先程から奏でられているシロの鼻歌はクロにとって耳障りなものであった。なにせ、リズムも音階もズレにズレている。面影も失って歌詞もないこの鼻歌の、原曲を当てられる人物は限られてくるだろう。
クロの聴覚は鼓膜ではなく全身で感じ取った振動を意思存在の思考内で選り分け、音に変換しているものだ。したがって耳を塞いだところで無意味であるし、そもそも耳がない。加え、シロは鳴き声だけでなく〝彼方の世界〟の声でもハミングしている。鱗道もそうであるように、〝彼方の世界〟の声を遮断する術をクロは持っていない。この、調子外れの読経めいた歌から逃れるには根源を絶つほかにないのである。
普段ならば達者な言葉回しでシロを諫めただろう。毛を毟って黙らせる手段もある。だが、今のクロにはそれら手段を執る気力はなかった。シロは作戦の要である。シロがいるからこそ計画は立案され、クロには円滑な遂行が託されたのだ。否、託されてしまったのだ。
『どーみふぁれーしらーそどー! どそらーしーふぁれーみー!』
そう――
『メロディーとリズムだけに飽き足らず、ようやく追加された歌詞まで外してきましたか。嗚呼、己の記憶力を疎ましく思う日が来ようとは思いもしませんでした』
二人でなければ成せない高難易度のミッション――シロとクロによる「はじめてのおつかい」はすでに始まっているのである。
事の予兆は昨晩にあった。冬、居間のちゃぶ台はコタツに改造され、テレビには年始の特番が映し出されている。ちゃぶ台の上に前足を乗せて立ち上がっているシロはすっかりテレビに釘づけた。大きな尻尾を振りながら、
『がんばれー!』
ヒャン! と力強い鳴き声と言葉を贈っている。幼い子供が大きな荷物を抱えたまま転んで泣き出していた。テレビを見つめるシロも、紺碧の目にたっぷりと涙をたたえている。子供がなんとか立ち上がり、散らばってしまった荷物を集め出したときなど、
『うわぁぁん! えらいねぇ! がんばれ! がんばれ!』
と、前足が何度もテーブルを叩き、ついにはぽろぽろと泣き出してしまった。
節目毎に放送される、子供だけで初めてのお使いに行くのを見守る番組である。シロは毎回この番組を楽しみにしていたし、すこぶる満喫していた。一方、子供が行動していると分かっていてもあまりの不合理さに辟易してしまうクロは店側に避難している。店の古い机の上で、鱗道が最近買い取った書物を広げて読書に興じていた。聴覚遮断は不可能であるが没頭することで意識を切り替えられる。居場所も思考も本の中に逃避してしまえば数時間などあっという間に過ぎ去りゆくものであった。
「ぶぇっくしょい!」
鱗道のくしゃみが聞こえてこなければ。
クロは古い電気スタンドを消して居間に戻った。シロにテレビを譲っていた鱗道はコタツで寝入っていたはずである。特大のくしゃみにはシロも鱗道を振り返っていた――子供の買い物が一区切りついて、スタジオの歓談に場面転換していたからかもしれないが。クロがコタツ上に着地したとき、鱗道は体を起こして寝ぼけ眼を瞬かせていた。普段は色の薄い頬が珍しく赤みを帯びている。
「……あ?」
自らを起こした原因が、自らのくしゃみであるという自覚はなさそうだ。
『おはようございます、鱗道。シロがあれだけ騒ぐ中でよく眠れるものだと感心していましたが、生理現象には敵わないようですね』
「あー……くしゃみか、俺の」
ぼんやりとした受け答えである。右手で両目尻から目頭まで、指でぎゅうっと摘まみ上げても瞼はどっしりと重たい。
『鱗道、風邪?』
シロが口の横から垂らした舌ごと首を傾けた。風邪、と繰り返したのはクロである。
「いやぁ……どうかな……」
鱗道の答えはやはりはっきりとしない。何度か確認するように首を傾ぐと、のっそりとコタツから這い出て、
「とりあえず……寝る。風呂は……朝にでも入る」
寝起き故の足下の覚束なさはあれど、特別ふらつく様子はない。
『分かりました。おやすみなさい、鱗道』
声をかけたのはクロだけであった。鱗道から返事はなく、ひらりと手振りだけが返される。姿が見えなくなってから、
『あのような場合、鱗道は決まって湯船につからずシャワーだけで済ませてしまうのですが』
