グレイスケイルデイズ
-05-
シロが軽い足取りで歩き出すと、すっかり店先に出てきた大人達がじっと見守っている。その様子は昨晩のテレビ番組のように、撮影班が子供を遠巻きに取り囲んでいるのと同じ光景であった。違うのは、シロやクロが何か困った素振りを見せれば、番組的に不干渉を貫く必要がなく善意で駆け寄ってくれるだろう空気を漂わせていることである。
クロはシロの頭上に座り込むとシロの歩調に合わせて商店街の空気に関しての思考をたゆたわせた。非常に奇妙である。蛇神の治める土地柄の影響もあるはずだ。鱗道や猪狩から聞くところによると、蛇神自体が信仰されていたり祀られている祠があったりはしないようだが、完全に忘れ去られたというわけでもないらしい。山にヘビが多くいても、無闇に侵入するべからず以上の警戒はない。山間の神社はヘビ関係の――害獣避けや不老長寿などの――御利益で知られている。山に囲まれ多くの水源が人知れず地下を流れているように、常識の範囲から超える出来事にある程度の許容が根付いているのかもしれない。
ただ、シロに対する商店街の寛容さはそれだけに由来するものではないだろう。シロの散歩にクロが付き合った事は――必要性がない限り、一度もなかった。時間帯によっては先程のように子供達に囲まれるだろうし、子供達を歓迎して自ら地面に寝転び腹を出すシロに付き合う気にはならない。その考えは変わらないのだが、
『シロ。貴方は、私が貴方の散歩に付き添うようになったら、その時に子供達が私に触れようとしてきたならば、先程のように遠ざけてくれますか?』
今、シロがこうして飼い主不在でも商店街を歩けるのは、鱗道とシロが周囲とコミュニケーションを構築して信頼を築いてきたからである。その様子を見てみたい、観察したいと思うのはクロにとって自然な願望だ。
『えっ、なんで? 僕はみんなと遊ぶよ?』
しかし、シロの言葉はクロの想像や望みに反していた。短い驚きの声を上げたクロに対してシロは、
『今日は飛べないけど、クロは飛べるでしょ。だから大丈夫。クロはちゃんと一人で出来るもの!』
と、得意げに言って寄越す。さっぱりとしすぎた返事に、
『……これは、一つの信頼として受け取るべきでしょうか』
残念と思ったものか、誇らしく思うべきなのか。迷って思考に沈み込もうとしても瞼がないため、シロが歩けば変わっていく視覚情報によって上手く集中が出来ない。商店街を上空からではなく、中から見ることは初めてなのだ。あれが話に聞いていた魚屋か、確かに大きな黄色い樽がある、あの中にはドジョウがいるのだと言っていた――等と、シロや鱗道から語り聞いた情報と統合しようと思ってしまう。加え、シロの言葉はまだ続いたようだ。
『だけどね、今みたいにクロが飛べなかったりしたら』
シロの足が止まる。鼻先が上がり、クロはしっかりと毛を掴み直した。ひゃんひゃんと鳴くシロの声はいつもいつでも子犬のようだ。鱗道曰く、膨れた力の割に精神的な成長や経験の乏しさが反映されているかららしいが、クロが観察している十年以上の間、一時的なものを除いて鳴き声も考え方も変化がない。
『その時はちゃんとクロを守るよ』
変化は、ない。
『そうですか。それは非常に心強い』
シロの思考も、風景も。
正面のガラスケースには、座り込んでいるシロとクロの姿が半透明に映っていた。クロは姿見を好んでいる。体の隅々まで羽毛が揃っているか、汚れた損傷がないか確認できるからだ。だが、今の己の姿は見たくなかった。首にぶら下がっているホワイトボードもあいまって、座り込んだ白いイヌとカラスの姿は店先に飾られる置物のようだ。
シロの口からだらだらと涎が垂れていなければ、であるが。
肉屋のガラスケースには当然、様々な種類の肉が並んでいる。上段、シロが見上げる先に陳列された惣菜の揚げ物やマカロニサラダなどは鱗道の食卓の常連だ。つまり――実際のイヌであれば褒められた話ではないが――シロの口に多少なり入っているものであり、シロは味を知っている。クロが味を知る術はないが、
『シロ。肉屋の前に涎の池を作るつもりですか?』
さぞ、美味なのだろう。
『えっ、そんなの出来ないよ?』
シロのヒャンともクゥンともつかない鳴き声は、肉屋の店主にはお強請りに聞こえたらしい。三角巾を巻いた女性がガラスケースの上から、
「おかずは後の方がいいんじゃないかしら」
と、困りながらもにこやかで穏やかな視線を送っている。だが、キラキラと輝く目と涎は店の前を離れない。
『先程、商店街の住人が薬屋に話を通してくれると言っていましたよ。待たせるわけにはいかないでしょう』
シロがあまりにも動かないため、クロは何度か嘴で耳を引っ張ったのだが、シロにはまったく堪えないようだ。ついには届く範囲の毛を毟り始めたが、それも通用しない。普段ならばキャンキャンと悲鳴を上げるにも関わらずである。
「それにねぇ。鱗道さんは風邪なんでしょ。お肉はどうかしらねぇ。唐揚げは消化に良くないしねぇ」
ガラスケースに手を乗せて、肉屋の店主は困ったように首を傾ぐ。彼女があら、と声を上げたのは、シロの隣に男性が二人立ったからだ。客ではない。四十手前と思しき男も、五十を過ぎた男も、それぞれ形の違うエプロンを巻いている。
「風邪引いてんなら果物だろ。シロ坊はウチに来りゃいいんだ」
五十を過ぎた、腰エプロンの男は乱暴な口調で言った。口調は荒っぽいが、シロを見下ろすは満面の笑みである。
「バナナに、キウイもいいらしいぞ。イヌも食っていいしな! カラスもいいだろ。そこらのは生ゴミ漁るぐらいだしよ」
相当なイヌ好きを思わせる男は言葉からして八百屋の店主だろう。シロはずっと尻尾を振っているが、クロは無い眉をひそめた。仕方のないことだとしても、清潔感のない野生のカラスと一緒にされては機嫌も悪くなる。
「食欲がどれだけあるかでしょ。鱗道さんって、アニキが言ってたけど昔から結構食う人じゃないですか。ウチでも、一人分より多めに買うし」
三十手前の男は、胸元まであるエプロンを着用している。胸元には弁当屋の刺繍があった。鱗道が買ってくる弁当ののし紙に同じ名前があるのを見た記憶がある。この弁当屋に、鱗道が少し多めに買った分はシロの胃袋に収まっているのだと伝えられたらどんな顔をするのだろう、とクロはほくそ笑む。伝える術が無いからこその邪な考えだ。
「消化にいいモンを考えるなら、豆腐とか卵とかになるでしょ。でもなぁ」
弁当屋の店員――肉屋や八百屋に比べて若いので、店主を継いでいなかろうというクロの憶測である――は、顔をしかめて腕を組んだ。
「鱗道さん、肉ばっか食うもんなぁ」
「そうなのよねぇ」
「そうなんだよな」
食べ物を取り扱う三店舗それぞれが、同じように頷く。中心にいるシロはそれぞれの顔を見上げはすれど、
『全部美味しいからねぇ。困っちゃうねぇ』
と、視線の大半をガラスケース内に注ぎ続けていた。
「改めてよ、シロ坊を使いに出すんだぞ。相当ヤバいだろ。病院に担ぎ込んだ方がいいんじゃねぇのか」
「心配だけど、鱗道さんって体調崩しても二日くらいで治ってたりするからねぇ。たしかあれよ、学級閉鎖になるくらいインフルエンザ流行ったときも、鱗道さんとこはケロッとしてたし……」
「まぁなぁ。それに、鱗道のとこが不思議なのは前からっちゃ、前からか。質屋やってからも変な客とか変なもんとかばっかり扱ってるって話でよ」
「あー……甥っ子が、魔法使いの家とかお化け屋敷とか言ってるわねぇ」
「アニキから聞いた話ですけど、鱗道先輩はフツーとか言ってる割に高校の旧校舎に忍び込んで七不思議巡りして猪狩先輩と大暴れしたとか、心霊トンネルに乗り込んでなんか大立ち回りしたとか、山の中でヘビの抜け殻集めまくってたとか、妙な噂ばっかりですよね」
「前の方はあれだろ、猪狩の悪ガキに引っ張り回されてたんだろ。猪狩のとこは変なとこで計画的で、妙なとこで慎重なクセに、そもそもの発端がしっちゃかめっちゃかなんだ。ナリはでかくなって子持ちになっても落ち着いてねぇようだし」
「そんなことないわよ。昔に比べれば少しは……ねぇ。鱗道さんの方が変わってないわ。でも、シロちゃんが来てから少し明るくなったかしら」
「俺は大して変わってないように思えますけど……まぁ、シロに向かって時々話しかけてんのは見ますよね。本人、バレてねぇと思ってんのかしれーっとした顔してますけど、普段からあんまり表情変わらない人だからなぁ」
取り留めのない話題である。三人とも表情をコロコロと変えながら、色彩豊かな話の花を咲かせていた。クロはシロの頭上でじっとその会話を聞いている。退屈などない。これが噂の井戸端会議かとなれば愉快なものであるし、彼らが口にする話題はどれもクロには新鮮なものである。鱗道は理由なく昔話をするタイプではないし、猪狩が来ても大抵は最近の話題だ。思い出話など、余程の切っ掛けがない限り聞く機会がない。
任務遂行中であることも、この井戸端会議が無駄なものであることも承知の上で、クロは嘴を噛み締めるように軋ませた。歯痒さの表現でもあり、会話に口を――嘴を挟めぬもどかしさが取らせた行動でもある。鱗道の――おまけに猪狩の、クロとシロが知らない時代の話が、様々な視点から語られているのだ。詳細を知りたい。噂や過去を当人に確認したい。その為の話題をもっともっと聞き出したい。そわそわと身動ぐクロの真下で、一方のシロはピクリとも動かない。しかしいよいよ耐えかねたのは空腹か退屈か、たった一声のか細いキュウンと言う鳴き声を訴えるように上げた。
効果は抜群で、それが、大人三人を我に返させる。
「おぅ、悪いな、シロ坊――うぉ、すげぇ涎!」
八百屋が一歩飛び退くのも仕方がない。シロの口から垂れた涎はたっぷりと零れて胸元を濡らし、口の下には小さな水たまりが出来ているのだから。
「あらあら、ごめんね。お待たせしちゃってるわねぇ」
ガラスケースから身を乗り出した肉屋が、八の字眉にして頬に手を当てた。腕組みをし、うーんと考え込んでいた弁当屋がポンと手を叩いて、
「とりあえず、風邪に良さそうなものを全部持たせましょう。今夜の分だけでいいかも分からないし」
「そうね。小分けして少し持たせてあげましょう。肉団子なら、少し消化にいいかしら」
肉屋と大きく頷き合う。アレはどうだ、コレはどうだという提案の出し合いを止めたのは、ばつが悪そうな八百屋であった。
「それはいいけどよ。どうやって持たせるんだ。この後、薬屋にも行くんだろ?」
皆が一斉に声を――クロは嘴を開いただけだが――あげた。鱗道は鞄らしいものを持たせていない。それはシロを見れば一目瞭然だ。
「ビニール袋に入れて咥えさすのは酷だろ。食いもんだぞ」
八百屋は難しい顔をして、シロの真下を指さした。小さな水たまりを見て異論を唱える者は誰もいない。ううん、と呻いて三人とも首を傾いでしまう。クロが『私が持ちましょう』と言えたところで解決しまい。カラスが持つには重すぎる等々と言われて終いである。
「台車は貸してやれるが、シロ坊じゃ押せても止められねぇかもなぁ」
「帰りも道路を通るでしょ。いっそ、俺が持って行きましょうか」
「うーん……初めてのお使いとなりゃ最後までコイツらでやらせてやりてぇが」
それは無理だろう、と八百屋の言外にクロは同意を抱く。そもそも、商店街がイヌにお使いをさせてやろう、と協力している状況だけでも充分だ。よくやったと言える、と思った時に、パン! と力強く手が叩かれた。
「私にいい考えがあるわ!」
ふくよかな顔に満面の笑みを浮かべて、肉屋はシロとクロを見下ろす。
「準備してあげるから、先に薬屋さんに行っておいで。きっと大丈夫よ。シロちゃんの特別なオヤツも作っておいてあげるわ。そのカラスちゃんも食べれそうなのをね」
クロは嘴を開かず、肉屋をじぃっと見詰めていた。リアクションを取るのは「単なるカラス」として不自然であろうし、自分は摂食不可能であることを伝える術はないからだ。もし、術があったとしても、肉屋の笑顔を前に伝えようとはしないが。
