Neetel Inside 文芸新都
表紙

電世海
37:Electro Summer-07

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幼い少女が声を上げて泣いている。
耳の下ほどまでの淡い金髪を揺らし、青緑の双眸からぽろぽろと大粒の涙を零している。
妹を必死でなだめている兄は、彼女の泣き顔が苦手だった。愛くるしい彼女が悲しんでいると、自分がこの世界で唯一の悪にでもなった気がするからだ。
先ほど階段を下りてきた妹は、階下にいる兄を見つけてはしゃいだのか、あと3段、というところで足を踏み外し、転がり落ちてしまった。
フロアに落ちて数秒、自分に起きた出来事を理解した彼女は、目に涙をためて、それから泣き出した。
膝を擦りむいているが、少し消毒してやるだけで大丈夫だろう。頭を撫でてやりながら、5歳の兄は次の行動を考えている。
やがて、しゃくり上げている2つ年下の妹が、たどたどしく喋った。

「痛いですのー」

奥ゆかしいはずの言い回しを、変なイントネーションで言うものだから、彼女の兄は吹き出した。

「何それ?」

マリーの『流行り』ですの。そう言って、泣いていたはずの妹は、眦に涙をためながらも、くしゃっと笑った。
妹は3歳の割にはいろんな言葉を喋る。妹の、豊かで、ときに不思議な感性でもって紡がれる言葉は、彼ら家族を和ませた。
やわらかい金髪に、つぶらな青緑の瞳の妹は、子ども心にも天使に見えた。
いつの間にかすっかり泣き止んだ妹は、ぴょんぴょんと跳ね回っている。

「セス君セス君、遊びましょうですのー」
「……痛いんじゃなかったの?」
「大丈夫ですワ!」

……口調が微妙に変わったが、妹は気にも留めていないようだった。

兄のセシルをセスと呼び始めたのは、妹が最初だった。
幼い彼女ははじめどうしても『セシル』と発音することができなくて、『セスー』と音が抜けてしまった。
そのうち伸びていた音が消え去って『セス』になり、それが家族の中で浸透し、父親以外の家族は、彼を『セス』と呼ぶようになっていた。
セシル自身も呼び慣れていくうちに気に入って、親しい人間にはセスと呼ぶように言っている。

「セス君、早くはやく!」

ぴょんぴょんと跳ねる妹の、おぼろげだが、優しい記憶。
妹との、家族との。一番記憶に残っている、思い出。



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――なぜ。
こんなときに妹のことを思い出すのだろう。
セスは、現実逃避する自分の思考回路に、必死で抵抗している。

18年と少し生きてきた中で、一番幸せだったころの記憶。
あの後妹はセスと遊ぶうちにもう一度転んだが、その時は泣かなかった。しかしそのあと母親に傷口を消毒されて、父親に頭を撫でられて、そこで感情の箍が外れたかのように妹は声をあげて泣いた。

年の離れた、医師を目指していた姉に傷口の手当をされた妹は、そのテキパキとした手並みに感動し、自分は看護師になると宣言していた。
それを微笑ましく眺めていたはずの家族。
みんな、セスの前からいなくなってしまった。

それからセスはずっと独りきりだった。
11年間、ずっと。
友だちはいた。だが、家に帰るといつも独りだった。
友達がいたから、自分は孤独じゃなかった。そう口にすることに、何の意味があるだろう。
寮にいた頃は気づかなかったが、一人暮らしを始めてからは、学校が終わり、それぞれが家路につく時間帯が、一番嫌いだった。
静かな家には、もちろん誰もいない。家に帰ると、口を開くことはあまりない。
自分には家族がいないもの。そう思い込むほか、自分を納得させる方法がなかった。

だから今、目の前に「家族の一人」が突然現れても、思考は空回りするばかりだ。
セスは口を開いても、言葉が出せなかった。

今、何を言うべきか、彼は判断ができない。

いつも雄弁なセスが言葉を失っている様子を見て、沢口も狼狽してしまう。
彼らに代わり口を開いたのは、真澄だった。

「……あなたがデイヴィド・アシュレイ博士?」

真澄の問いに、背の高い、白い髪をした、ルミナの『おとーさん』は頷いた。

「そうです。息子と――娘がお世話になっています。坂崎真澄さん」

初めて会った人物に、名乗ってもいないのに名前を呼ばれ、真澄はやや怯む。
だが、今口を開けるのは自分しかいない。ちょっとは大人らしいことをしようと、真澄は再び口を開く。
やや、自棄気味だった。

