない。
現実ではないのだから、現実空間にいるルミナの体から、左腕がなくなっていることはない。
しかし無機質な作られた世界にもある、現実。
ルミナの脳が自分の左腕の認識を失ってしまえば、左腕はもう動かないだろう。
残されている希望はどのくらいか?考えようと脳は急ぐものの、答えは一向に出てこなかった。



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沢口はルミナの姿を認めた途端錯乱してしまった。
無理もないことだ、と思っているセスも、内心は穏やかでない。
自分の予測は足りなかった。

コピーが、本体である歌花と、今乗っ取っているユキノの身体を盾に取ろうとしたこと。
沢口が集中するのに目を閉じていて、コピーの挙動に気がついていなかったこと。
雛と一緒にいたはずのルミナが突然現れ、ユキノを救ったこと。

最悪の結末ではなかったかもしれない。
ただ、間違いなく最良の結果ではない。
そして、時間が味方ではない今、のうのうと結果を受け入れている場合でもない。

セスは、ルミナを前に取り乱している沢口の目を覚ますために、彼の頬を軽めに殴った。
さほど力を込めて殴ったわけではなかったが、足がきちんと地についていない沢口はばたんと倒れ、おとなしくなってしまった。
現実から思考が逃げているのだろう。
仲間に大怪我をさせたも同然なのだから、無理もない。
沢口を殴ったセスに、ルミナが驚いた顔をしていた。

「セス君」
「左手の感覚を想像するんだ。君の腕は無くなってなどいない」
「う、うん」

目を閉じて左腕を動かす想像をするルミナ。その隣で、壱が神妙な面持ちでルミナのことを見守っている。
セスは、壱のその表情が「兄」のものだと思った。
壱はルミナの兄代わりのドールだったと聞いている。多分自分がキュアを見ているときも、きっとこんな顔をしているのだろう。
ルミナと壱の反応を見つつ、セスはそう思っていた。

ルミナは眉間に皺を寄せて、左腕の感覚を取り戻そうとしている。
だが、視覚で自分の左腕がないことを感じてしまった以上、容易なことではないだろう。

「大丈夫そうか?」
「…………」

セスの問いかけに、ルミナは無言で頭を振る。

「一旦空屋に戻ろう。駅前の空屋か?」

ルミナが頷きかけた瞬間、聞いたことのない声が空間に響いた。

『空屋に車を手配します。早く病院へ』
「!!」

声に驚いて顔を上げたセスとルミナの疑問に答えるかのように、声は名乗った。

『私は円条弓。雛の母です』

4人分の搬送の手配を。
後ろに命令している声がかすかに届く。

『いろいろと言いたいこと、聞きたいことがあると思いますが、それらは後で。
 早く現実空間に戻って来てください』

どこか雛に似た、凛とした声が響いた。



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永泉大附属病院。
仮想空間から空屋に出たセスたちは、円条家から迎えに来たコンチネンタルGTに乗せられ、真っ直ぐにここに連れてこられた。
空屋の店番である真澄は、突然現れた円条家の黒服たちに少し驚いていたようだが、事情を多少映像で見ていたらしく、ただひとつ頷くだけでセスたちを送り出した。
セスと沢口、別の部屋からアクセスしていたルミナは、どこか逼迫した雰囲気に車中の会話ができずにいた。
現実空間に戻ったルミナの左腕は確かに存在していた。
だが、指先が動かない。
肘から上は動かせるものの、手や指は力なくだらりとしており、ルミナは動かない左手を無事な右手で必死に何度もさすっていた。
沢口は現実空間に戻ってきて我に返ったものの、ルミナになんと言っていいかわからず、黙ったままでいた。

病院の入り口には、すらりと背が高く、サングラスを掛け、チャコールグレーのブランドスーツを身につけたショートカットの女性が立っていた。
モデルのような身なりのその女性は、色素の薄いその髪の色が雛によく似ていた。彼女が雛の母、弓だ。
どこか温度の低いその雰囲気が、雛のものに似ている。
だが、彼女は雛の『母』であるというよりは、『社長』とでも呼ばれているほうがはるかに似合う風貌だった。

「救急車を呼べなくてごめんなさい。こちらにもいろいろと事情があるので」

彼女の、セスたちの姿を認めた開口一番がそれだった。
円条弓。グループ会社のいくつかの社長を務めている。セスの知識にはそう書き込まれている。
多忙である彼女がここに現れた理由は、おそらくセスたちの円条邸からのハッキングが彼女に知れたのだろう。
セスの思惟を読んだかのように、弓は口を開く。

