腹の上に乗った犬の頭の重さが、鱗道を目覚めさせた。顔を覆っていた新聞を剥ぎ取り、鱗道の腹を枕に堂々と眠っているシロの鼻先を指で弾く。
『いたっ』
同時に、きゃん、という二種類の声が耳と頭に届く。が、それでシロが目覚めたわけではない。不満げに鳴き声にも言葉にも成っていない二重音声を鳴らしながら、鱗道の体から頭をずらして落としただけである。
「鱗道堂」の一階、店舗奥の居間。新聞を読んでいるうちに眠ってしまったらしい。座布団を枕にしていたが、肩や背中がすっかり固まって悲鳴を上げた。懐かしい出来事を夢に見たのは、シロの枕にされたからだろうか。
あれから十年以上が経過した。鱗道は当然かつ順調に年齢を重ねたが、シロの力が消費されているかは鱗道では判断がつかない。シロの奥にある熱塊は当時に比べれば熱くも大きくもないような気はするが、なにぶん感覚の話であるから慣れた可能性もある。シロの自覚も精度は高くはなさそうだ。蛇神に尋ねることは何度か考えたが、減っているからそのうち消えると言われても、減っていないから食うしかないと言われても反応に困るので二の足を踏んでいた。なにせ、十年以上。愛着が湧くには充分な年月だ。
勿論、シロに終わりしかないことはなんの変わりもない。その事を忘れたことはなかった。此方の世界では既に死んでいて、彼方の世界でも消える結末が待っている。それが明日か、何年後か、何十年後か。自然に消えるのか、蛇神に食われて静かに溶かされていくのか、努力むなしく荒神と成って食われ砕かれ果てるのか。分岐や選択は多いが結果は同じだ。変わらず、確定している。
それでも「犬の社」で蛇神の腹に収まった結末とは、大きく違う。まず、鱗道と共に暮らした十年以上の年月が積み重なっている。この間にシロはかなり物わかりが良くなり、店の客や店の前を通る子供等や住人に愛され可愛がられている。今でもちょっとした切っ掛けで穢れが反応し、荒神の衝動を露わにすることはあった。最初の何年かは蛇神の力を借りて無理矢理抑え込んだり、荒療治に一部を蛇神に食わせたりなどとせねばならなかったが、今では言葉の制止や切っ掛けを与えてやることで堪え鎮まるのを待つことが出来るようになった。
他にも、多くの出来事をシロは経験している。危なかったことも、悔しかったことも、歯痒かったことも、悲しかったことも、楽しかったことも。十年以上の年月と出来事がシロの中に蓄積されたのだ。
犬は忘れないそうだ。しかし、忘れない犬自体がいつか消える。シロにとっては絶対に避けられない未来であり――鱗道もまた、同じだ。鱗道灰人は末代であり、鱗道家の終いの者である。シロと同じく何も残さず、ただ終わるだけの者なのだ。交友関係も行動範囲も広くはなく、歴史に名を残すような人物でもない以上、あっという間に忘れられて消える未来が確定している。
だが、粛々黙々と終わりを迎えようと思ったことは一度もなかった。やらねばならないことがあり、面倒だ億劫だと思いながらも向き合ってきた。確定している終わりまでの過程を、満足とは言えなくとも後悔の少ないように歩むように努めてきたのだ。例えば――「犬の社」で蛇神の意に逆らう選択をしたように。
シロは鱗道に立場が似ている。だから、同じようにあって欲しい。鱗道が死ぬよりも先にシロが消えることが出来るかは分からない。鱗道が先に死んだ場合、力が残りすぎていれば蛇神が食らって溶かす。どんな形であれいずれ迎える終わりの時であるが、シロも後悔の少ない状態で迎えて欲しいと、そうなるようにと共に歩んできたのだ。何せ、犬は忘れないそうだから。終わりの間際に見るだろう走馬灯の中で、良い思い出が半分か、少し多いくらいであって欲しい。
鱗道は痛みを訴える腰を宥めながら立ち上がった。老眼鏡をかけ直し、サンダルを履いて店へと下りる。棚に囲まれて奥においやられている古い机。白熱球の電気スタンドが据えられている机には、一番下に大きめの引き出しがある。そこに入れてある物は商品ではない。電気スタンドのスイッチを入れ、点灯しきる前に引き出しの中から目的の物を引っ張り出した。
橙色を帯びた光の下に置かれたのは片手には少し余り、両手には収まるほどの石だ。滑らかな一面を有し、白や黒の粒が集まって出来ている石である。刻まれているカタカナ二文字には多くの温かい想いが込められているのだろう。この石の下に眠った犬は思いに応えるように霊犬となって、社や集落の人々を守るようになったのだから。