「娘さんて、ルミナちゃんのことですか」
「――……ええ」

デイヴィドは、ややあってから頷く。
肯定されることを前提とした問いかけ方をしたのは真澄自身だったが、実際肯定されて意味がわからなくなる。
セスとルミナは同い年のはずだ。彼ら二人がデイヴィドの子どもだというのなら、彼らは兄弟ということになる。
少なくとも、異母兄弟か。隠し子ってことか?
真澄がいろいろ思惟を巡らせていることに気づいたのか、デイヴィドは言葉を繋げた。

「正しくは・・・・・・彼女は、私を『父親だと思って』います」
「――!?」

娘だと、私も思っています。ですが、血の繋がりはありません。
あくまで穏やかに、彼はそう言った。
デイヴィドの口ぶりは穏やかそのものだったが、その内容の唐突さに、真澄の声は思わず大きくなる。

「どういうことですか? 意味がちょっとよく分からない。ルミナちゃんは、あなたの義理の娘ってことですか?」

詰め寄ろうとした真澄を、デイヴィドは片手で軽く制す。

「壱が、あなたがたをここに呼んだのは、月島ルミナが誰なのか、沢口コウとは何者なのか――それを私に説明させるためです」

そうだろう?
デイヴィドは微苦笑を浮かべ壱を見遣るが、壱は無言のまま答えなかった。壱は唇を真一文字に結んだまま、俯いていた。

「話は長くなりますので、とりあえず掛けてください」

仮想キーボードの呼び出しに応じて、椅子が人数分現れる。そこでようやく沢口が口を開いた。

「俺たちルミの行方が知りたいんです!ゆっくり話してる暇なんてねえ!」

デイヴィドは再びゆっくりと頷く。

「それもこれから話すよ。それと――ルミナは無事だよ。心配は要らない」

穏やかに微笑まれ、沢口は黙る他なかった。



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デイヴィドが用意した席についた一同は、改めてセスの父と向き合った。
セスはまだ喋れる状態になく、沢口はどこか萎縮している。
真澄も目の前にいるのが電子工学の権威として名高い博士ということで、いつもの調子で喋れずにいた。
席についた彼らに、壱がアイスコーヒーを配って回る。

電脳世界で飲食をすることは一応は可能だ。
脳に『食事をした』という信号が送られ、満腹中枢が刺激される。だがどんな見栄えのよい料理も飲み物も、実際は実体のない信号でしかない。
身体は栄養を吸収することはできないため、本来の食事の代わりにはならない。

このコーヒーは形式的なものだろうか。
真澄が怪訝そうな表情でコーヒーを見遣っているのを見て、壱が言う。

「それ、『飲める』よ」

壱の言葉は、形式的な意味でではない。
『体が取り込める』という意味で『飲める』なのだろう。
真澄はコーヒーに手を伸ばし、口をつけてみる。『苦い』し、『冷たい』。だが、真澄に判別できるのはそこまでで、それが『体に取り込まれている』かどうかまではわからなかった。
首を傾げている真澄に向かって、デイヴィドは頷いた。

「『ここ』はいつも君たちが使っている、『電脳世界』とは違う」

ここに入ってくるのに、壱がコンソールパネルを操作して、『別の』空間であるここに来たはずだ。
彼らは誰一人として、いつもの電脳世界とは違うとは感じなかった。
『いつも彼らが使っている電脳世界』と『今彼らがここにいる電脳世界』に、どれほどの差異があるのだろう?
少なくとも、『人間には知覚できないほどの差異』だ。
だが、目の前のコーヒーが『飲める』ということは、システム的には大きな違いのように思われる。
理論的には、ありえない。真澄はそう結論付けた。

そして、尋ねた。

「ここは、現実世界なんですか?」

デイヴィドはその問いに首を横に振る。
それほどゆっくりした所作ではないが、真澄の目にはスローに映る。
デイヴィドは『ゆっくりと』口を開き、そして――この世界の『謎』をさらりと口にした。