「状況は大体把握しています。月島さんとコウ君は直ちに診察を受けて下さい」
「……俺もですか」

沢口の問いに、弓は少し間をおいて、頷いた。

「念のために」

弓も、沢口がドールと会話のできない特異体質だということは知っている。
雛の幼馴染だということで、(直接ではないが)原因の究明に手を貸していて、そして結論がでなかったということも知っている。
結果が出なかった後も、弓は沢口のことは特に何も言わなかった。
雛に沢口と遊ぶのを止めるよう言ったことはなかったし、その後も雛に頼まれれば沢口の検診等への援助は厭わなかった。
沢口自身は、弓が何も言わないのは、彼女が自分に興味がなく、自分が雛に害を及ぼすものではないと認識されているからだと思っていた。
おそらく、敵だとは思われていない。
その後すぐにストレッチャーが運ばれてきて、ルミナは奥の診療室へ運ばれていった。
沢口は弓に連れられ、ルミナとは別の診療室に向かうことになり、セスは沢口に付き添うことにした。



白く長い廊下を3人で歩く。

「弓さん、ピィは?」

沢口は、どうも目の前のこの人を、『おばさん』とは呼べなかった。
弓はいつもきっちりとした格好をしている。毎日エプロンにラフな格好・基本はノーメイクの沢口の母とは大違いだ。
だからといって、母にスーツを着てほしいと思うわけでもないし、弓にノーメイクでラフな格好をしてほしいわけでもない。
弓と母は同じ『母親』であるけれど、多分別の人種なのだろう。沢口はそう思っている。

「雛なら、『ユキノ』さんのところに」

よそよそしい呼び方に、沢口は怪訝な顔をした。

「片倉のこと、覚えてない?」
「……道すがら雛から聞いたわ。幼稚園のころの友達だって」

会社のトップに立つ身である彼女は、今まで幾千の人と知り合ってきている。一人一人を仔細に覚えているということは難しいだろう。
しかし、雛の『母』であるならば、覚えていてほしい。沢口はそう思った。
雛はそれほど友人が多いほうではないのだから。

「片倉は大丈夫なの?」
「ええ。病院に運ぶ最中に意識も戻って、今のところは大丈夫そうだけどね」

なら……よかった。沢口がようやく安堵の息を吐く。
ルミナの問題は解決していないが、ひとつ安堵できる材料ができた。
沢口が息を吐いたところで、2人の後ろに従い、口を開くタイミングを窺っていたセスが弓に尋ねる。

「4人を搬送、と聞こえましたが、沢口、ルミナ君、片倉さん……もう一人は一体?」
「歌花のコピーがあなたたちに発見される前に歌で一般人に危害を及ぼしていて、その人が一番危険な状態です。今はICUに入っています」
「…………」

沢口の安堵の息は、一瞬で引っ込んでしまった。息が詰まりそうな事実に、見る間に表情が歪んでいく。
歌花のコピーは、既に誰かを傷つけてしまっていた。
雛は、それをとても悔やむだろう。
弓の表情も少し厳しいものになっている。

「身元も確認して、親族と会社のほうに連絡をしたけれど……会社の対応がひどかったみたい。
 じゃあもう必要ない、みたいな言い方だったと聞いてる。人を使い捨てと思っているのかもね」
「……ひでえ」

沢口の呟きに、弓は静かに頷いた。

「……行く場所がないようであれば、保障もかねてグループ内のどこかに行ってもらおうかとも考えています。
 空間のログを見る限り、技術的には非常に優秀な人みたいだから」
「もうそんなに考えてるんすね」

沢口は本気で驚いていた。沢口が彼女の介入を知る前に彼女は動いていたのかもしれないが、それにしても判断・対処が早い。
現在のこの状況があっという間に出来上がっていたことについてもそうだ。
状況の詳細を把握し、問題への対応策を段取り、実際に行動する。
円条グループ次期会長は敏腕、とはいろんなメディアから聞いてはいたが、実際目の当たりにすると、その切れ者ぶりにただ驚嘆するばかりだ。
そんな沢口の驚嘆に、弓は今度は少し悲しそうに笑むだけだった。
診療室の前に着き、中から看護士が出てきて、弓と一言二言ことばを交わした。
看護士が頷き、「沢口さん、中へどうぞ。お連れの方もご一緒に」と言って扉を開けなおし、沢口が通るスペースを作る。
前に出る沢口、その後に続くセス。弓はその場に留まっている。
沢口が、弓を振り返った。