「犬の社」からの帰り際にこごめが持たせてくれたシロの墓石。H市に移って慣れない環境に置かれたシロは、しばらく石を抱え込む日が続いていた。一年も過ぎた頃にはそれもしなくなり、今では鱗道が取り出さない限り引き出しの中から出されることもない。鱗道が取り出すのも割れたり崩れたりしていないか確認するためであり、それも思いついた時と言う不定期さだ。それでも確認するのはシロが欲しがった時に引っ張り出してみたら粉々であった、という事態をシロの為にも己の為にも避けたいからである。
この墓石から声を聞いたことはない。人々が愛し、思ったのは石ではなく、石の下に眠った野犬であり、想われたが故に力を得た霊犬である。この墓石はただの石だ。語り出すことは今後もないだろう。
体の奥に熱塊を宿しながら、残雪のように冷えた被毛が鱗道の足を掠めて机に両前足を置く。湿った鼻がひくついて、石の匂いを嗅いだ。
「……山の匂いがすんのか」
『ううん。もうしない。ずぅっと前から全然しない』
シロのあっけらかんとした返答に、十年も経てばそんなものかと鱗道の肩から力が抜ける。匂いがしなくなったからシロは石を要求しなくなったのだろうか、などと考えた。割れていないか確認するのも、思っていたほど重要ではないかもしれない。
『でも、この石は僕のことを知ってるし、僕はこの石を知ってる』
ぺろりと、真っ赤な舌が石の表面を少しだけ、一度だけ、撫でる代わりに舐め上げた。それで満足したというように、シロは机から前足を下ろす。
『そういうのが大事なんでしょう? ね、鱗道』
シロが山を下りてからも、シロから冬の気配が消えたことは一度もない。当然と言えば当然だ。シロは此処に未だ在る。春を迎えねば冬は去らず、春を迎えれば残雪は消える。残雪があるということは、春はまだ来ていない証拠だ。だが、冷たく重い雨はいつの間にか止んでいたように思う。時に降ることはあっても、降り続くことはなくなっていた。さらに、双眸。紺碧の双眸にはほぼほぼ常に、一筋の光がまばゆく差し込んでいる。
鱗道はシロの頭を、目や耳などに一切遠慮せず撫で回した。被毛豊かな大型犬並みの体であり、ただの犬ではないから少し乱暴なくらいに扱ってやらねば足らないらしい。ひとしきりシロを撫で回すと、墓石を引き出しの奥、綿を詰めた菓子箱の中に丁寧に収めてしまい込んだ。今後も、不定期ながら確認をし続けるのだろうと思いながら、そっと引き出しを閉める。
『あ、そうだ! 僕、お腹が空いたんだった! 鱗道はご飯、まだ食べないの?』
ひゃんひゃんと上がる子犬の鳴き声に、幼稚さの抜けない言葉遣い。耳と頭を同時に揺らす勢いは、鱗道が慣れたのかシロの加減が上手くなったのか、鱗道が体を仰け反らせる回数はかなり減っている。頭を引く時は、まだなかなかの頻度であるのだが。
「お前を連れてくる時には、何も食わないと聞いたんだがなぁ」
『それはね、僕が言ったんじゃないよ。蛇神サマが言ったの。食べなくてもいいけど、食べたら美味しいし幸せだもの!』
電気スタンドのスイッチを切って鱗道は立ち上がる。シロの体は足を掠めても、余程気を抜いているか慌てているかでもない限り、ぶつかることも誤って蹴られることもなかった。常に此方の世界に顕現しながら、器用に鱗道の足の間をすり抜けて歩いてみせる。
ああ、そうかい、と鱗道の返事には常と同じく活力がない。時計を見れば確かに夕飯を食べるには頃合いの時間だ。うたた寝をしている最中に日はすっかり沈んでいる。鱗道は居間に戻らず、店先に向かった。
たった一枚、開けっぱなしだった引き戸を閉めようとするとクロが店の中に飛び込んできた。鱗道がうたた寝を始めたからだろう、店の外で見張りをしていたのだ。店に飛び込んだクロの翼と足はシロに真っ直ぐ向かい、早速言い合いを始めている。さては、店の主が眠っている時ぐらい番犬らしく振る舞ったらどうだ、などと言っているのだろう。
引き戸を閉じ、扉にぶら下がっている「開店」の札をひっくり返して、「閉店」の文字を外に向ける。シャッターを閉じるのは飯の後で良いだろう。鴉と犬がいるのは「鱗道堂」のいつもの光景である。カーテンを閉めるだけで事足りよう。
「さて、今日は何を食うか」
ラインナップは決まっている。冷凍庫に入っている冷凍食品から適当に見繕うのだ。鱗道の腹はそれで満ちるし、クロは元々何も食べず、シロは実際に空腹であるわけではないからお零れ程度で充分である。
人間と犬は良き伴侶である、と昔から言う。少なくとも鱗道とシロは似たもの同士であった。特に、残すものがなく消えるだけの終わりが決まっている点と、安っぽい物で満足する点が似ている。その分、必ず迎える終わりの時が、些細な満足や安っぽい幸福で満ちているだろう。そして、些細な満足や安っぽい満足を箇条書きにしたならば、良き伴侶を
得たという項目が、きっと含まれているはずである。