クロは呆れと諦めを込めて呟き、溜め息をつく仕草をした。シロはしばらく黙っていたが、
『鱗道、大丈夫かなぁ』
くぅん、と心配そうな鳴き声と共に階段の下まで歩み、すぴすぴと鼻を鳴らす。シロの反応がクロには過剰にしか思えず、
『シロ。随分と心配していますね。鱗道は蛇神の代理を務めている恩恵で体が丈夫であり、数十年と病らしい病に罹っていない、もしくは軽症で済んでいると言っていたではありませんか。現に、私達が居着いてからこれまでも、嗚呼、胃もたれは何度か、猪狩晃と外食してきた際にはありましたが加齢由来の症状でしたし、病に伏したと言える状態に陥ったことは一度もありません。今もくしゃみをしただけではありませんか。風邪とは喉の痛みや発熱、頭痛や鼻水と言った細かな症状の総称を指し、原因の特定は困難であるようですが、それほど心配するような大病ではないでしょう?』
クロは立て板に水を流すかのごとく語り倒した。実際、鱗道はクロとシロと過ごす間も病に罹ったことはない。花粉症すらなく、悩ませている不調と言えば加齢による関節の痛みや肩こりくらいだろう。ニュースで季節性感染症の流行が報じられる度に、ちょっとした恩恵だなと薄く笑う程である。
大病、に関してはクロの体感に準じたものだ。クロの作り手は病弱であった。生前に具体的な病名は聞いていない。書斎に閉じ込められ様々な書物を漁る中で、クロが観察していた状況から心臓か肺――もしくは両方の病であっただろうことが推測できただけである。風邪という症状は町中でそれらしき人々を見かけるだけで、しっかりと観察したことはない。ただ、クロの知識上では風邪は大した病気ではないのである。
『怪我ですら一般人より治りが早いそうではありませんか。何をそんなに心配するのです?』
クロの言葉は伝聞と限られた体感でしかない、と言うことを、
『殆どはそうだけど風邪は時々死んじゃうんだよ。風邪は万病の元だからって、みんな言ってた。神社にお願いに来てた。僕も見たことがある』
シロは窘めたり、諭したりする風でもなく、静かに伝えた。
『風邪って、少し、変なにおいがするんだ。噛み付けないし、吠えても追い払えない。でも、急ににおいが強くなるんだ。そうすると、いやな事になるんだよ』
屋敷の中で長く過ごしたクロの知らない、古くから根付いた集団生活の経験である。シロの目は真剣そのもので、真っ暗な階段の先をじぃっと見つめていた。風もないのに揺らめく被毛が晴天の雪原のように煌めいて見える。シロは集落を失わなければ守護神に到れたのではないかと、東北山中の一柱である鼬神のこごめが語っていたことを思い出す。紺碧の目に純白の被毛――想起されるは威風堂々とした立ち姿。
『鱗道は今まで風邪ひかなかったよ。けど、ずっと絶対じゃないかもしれない。お願いに来てる人も子も、みんな絶対じゃなかったから。それに、そんな鱗道だから、本当に風邪をひいちゃったらすごく大変なんじゃないかなぁ』
集落で長くを過ごしたからこその数多の経験則と珍しく真っ当な意見に、クロはちゃぶ台の上で嘴をつぐむ。シロはしばらく階段の上を見つめていたが、テレビが再び子供達が出かけることを告げると豊かな尾をゆっくりと振りながらテレビの前に陣取った。すでに被毛の煌めきはない。不揃いな被毛に赤い舌をだらりと垂らし、子供の懸命な姿に紺碧の目を煌めかせ――傍目にはただの雑種犬が、ちゃぶ台に前足を乗せてはしゃいでいる。ただ、二階に行った鱗道を気遣ってか声量は大分抑え気味だ。
クロはすっかり板についた溜め息をつく仕草を挟んでコタツの電源を消した。少し押さえられたとはいえ、クロには充分な喧噪である居間から離れて店の古い机に向かう。番組が終わればシロからテレビを消して欲しいと頼まれる筈だ。リモコンのボタンがシロには小さすぎる故に。その後、シロは使い古しのタオルケットの寝床を整えて本来不必要な睡眠につき、クロは長い夜を気ままに過ごすことになる。読書に耽ってもよし、夜の散策に出るもよし、インターネットに興じるもよし――ただ、どれも没頭は不可能であろうと推測できた。シロが投じた心配の種は、クロが想像できなかった範疇であるからこそ根が深く食い込もうとしている。