「弓さん」
「話は診察を受けた後にしましょう。また後で来ます」

そういうと弓は踵を返し、あっという間にいなくなってしまった。
沢口とセスは顔を見合わせ、診療室に入ることにした。



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診察の結果は、いつもと同じだった。

「診断の結果、何も異常は認められないね」

ドールと話せないことも、ドールなしに削除プログラムを起動できることも、異常でなくてなんだと言うのだろう。
沢口はいつもそう思うが、医学では沢口の異常は検出することができない。
異常だと言われたいわけではない。
だが、今ここに異常であるという現実があるのに、原因の究明ができないことと異常だという証明が立てられないことに納得がいかない。
医者に行って検査されても、何もわからない。
身体の状態をはっきりさせたくて診察に行くのに、結果は曖昧にされるだけだ。

「青井先生、本当に俺大丈夫なんですか?」

診察してくれたのは、40手前の顔見知りの医師だった。沢口は色んな医師を紹介してもらったが、基本はいつもこの青井という医師に診てもらっている。
弓の同級生なのだと、昔青井医師のほうから聞いたことがある。

「やっぱり、僕の知ってる限りの医学では、君は正常そのものだね」

青井は申し訳なさそうに頭を振った。

「君を診察してから、僕は勉強をしなおした。まずは今まで勉強してきたことと、常識を疑うことから。
 別の分野の学問、信じていなかった心霊・オカルト的なことも勉強したよ。それらも踏まえて、僕は僕なりの医学を構築した……」

でも、君の事はわからないんだよ。
真っ直ぐに見据えてくるその目に、嘘偽りはない。

「君が、身体のどこかの異常を認めてほしがっていることは僕もわかっているよ。
 でも、僕は医者として、正常な人間を異常だと診断するわけにはいかないんだ……ごめんね、沢口君」
「いや……いいんです」

先生が悪いわけじゃないっす。沢口の声に力はない。
『自分は正常だ』という医師の言葉は、問題への解決策にはなりえなくても、どこかで沢口の支えにはなっているはずだ。セスは思う。
『ドールと話ができない』、『生きていない』沢口は、医学的には正常だ。自分が正常な人間であることを、少しは信じられるだろう。
沢口自身が、そのことに気がついていなくても。

「先生、俺……生きてますよね?」
「……?」

沢口の問いの意味がわからず、青井医師は首を傾ける。意味はわからなかっただろうが、青井医師は力強く頷いて見せた。

「ああ。君は生きてる。そして健康だ。ドールと会話をできないってことを除けば、健康優良児のハンコでも額に押してあげたいくらいだよ」

ハンコはいらないっす。そう呟いた沢口は、少しだけ笑っていた。



診察を終えた沢口と付き添っていたセスは、待合室に戻ってきていた。
待合室には雛がいて、沢口とセスの姿を見つけると立ち上がり、駆け寄ってきた。

「ピィ、大丈夫か」

沢口はなんとなく、そんな言葉を掛けていた。
沢口の言葉に二度頷いた雛は、枯れた声で沢口とセスに問う。

「コウは、大丈夫?」
「ああ……いつもどーりのお達しを頂いたぜ。健康優良児だってよ」
「……そう……」

頷いた雛の表情は硬いまま変わらなかった。

「片倉んとこにいたんだろ?片倉は大丈夫なのか?」
「うん、意識ははっきりしてる。コピーに身体を乗っ取られたことは覚えていなかったけど…。
 今日明日入院して精密検査を受けて、何ともなかったらすぐ退院できるって」
「そっか、よかった」

沢口の相槌に曖昧に頷いた雛の身体が、ぐらりと傾いだ。
沢口とセスが慌てて腕を伸ばして支える。2人がかりで支えたせいもあるかもしれないが、雛の身体は魂が入っていないかのように恐ろしく軽かった。

「ごめん……」
「ピィのが大丈夫かよ。ほら、座ろうぜ」

沢口に支えられ、ベンチに腰掛ける雛。頭がぐらぐらするらしく、彼女は両手で小さな頭を抱えて項垂れていた。

「コウ」

雛は、掠れて消え入りそうな声で、沢口を呼ぶ。

「……ルミナはまだ、診察を受けてる…わたし…どうしたらいいの…」
「……お前は何も悪くないだろ……」

でも、ルミナを、止めなかった。
頭を抱えている雛から、小さな声が聞こえてくる。その声は震えていて、とても頼りない。
雛を弁護しようともう一度口を開いた沢口を、セスが手で制した。
彼のほうを見た沢口に、セスはゆっくりと頭を振ってやる。
そっとしておいてやれ、という意図を汲み取った沢口は、セスが促すとおりに黙ったのだった。

病院の待合室は、沢口たちのほかにも数人が診察を、或いは誰かを待っていた。
だが、待合室はひどく静かで、まるでこの病院が世界から切り離されてしまったかのような静寂を保っていた。

       

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