Neetel Inside 文芸新都
表紙

電世海
06:Hina-03

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円条邸と、沢口宅は隣同士である。しかし、傍から見ると隣同士には見えない。
それはひとえに、円条邸の敷地が広すぎるからである。
高い塀に囲まれ、広い庭は邸宅を隠している円条邸の隣に、慎ましやかに建っている沢口宅。
その区画には、円条邸、沢口宅、そして駐車場しかなかった。

雛と母が住む本館には、メイド、執事、シェフ等、ホテルの如く働いている人間が多数いる。
すれ違う他人たちに「お帰りなさいませ、お嬢様」と声を掛けられ、雛は「ただいま」と返す。
夕食は無論シェフが用意してくれるのだが、雛は沢口の母が作る食事のほうが好きだった。
素材も腕も恐らくは円条家にいるシェフのほうが上だろう。それでも、雛は沢口家でご飯を食べるのが好きだった。

沢口の母はそれを知っているからこそ、雛を呼ぶ。
雛が行けば、それは嬉しそうに手料理を振舞ってくれる。
そばにいたメイドに夕食は要らないと声を掛け、雛は自室に入った。

扉を閉めると静寂が満ちていた。
誰もいなくなることがない円条家で、一人きりになれる数少ない場所でもある。
PC端末のスリープ機能を解除して、制服を脱ぐ。
黒のショートパンツに淡いピンクのパフスリーブのカットソーを身に着けた雛は、ドール用のエディタを起動した。
授業中に記したメモをそばに置き、雛はエディタに構想したコードを連ねていった。



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コーディングに没頭する雛を現実に引き戻したのは、電子音だった。
手許の携帯電話が、メールを受信していた。

メールを開くと沢口からで、内容は一言『メシ!』とそれだけだった。
あまりに端的なメールに、雛はふきだした。

『10分で行くね』と凡そ隣同士とは思えないメールを返し、雛はエディタを閉じて、PCにロックをかけた。
お気に入りのアイボリーの薄手のパーカを羽織り、自室を出た。



「やあ、雛ちゃん」

背後から掛かった声に、この声はあまり聞きたくない声だと、雛は瞬時に判断した。
が、声を掛けられたことを認識してしまったからには振り向かないわけにもいかない。
仕方なく振り返ると、そこには声の主がにこやかな笑みを湛えて立っていた。
声の主、羽田は雛の母の秘書であり、また愛人でもある。
何を見たわけでも聞いたわけでもないが、雛は知っていたし、円条家に働く人間の内でも暗黙の了解だった。

雛はまた、羽田が自分に向けている視線の意味を理解している。
彼の行動ひとつひとつの意味に何も気づかないほど子どもではなかった。
羽田は背が高く美男子と言っていいだろう。しかし、雛は一度たりとも彼を好ましいと思ったことはなかった。
羽田も雛が彼を嫌悪していることは知っていて、それでも笑みを顔に貼り付けて話しかけてくる。

「卒制はどう?進んでる?」
「…はい」

羽田は永泉の卒業生だった。
雛の返答に「そうか」と満足そうに頷いて、歩みよってくる。

「弓さんが、雛ちゃんの卒業後はグループの研究室に入れるって意気込んでるよ」
「………」

弓とは雛の母のことだ。
羽田が母を名前と呼ぶことが、雛は気に入らなかった。彼は最近までずっと、弓のことを「会長」と呼んでいて、雛の前でそれを崩すことはしなかった。
だが、最近は意図的に雛の前で弓のことを名前で呼ぶようにしていた。
すっと腕を伸ばした羽田は、雛の栗色の髪を撫でる。
剣呑な色を帯びた雛からの視線にも臆すことなく、羽田は顔を寄せて囁いた。

「雛ちゃんは本当に鳥篭のなかだね」
「………」

羽田の手を振り払った雛は、踵を返した。
振り返らなければよかったと雛は思った。あの男はいつもろくなことを言わない。
母にあの男を辞めさせてほしいと言ったところで聞き入れられないだろう。
それが何とも口惜しかった。
あの男が嫌だった。
研究に携わることが心から嫌なわけではなかったが、勝手に母に決められている未来を安易に受け容れるのが嫌だった。



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タイムロスを埋めるために雛は走った。
沢口家に着くまで走って、沢口に「7分できやがった」と驚かれ、雛の気分はそこでだいぶ晴れた。
体育以外で運動をあまりしない雛は、突然の長距離走に耐え切れずしばらく肩で息をしていて、その様子を見て沢口はゲラゲラ笑っていた。
笑われるのは不愉快だったが、羽田の言の比ではなかった。

雛の息が整ったところで、沢口の母と、妹と、沢口と食卓を囲んだ。
献立は沢口の母手製のカニクリームコロッケと、ほうれん草のおひたしと、味噌汁。
美味しいと雛が言うと、沢口の母が「いっぱい食べなさい」と雛の頭を撫でてくれた。
その瞬間なぜか泣きたくなったのを、笑うことで雛は我慢した。



「3番!」
「ちげーよ茜ばか、2番だよ」

沢口と妹の茜は、食事の手を止めてクイズ番組に見入っていた。ああでもないこうでもない、と二人で言い合っている。
雛が視線をテレビに遣ると、現在の問題は電子工学の問題のようだ。
光の洪水の後、電子工学の知識について扱うテレビ番組が増えた。
技術のめまぐるしい進歩から、一般家庭が取り残されないための努力のように雛には思えた。
食卓は10年の間に、電子工学の分野でのみ、多くの専門用語を受け容れるようになった。

「…4番だと思うけど」

雛がぽつりとそう呟き、沢口と茜が雛を振り返ったその背後で、テレビから『正解は4番です!』という声が聞こえてきた。
解答の解説をしばし無言で見ていた二人は、やがて顔を見合わせて小突きあいだした。

「…………兄ちゃんだっさー」
「んだよ茜こそ外したじゃねーかよ」

あたしは別に電子工学なんてやってないもん、と茜が言うと、沢口はこんなのガッコーで習ってねえよと返す。
じゃあなんで雛ちゃんは知ってんのよ、
しらねーよピィはすげーんだよ…、
言い合いは続いている。

「…二人とも、ご飯、冷めちゃうよ」

雛に促され、敗者二人は大人しく食事の続きを再開した。
しかしまた次の問いがテレビから発せられる頃には、二人は再びそちらを向いていた。
懲りないな、と思いつつ、雛は笑っていた。

長々と食事に時間をかけた後、デザートにリンゴを四等分したものを一片ずつ食べて、4人でクイズ番組の続きを見た。
クイズ番組の終わりと同時刻に、雛は沢口家を出た。
沢口の母はいつものように、「またいらっしゃい」と笑ってくれた。
雛もいつものように、「ごちそうさま。またくるね」と笑んだ。



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雛はただ静かなだけの自室に戻り、再びPCのスリープを解除する。
ドールのエディタを開いたところで、彼女は手を止めた。

「………?」

一瞬何か違和感を覚えた。
エディタの開き方がいつもより遅く、そして一瞬画面がぶれた。
もう一度エディタを閉じて、開きなおしてみる。今度は何も起きなかった。
ずっと点けっぱなしだったから、メモリの回収ができていないのかもしれない。雛はそう思った。

「…調子悪いのかな」

PCに向かって独り言を呟いた雛はそれ以上深く考えず、キーボードに指を奔らせた。


       

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