「君たちが普段、『現実世界』だと思っている世界がそもそも――電脳世界なんだ」



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監禁されている部屋で一人、雛は思案に暮れていた。
――月虹、どうして来ないんだろう。
何かあった。そう考えるのが妥当だろう。いやな予感がする。だが、その予感を信じたくない。
肩を抱いて、ひとつ小さく震える。両腕が冷えていた。

雛が肩を抱いているのを見計らったかのように、部屋の空調の音が変わる。

「――……!」

そして音もなく現れた人物は、月虹ではなかった。

「……羽田さん」

黒のセルフレームの眼鏡を掛けた痩身の青年は、羽田宗樹の弟、祐樹だった。
羽田弟はいつも月虹がそうするように、トレイに雛の食事を載せている。
月虹はいないのだろう。雛は瞬時にそう思う。誘拐されてからの数日間、初日に姿を見せたきり、羽田弟は雛の前には現れることはなかった。それが今、雛の前に姿を現した。
月虹に何かがあったのだろう。

祐樹はトレイをテーブルに置いたかと思うと、仮想キーボードを手元に呼び出した。

「!?」

雛は目を疑った。
ここが仮想空間なのでは、と仮定したときに、何度か同じことを試してみたはずだ。
だが、雛には仮想キーボードを呼び出すことはできなかったし、食事や排泄を繰り返してきたことを考えても、ここが仮想空間であるとは考えがたかった。
雛が視線で訴えかけていた疑問に、祐樹はさらりと答えた。

「きみには権限がないんだよ」
「……権限……?」

権限という単語を聞いて、書き込み権限や読み取り権限を雛は思い浮かべる。
雛には権限がない。祐樹はそう言った。彼の言を信じるならば、『雛には』この部屋においてできないことがあるのだろう。
仮想キーボード使用権限。
『ドア』の使用権限。
おそらく、少なくともこの2つの権限はないのだろう。
雛が少しずつ状況を理解していることを、祐樹は解しているようだった。

「……君は頭のいい子だ、雛ちゃん」

教えてあげるよ。
口元だけで笑みを浮かべる彼に、雛は戦慄を覚えた。
言いようのない不安が、じわじわと広がっていく。
灰色の外界、扉のない部屋、仮想キーボードの出せない仮想空間、『人間らしくない』月虹、意図の読めない羽田弟。
仮想空間に数日いて生きている自分。否、もしかしたら死んでいるのかもしれない。雛は思った。

仮想キーボードで新たに大きなモニタとスツールを部屋の空間に呼び出した祐樹は、座りなよと促す。
言われるがままになるのに抵抗を覚えた雛は、呼び出されたスツールではなく、少し離れた位置にある、前からあった椅子に腰掛けた。
雛の行動に祐樹は肩を軽く竦めたものの、特に何も言わずにキーボードを叩き出した。
祐樹が黙ったので、気になっていたことを雛は尋ねることにする。

「月虹は……どうしたんですか?」

雛からの問いに、祐樹は手を止めて顔を上げた。
少し間を開けて、問いには答えず問い返す。

「月虹のこと、気に入ったかい」
「……そういうんじゃないけど……毎日来てたのに、今日は来ないから」

雛の答えにふっと苦笑を浮かべた祐樹は、顔を戻し仮想キーボードを静かに叩いている。
打鍵速度はそれほど早くないが、一定の速度を保ちながらコードを作っている。
祐樹に敵意も害意も感じないので、雛はもう少し質問を重ねてみることにした。

「月虹は……ドールなんですか?」

ドールのような造形美。人間のような不可解な感情の変動。
月虹は不思議な存在だった。そもそも男性なのか女性なのかさえはっきりしない。
この空間が現実空間だと思っていた頃は、月虹がドールであるはずはなかった。しかし、ここが仮想空間であるというならば、かれはきっとドールなのだろう。
人間というにはパーツが整いすぎている。

祐樹はやはり直接質問には答えない。

「きみにはあいつがドールに見える?」
「……見えます」

ふむ。雛の返答が興味深いといった様子で祐樹は頷いた。

「さすが、『歌花』の制作者だね。まあ、あいつの顔のパーツが作り物っぽいのもあるかな」
「…………」
「でも雛ちゃんの身近にもいるじゃない」

――あいつみたいな顔をしたトモダチ。
誰のことを言っているのか、雛には本気でわからなかった。
月虹に似た顔の友人など、雛にはいない。月虹を見て、初めて知った顔のはずだ。
それとも――違うのだろうか?
雛が忘れているだけで、月虹と似ている顔の人間に会ったことがあるのだろうか。
思惟を巡らせている雛にもう一押しは加えず、祐樹は話を逸らしてしまう。

