グレイスケイルデイズ
-02-
穏やかな日差しの緩やかな午後である。「鱗道堂」は今日も暇であった。店主の鱗道は店番をシロに任せて居間で新聞を眺めているし、店番のシロは店の入り口を大きな体で塞いで通り掛かりを待ちながら転た寝している。
店に客がいない状態を「閑古鳥が鳴く」と言うが、先述の通りクロはハシボソガラスがモデルあるから責任は一切無い。もっとも発声器官が無いのだから、クロが閑古鳥をモデルに作られていたとしてもやはり責任はない。
このような時、クロは時々趣味の人間観察のために外出した。小学校が下校時間を迎えて騒がしくなるまでの短い間だ。僅かな間に来客があったとしても、〝彼方の世界〟絡みの客であれば鱗道とシロで基本的に事足りる。質屋の客やクロの知識や調査スキルが必要であれば一時預かりや引き留めるなどして、クロの帰宅を待つだろう。緊急であればシロが、風のように駆けて呼びに来ることも出来る。
その日、クロは山間にある神社付近を飛行していた。緩やかな階段を上り、鳥居を潜った脇に社務所がある。年始や時節の行事によって開かれ、お守りの配布や祈祷の受付を行っているが、平時には閉まりっぱなしだ。ベンチが置かれているものの、参道を進めば手水鉢も社も目前であるし、社務所もベンチも参道から少し逸れた場所にある。平日昼間の数少ない参拝者も滅多に寄らないベンチの背もたれを、クロは今日の止まり木に決めた。
クロがベンチに止まると、スズメやハトの群れが慌てて飛び去っていく。クロはその姿を見送って、じっと目前の風景を見つめた。参道脇に植えられているのは常緑樹で、低木も花咲く春や落葉の冬でもなければ変化に乏しい。この変わり映えのしない風景を、この日のクロは求めていた。
ここ数日、外出の折は人通りも多く賑やかな駅周辺や商店街に出向いていた。老若男女、千差万別の人間模様をつぶさに観察しては、様々な推測、想定、感想を抱き、疑問は鱗道やインターネットに投げかけて解消したり、解決しないことを楽しんだりと充実した日々である。しかし、日々が充実すると比例して疲労感が溜まる。意思のみの存在であるクロは疲労などないと思われていたが、過大な刺激やストレスに長時間晒されることよって思考が鈍ることがあった。酷くなると一時的な思考停止に陥る。思考停止中のクロは普段以上に全く動かなかったり、立っていても平衡器官が正常に作動していないためかゆっくりと揺れていたりしているらしい。擬似的な睡眠状態とも言えるだろうが、パソコンの強制終了の方が感覚的には正しかった。クロ自らの意思で思考停止を選べるのではなく、限界を迎えると唐突にブラックアウトするからだ。
強制終了を避けるために、クロは休息と思われる行動を意識的に取るようになった。古い蓄音機の前で好きな音楽の振動をただただ満喫したり、静かで低刺激な場所にしばらく滞在したりという行動である。
神社上空を回遊するトンビもクロの大きさに手出ししてこず、居着いている野良猫も大らかだ。騒がしい子供は学校にいるし、参拝客は幼子連れの母子や老人ばかり。平日昼間の神社はクロの休息としてまさに打って付けの場所であった。
クロはベンチの背もたれを止まり木にじっと動かず、ただ時間が過ぎていくに任せていた。瞼がなく目は閉じられないが変化の少ない風景は視覚的な刺激が少ない。温度変化は感覚器官がないクロには問題にならないし、風による触覚刺激も僅かなもので、無刺激よりも好ましい。
クロはこの低刺激な現状を、
『ああ、なんて、変わり映えのしない風景なのでしょうか』
等と、思考が止まらない分、意識的にゆっくりと、わざと堂々巡りさせながら見つめている。
じゃり、と玉砂利を踏む音を聞いたときもクロは同じ事を考えていた。わざわざ頭を動かして音の方向を見たのは、足音がクロに近付くものであったからだ。つい先ほど、鳥居の前で頭を下げていた老婆がゆっくりと歩んで来ている。
髪は完全な白髪であった。梳かれ結ばれた髪だが、すっかり細くなっているためか髪束から幾筋もほつれていた。小綺麗な服装で、顔には薄らと化粧がのっている。杖をつき、歩幅は小さいが階段を上りきった足取りはしっかりとしていた。それでも、ふぅと息を吐く仕草が目立つ。
老婆はベンチに座って一休みするつもりなのだろう。容易に出来る想像をした後、クロは己が取るべき行動を考えた。恐らく、クロは追い払われるだろうから次の止まり木を選定しなければならない。すぐに思いつくのは樹木の上だ。が、クロの目的が休息にあることを考えると、枝を選ばねば風に揺れて心地が悪いことが懸念される。社務所の屋根はどうだろうか。普段から清掃されている場所ではないから汚れが溜まっていることが問題点か。それでも、一時的に屋根に上がり、そこから次の止まり木を探せば良いだろう。なんなら、今日はこのまま帰路についても良い。
「いいのよ」
クロは社務所を見上げていた嘴を老婆に向けた。小さくゆっくりとした足取りで、老婆はベンチの間際まで来ている。他に人や生き物の姿はない。
「カラスさんは居ていいの。私が隅っこをお借りするのよ」
嘴以外を動かさないクロを気にせず、あるいは気にしているからか、老婆はゆっくりとベンチの端に腰を下ろした。杖を自分の前に置き、先端に両手をついてふぅと息を吐くと、
「お参り前に休むなんてダメかしら。でも、階段を上るだけでも一苦労なんだもの。神様も少しくらい大目に見てくれるわよねぇ」
声は穏やかで小さく、少しだけくぐもっている。クロはじっと老婆を見つめ、
『ご婦人。貴方は、まさか、私に話しかけているのですか?』
クロの声は常同様に硬質で――しかし、興奮もあって震えていた。老婆から返答はない。クロは嘴を開き、再度、
『貴方は私が鳥類でないことを見抜いているのですか?』
老婆に語りかける。老婆はほつれ髪を風にそがせたままで、やはり返答はなかった。
語りかけられたのは間違いない。が、それはきっと道ばたのネコに声をかけるような、散歩中のイヌに挨拶をするような、それら同様の声かけであったのだろう。クロは嘴を閉ざして、顔を正面の風景に戻した。失望などない。ただ、少し。ほんの少し。コーヒーに垂れた一滴のミルクほどの残念な気持ちが、
「もし、私に何か話してたら、ごめんなさいね。耳がすっかり遠くなってしまって、聞こえないのよ」
ぐるりと、言葉のスプーンで強く混ぜられ紛れてしまう。クロは嘴を素早く老婆へと向けた。老婆は口元に皺だらけの手を寄せて、
「うふふ。やっぱり、不思議なカラスさんだったのね。私、お邪魔じゃないかしら」
と、小さく小さく笑う。
「貴方、時々見かけるわねぇ。この場所が好きなのかしら? それとも、人を見てるのが好きなのかしら?」
クロは開いた口が塞がらず――己の場合は口ではなく嘴であるが、などと取り留めもない思考に渦を巻かせたまま、じっと老婆の顔を見つめ続けた。