「もう一杯くれ」
瞬けば、猪狩の笑みは鱗道には見慣れた――子供っぽさの抜けない若い笑みになっている。猪狩から空のグラスを受け取ると、麦茶のポットを傾けかけて手を止めた。シロはシンクに前足をかけて、まだ金魚を見つめている。
「まだ麦茶で良いのか? そろそろ――」
「おいおい、お前は仕事中だろ? 仕事中のお前を横目に呑ませるなんて、残酷な真似をさせんなよ、「鱗道堂」さんよぅ」
鱗道は猪狩の言葉にぐっと押し黙り、唇を結んだ。年に一度の楽しみを前に、ましてや仕事とは無関係の話をしたせいで、今度は仕事のことをすっかり忘れていたのだ。苦虫を噛み潰したような表情の鱗道を、意地の悪い笑みを浮かべた猪狩が愉快げに見ている。ひったくるようにグラスを取るとちゃぶ台に並べ、二つとも麦茶でなみなみと満たした。
「急ぐ話じゃないんだ……それに、色々と分からんことが多くてな」
そしてグラスを猪狩に渡そうと持ったときであり、猪狩が受け取ろうと左手を上げかけたときである。
「っと!」
猪狩の右手が、上げたばかりの左手の下で素早く握り込まれた。右手に掴み取られたのは、薬指に嵌まっていたはずの結婚指輪である。シンプルで細く頼りない指輪は、無骨で大きな猪狩の手には似合っていない。だが、猪狩が麗子と結婚してから外したところを一度も見たことがなかった。当然、外れそうなところもである。
「危っね! なんだ、今のは」
猪狩自身、まるで手品でも見たかのように不可解そうな顔で指輪を丁寧に検分している。切れ目などない、完璧な輪だ。割れてもいなければ、滑り落ちるようなものでもない。鱗道は表情を硬くして、猪狩の側に座った。その手元、足下にも視線をやる。が、何も見て取れない。
「……シロ」
呼んでみたが、シロはたった今、鱗道の脇から顔を覗かせたところである。シロは申し訳なさそうにクゥンと鳴きながら、
『ごめんなさい……見てなかった。けど、音はしなかったよ。変な匂いもしなかった』
と、呟く。先程まで金魚を見ていたのだから仕方がない。続いて、
「クロは」
『壺には一切の変化は見て取れませんでした。私の見える範囲で、という注釈は付けざるを得ませんが』
クロは常と変わらない硬質な声で淡々と言った。机上を伺ってはいないが、クロのことである。壺と並んでか、もしくは見える範囲の棚の上でじっと観察を続けていたに違いない。ならば、クロ程度の感覚では見えない相手ということになる。
「おい。シロやクロに聞くってことは、今のはカミサマ沙汰か?」
猪狩は左手の薬指に指輪をはめ直しながら、グラスを畳に置いたまま考え込む鱗道の顔を見て来た。鱗道は唸るばかりではっきりとした返事が出来ない。なんとか絞り出したのが、
「多分、な」
の、一言である。
「……引き起こしてるのがあの壺ってことは、間違いないんだが」
「お前が睨めっこしてた机の壺か」
「ああ……〝彼方の世界〟――まぁ、カミサマ沙汰ではあるが、それだけしか分からん」
鱗道の言葉に対する猪狩の相槌は好奇心に満ちていた。好奇心はネコをも殺す、等と言う言葉が脳裏によぎる。先日、神社の蔵であった一件を思い返したからだ。鱗道が制止していたにも関わらず足を踏み込んできた猪狩の、当時の原動力がそれ一つだとは思っていないが、好奇心も含まれていたのは間違いない。猪狩を牽制するように、
「飯の種にはならん話だと思うが」
鱗道が視線を向けるが、
「それは俺が決めることだぜ」
事もなげにさらりと流される。それだけでなく、猪狩は畳に置かれたままのグラスを一つ掠め取ると、
「とにかく話して見ろよ。情報整理にもなるかもしれねぇぞ」
まるでウィスキーでも嗜むように口を付けた。鱗道は目を閉じ、口を真一文字に結んで黙り込む。確かに、状況は完全に手詰まりであった。壺を持ち込んだ依頼人の話も奇妙としか言い様がないものである。完全に〝彼方の世界〟関係であって猪狩に解決の手段は一切ないだろう。だが、ただ話すだけでも情報整理になるだろうし、猪狩であれば解決の手法や糸口を見出すかもしれない。また、蔵の時には相手の正体も力の扱いも未知であったが、今回の壺では正体は不明であるが引き起こす出来事は知れている。物が取られることがあっても、命までは取られはしない。
「……指輪には、気を付けていてくれ」
目を開けた鱗道が真っ先に口にしたのはその一言であった。猪狩は明白な返事の代わりに左手を握りしめ、居間に上げて立てた膝の上、シロや鱗道にも見える位置に置く。それじゃぁ、と話し始めた鱗道の言葉に被さるように、シロが酷く残念そうに、
『ご飯は後回しなんだねぇ……』
と、呟いた。鱗道の頷きには、当然、深い同意も籠もっている。