一方、シロはしゃっきりと耳を立てて威勢良く、しかし普段通りの子犬めいた鳴き声でヒャン! と、
『僕のオヤツも!? 分かった!』
言って腰を上げた。涎をゴクンと飲み込むと、八百屋と弁当屋を見上げてそれぞれに、
『お願いします!』
ヒャン! と鳴いてからすんなりと歩き出す。商店街の入り口近くでクロが調達を頼めないかとぼやいた時は反発したシロであるが、目的の店まで来たことで「お使い」認定したようである。シロは商店街の出口側へと向かおうとしているようだ。クロはシロの頭上で体の向きを変える。八百屋はシロに向かって手を振っていて、肉屋はガラスケースに身を乗り出し、
「行ってらっしゃい! 薬屋さんの前で待ってるんだよ! 持っていってあげるからね!」
と、大きく声を張り上げた。弁当屋は身を乗り出した肉屋に、
「一体どうするんですか」
と、不安げに尋ねたが、返答は八百屋がしている。
「ま、やってみてダメだったらお前さんが持って行ってやれよ。ついでだ。風邪ン時は欠かせねぇ、俺の卵酒も持たせてやるか。ガツンと濃いのを作ってやるぜ」
「ちょっ、強すぎちゃダメですよ!」
弁当屋の言葉に分かってる分かってると雑に返事をしながら、八百屋は己の店に戻っていく。肉屋がその背中を見送りながら、
「まずはやらせてあげようじゃないの。アンタ達の品物は、まずウチに持ってきてね。ちゃんと詰めてあげなきゃ」
と、はりきって店の奥に入っていく。結局最後まで残っていたのは弁当屋で、一つ溜め息をつくと開き直ったように小走りに、こちらも自分の店へと戻っていった。
クロは、三人が解散するまでをじっと見ていた。それから視線を下ろす。シロの尻尾が大きく揺れていた。お伽噺のパンくずや雪原の足跡よろしく、点々と続くシロの涎跡が路面に落ちている。
体の向きをシロの進行方向に合わせ、クロはしっかりとシロの頭上に鎮座した。まったく、奇妙な商店街である。もはや、クロ自身の感覚がそぐわないのではないか、とすら思えてきた。まさか、そんな、いやしかし、と考え込みそうな思考を逸らすためにも、クロはシロに向かって、
『霊犬となっても食欲に支配されている是非は、議論の余地がありそうですね』
まったく別の話題を振ることにした。池にならずとも水たまりになり、こうして足跡として残る涎の跡。八百屋の話ではただ垂れているだけではなく、体も濡らしているようだ。気にならないのだろうか、と不思議に思う。クロとは違って、〝此方の世界〟に顕現している以上皮膚感覚もあるはずであるのに、と。が、シロは元気も威勢も良く、ヒャンヒャンと鳴いて、
『食べることはいいことだよ! 美味しいからね! 美味しいことはいいことだ!』
と、語った。クロはシロが気にしている様子がないことに呆れながら、また、自ら振った話題でありながらも、
『シロ。貴方と議論をするつもりはありません。貴方とでは議論になりませんから』
クロは素早く冷静に撥ね除ける。もともと、深い議論に持ち込もうという気持ちはなかったのだ。深みにはまりそうな思考を抜け出させさえ出来れば良い。
『鱗道もおんなじようなことを言うと思うけどなぁ』
シロがぽつりと零した一言に、それは――と、言いかけてクロは言葉を飲み込む。鱗道は食に拘りがない。毎日似たようなものを食べていて、時々思い出したように生野菜を食べる。季節のイベントがあれば沿ったものを用意することもあるが、シロやクロの反応を見ることが理由の大半であろう。鱗道に自らの食欲の是非を問うたところで曖昧な回答に止まるはずだ。一方、幽霊にとっての食欲の話は、〝彼方の世界〟と相対した経験を踏まえて語って貰えればクロの好奇心を満たす筈だ。問題は、鱗道が長話に腰が重いことである。その腰をどう上げさせるかは、議論の行く末よりも想像が出来ない難問である気がし、また別の思考の沼にはまりかけていた。