「歌花のプログラム、よく出来てたね。素晴らしいって研究所でも絶賛されてたよ」
「……」
「ああ、僕があのプロジェクトの開発リーダだったんだよね」

その言葉に一気に雛の怒りのボルテージが上がったのを感じ取ったのか、祐樹は「別に僕は歌花を売り出したいなんて思ってなかったけどね。わかるでしょ」と肩を竦めた。
かれは研究者であり、営業担当者ではない、そう言いたいのだろう。
ただ、雛にとってはさほど違いはない。
歌花は消えた。かれはその一因を担っている。……一因を担っているといえば、雛も同様なのだが。

とにかく、目の前の男は雛にとって明確な『敵』となった。そもそも誘拐犯だ。敵にほかならない。
雛から発せられる敵意にもう一度肩を竦めた祐樹は、雛に構わず話を続ける。

「あのまま歌花が色々な感情を覚えていけば、その感情を歌に乗せて情緒を表現できるはずだった。でも歌花が優れていると僕が思ったのはそこじゃない」

――あの子はドールというよりも人に近かった。
雛ちゃんが最終更新した時点で「ドール」と定義付けられてしまったけど、それまでの歌花は曖昧な存在だった。

「実装していたきみならわかるだろ?」
「……」

歌花に実装されていなかった、『ストッパー』。
ストッパーにも数種類あり、全てを実装していなかったわけではない。基本動作に必要なものは全て実装していた。
ストッパーの数や実装内容は、そのドールの感情パターンの派生によって異なる。
歌花は感情パターンが複雑で、かつ思考パターンが成長を伴なうぶん、ストッパーの実装が大変手間で、厄介だった。

確かに一箇所だけ、実装を保留にしたまま、雛は歌花のテスト起動を行ってしまっていた部分があった。
そしてそこが、雛にとってのバグであり、かれの言う「優れている」点となってしまった。

実装していなかったストッパーとは、『自分の存在を疑うことを止めること』だった。
雛は、歌花に考えて欲しいと思った。
だからこそ、人とコミュニケーションを取って、成長していくドールを設計した。
人とコミュニケーションを取って、人の心を学んで、そしてそれを歌にして欲しいと願った。
最初は、雛自身、自分の存在に自信を持っていなかったことと、安易に限界を定めて欲しくないと思ったから、実装を躊躇っていた。

だが、自分とは何かがはっきりしないと、自分はドールであるという認識を歌花が失ってしまう可能性がある。
それこそ、自分がドールであることを否定したり、人に成りかわろうとしてしまう。
だからこそ雛は最終的には保留箇所の実装を行い、『コピー元』の歌花はドールとなった。
保留箇所が実装される前に『コピーされていた未完成の』歌花は、曖昧な存在と化してしまった。

「……私が最初からちゃんとストッパーを実装していたら、歌花は消えずに済んだ……」
「かもね。でもまあ僕が気づいてて放っておいたわけだから、雛ちゃんの過失ではないよ。だってあの状態で稼働させるのは雛ちゃんとしては完全に予定外でしょ」
「……それは、そうだけど……」

何でも自分の責任って言っちゃう美徳ってあるけど、きちんとした原因の切り分けって大事だよ。祐樹は淡々と言う。研究者としての言なのだろう。
かれは優秀な技術者が揃う円条のドール研究所の中でも、飛び抜けて精鋭といっていい存在だ。
かれに褒められ、フォローされているのだから、本来この状況下でなければ喜ぶまたは安堵すべきなのかもしれない。
もっとも、誘拐され、軟禁されているこの状況で、それができるわけがない。

だが、次の祐樹の言葉で雛の思考は停止した。


「まあ、そんなに自分を責めなくてもいいんじゃない。歌花のおかげで、僕はこの世界の謎に気づけたんだから」


かれは再び、口元だけで笑みを浮かべていた。

       

表紙

入唯 [website] 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha