クロは自らを生き物ではない、と言い続けていた。定義や詳細に拘る姿は性分ともコンプレックスとも言えるが、クロが言い張る根拠として二つの理由がある。そのうち一つが無機物で構成されたカラスを模したクロの身体である。
骨格から羽毛の一枚一枚、足の爪の先までも全て人工物で作られていて、主原料は金属やガラス質繊維であるらしい。当然、感覚機構も金属骨格の中に納められているものでそちらは用途に合わせた鉱石と金属で構成されている。視覚として用いられているのはダイヤモンドと蛍石を中心とした機構。聴覚として用いられているのは黄鉄鉱を中心とした機構だ。また、音の振動を受け取る聴覚の機構は役割上、振動感知による単純な触覚も兼ねているとのことである。
通常より一回り大きな鴉の贋作にそれら機構の他、体制制御や翼、嘴、足や身体を細かく動かすための仕組みが詰め込まれている。だが、それだけで鴉の贋作が動くはずがない。電力も生命も入る余地がない鴉の贋作を動かしているものが液体金属である。金属骨格の中を満たすように密封され、流動することであらゆる機構を動かし、情報を受け取る。その液体金属が有した意思存在が「クロ」であり、自らを生き物ではないと言い張る根拠の二つ目であった。
異国亡国問わず集められた、科学も魔術も神秘も全てオカルトとして混同し、用いられた技術と偶然により液体金属に作り出された意思だけの存在。神や同種生命を介さずに作られたものを生き物と誰が呼ぼうか――というのが、クロの主張である。同じような存在が世界にいるかどうかは不明であるが、クロと全く同じ液体金属はクロの他にはもう無い。作り方を知る者もいない為に情報源は完全に失われている。
意思を有した液体金属が、金属骨格の中を血液のように満たし、流動し循環することで微弱な電力を――あるいは摩擦によって様々な機構を動かしているのがクロという鴉の贋作の正体である。と、クロに自己紹介を頼めばそのように返されはするが、クロも己について全貌を理解できてはいないようだ。だからこそ「鱗道堂」にて様々なものを観察し、学び、「己は何者であるか」に答えを出すことを命題としている。
鱗道の経験からすると、クロの分類は付喪神になると思われた。が、彼方の世界から何者かが物体に取り憑いた者とも、物が年月を経て意思と力を得て動き出すようになった者とも違う。クロは人間によって偶然作り出された意思だけの存在だ。似たところで言えば穢れも破壊と死滅を招く意思だけの存在だが、別の力を腐らせたり瘴気を集めたりと彼方の世界に多大な影響を及ぼすことが可能である。しかし、クロに出来るのは我が身と言える液体金属を動かして鴉の贋作を動かし、機構から感覚を受け取って外部を把握することだけであり、彼方の世界に影響を及ぼす力はない。此方の世界の物質である金属骨格の中に密封されているのも要因なのか、彼方の世界に対する感度は鱗道にも遠く及ばず、見えず、感じず、微弱な声ならば聞き取ることも出来ない。
その特性の違いが鱗道やシロとは全く違う部分で活かされている。味覚や嗅覚の欠如と触覚の鈍さが感覚機構の都合上生じているが、屈折率の高い鉱石を用いた視覚機構は僅かでも光があれば周囲を視認することが出来、一切のエネルギーが不要である身体は非常に頑丈で疲労が無い。彼方の世界を敏感に感知することは出来ないが、彼方の世界からの影響も殆ど受けない。穢れや呪いの力の大部分を占める瘴気などは直接接触することで多大な影響を被る可能性はあるが、液体金属は鴉の贋作の中に密封されている。故に、直接接触することは皆無であり、鴉の贋作を通して間接的な接触や近接することはほぼノーリスクで可能であった。
彼方の世界に対して非常に敏感であり、与える影響も強力であるが被る影響も多大であるシロ。彼方の世界に対して敏感とは言えず与える影響もほぼ皆無であるが、被る影響もほぼ皆無であるクロ。特性も性分も大きく違う二人に、鱗道は多くの場面で助けられている。この日も、そうであるように。
店のシャッターも閉じきった「鱗道堂」の店内は、灯りはついているものの雑然とした店内配置の関係で薄暗い場所が何ヶ所も出来ている。鱗道は机上の桐箱とクロが見えるように、居間の縁に腰掛けて足を下ろしていた。二階に上がってもいいと言われていたシロであったが、鱗道が縁に腰掛けた時に脇腹に頭を突っ込んで伏せの姿勢を取ることにしたらしい。体調や気分は優れなさそうだが、熱塊は大きく膨れたり動いたりはしていないようである。
『許可なく触れてはならない。不必要に頭部を近付けてはならない。そうでしたね、鱗道』
桐箱を前に、クロは鱗道に言葉を投げかけた。常日頃から一貫して冷静な声は頼もしさに溢れている。非常に硬質な声からは、常にも増して一層力強さを感じさせるものがあった。それだけ鱗道も不安と多くの懸念を抱えているということだろう。
「あと、無理はするな、だ」
クロが彼方の世界から、それが穢れや呪いという強いものであっても影響を被ることが少なく、ほぼノーリスクで接することが出来るのは事実だ。だが、それも絶対ではない。鴉の贋作という鎧を貫通する程の力を相手にすれば、クロにも当然影響は及ぶ。その場合、蛇神の恩恵を受けている鱗道やそもそも強い力を持っているシロに比べて、液体金属に剥き出しの意思があるだけのクロが受ける被害は甚大であるだろう。液体金属そのものは此方の世界でも安定した存在ではなく、力を有しない意思存在は彼方の世界に対して無防備であることは、鱗道もクロも知るところだ。
『御意に御座います』
「お前が危ないと判断したら離れることを優先しろ。蓋を閉めたりなんぞは後に回していい」
それでも、鱗道自ら安易に触れるよりもクロに任せることが最善であるからこそ、鱗道は非常に慎重であろうとした。女が店に持ち込んだ呪物は生半可なものではない。クロによって首飾りであると言うことが分かっているが、呪いの対象や性質、強さや範囲も判明していない以上、石橋を叩きすぎることはないからだ。
『ラジャー』
「影響がどんな形で出るかは分からんからな、違和感があれば直ぐに報告してくれ」
『心得ました』
「最悪、蛇神を降ろして無理矢理食うことも出来る。そうした方が、シロやクロのことを考えるといいんだろうが――」
俯きだしていた鱗道の顔を上げさせたのは、クロが机を嘴で二度突いた音であった。
『鱗道』
鱗道が顔を上げたことを、赤い石が填められた目を通してクロが見ている。赤い石に感情は乗らない。乗るはずがない。しかし、電気スタンドの明かりを受ける赤い目は確かに真っ直ぐ、鱗道を律するように見据えている。
『開けますよ』
七色の黒羽根と金属質な嘴が厳然と輝いた。機構の殆どに鉱石や金属が使われ、意思を有するは液体金属。無機物に宿り、無機物で構成されている故にクロの声は冷静で怜悧かつ硬質、常に平静盤石にして過剰な心配や無駄な不安などを一切寄せ付けず、凜として気高い。
「……ああ。クロ、頼む」
様々な金属が芯を形成する鴉の足が桐箱の蓋に上って爪を立てた。ばさりと翼が十も羽ばたかぬうちに蓋が浮いて箱の傍らに並べられる。女が鞄からケースを取り出した時と同様に――あの時より距離があり、鱗道が構えていられる分いくらかマシな程度で、泥のように湿った気配やヘドロに似た匂いが溢れた。この時点ではそれらを感じるだけで、鱗道の目に見えるものはない。だが、脇腹にぴったりとくっついていたシロの身体が身震いするように大きく震えた。耳は頭の被毛に埋もれ、目が強く閉ざされているのもあって作りたての雪玉のようであるが、シロの身体の中で熱塊が大きくごろりと転がるような感覚が鱗道にも伝わっている。シロを労うように、鱗道は頭や首を身体の近くまで大きく撫で下ろした。
クロの頭が桐箱の中に入り、嘴を使ってケースを開けたようである。蝶番の反動でビロードの貼られたケースの蓋と硬い桐箱の内壁がぶつかる音が微かに聞こえ、箱が僅かに揺れた。数秒も経てば瘴気が桐箱から溢れ出るのが鱗道の目にもはっきりと見えてくる。瘴気は酷く重たいようで、色が白ければその様子はドライアイスとよく似ていた。桐箱から溢れはするが天板に広がるのが精々で、机から床に垂れることはなく霧散していく。
瘴気の広がり方からして、呪物の余程近くにいなければ影響は少ないことが予想できた。広範囲に影響をもたらす呪いの場合、瘴気は周囲を薄暗く感じさせるほど広がるものだ。広がれば瘴気の濃度は薄くなり、その場合、長時間その場に留まらなければ瘴気が招く不運の程度は酷くならない。ケースの中に入っているという首飾りの場合、呪いの影響は酷く近くに限定されるだろうが、瘴気の密度はかなり高くなるだろう。呪いの力としてはかなり強く、招く不運は天井知らずで命を奪う結果になってもおかしくない程に。
『やはり首飾りですね。一般的にペンダントと呼ばれる形をしていますが、非常に変わったデザインをしています』
シロの不調が悪化し、鱗道も顔をしかめる一方でクロはやはり僅かも動じていなかった。鴉の贋作の鎧を貫通するような強力で即効性のある影響も受けていないようだ。桐箱を見下ろす位置にある頭部が少し傾いているのは、首飾りを視野に収めやすい角度を維持しているからだ。クロの視覚は赤い石が填められている目に像を取り込むことで得ているため、距離に応じて見やすい範囲や角度が存在している。少しの光源さえ有れば充分という優れた視覚機構だが、完全な闇や物理的に目を塞いでしまうような目隠しなどが有効である非常に現実的な目でもあった。
「変わったデザイン?」
『チェーンがベビーパールで構成されているにも関わらずヘッドを有している。ヘッドの宝石はガーネットかルビーであるように見えますが、私では判断がつきません。鑑定士に持っていく必要があります。透過が無いようにみえたのは台座の所為だったようですが、そうなるとこのヘッドを作ったのはやはりデザイナーではないのでしょう』
一般的な鳥の目がそうであるように、クロの目も人間や他の動物のように動かない。注視する先を変えるには頭部ごと動かさねばならず、クロの首が伸びたり縮んだり、前傾してみたり後退してみたり、右に左にと曲げられたりと細かく動いている。鱗道はクロの動きを見ながら言葉を最後まで黙って聞き遂げ、途切れた合間に、
「……それの何処が変わってるんだ?」
鱗道の問いにクロの頭が向けられた。鱗道からすれば黒い瘴気の中に立つ赤い目の鴉、という光景はホラー映画のワンシーンのような恐れを一瞬はもたらしたものの、
『真珠のネックレスに宝石のペンダントヘッドが付くことは珍しいのです』
クロの言葉はいつも通り平静で、しかし鱗道の問いを微笑ましいものと受け取っているような感情の響きを含む声で届いた。赤い目の鴉は地獄の使者でもホラー映画のフィクションでもなく、瘴気などものともしない強い味方であると伝えるかのように。
『殆どの場合、真珠は細いチェーンにヘッドとして下げるか、単体を連ねたネックレスとして身に付けるものです。別の宝石の飾りなどは異物と言っても良いでしょう。宝石は光を取り込んだ輝きを楽しむものですから、台座で裏面を塞いでしまっているのも妙なのです。宝飾品デザイナーによって作られたものでもなく、付けられたものでもないと思われます』
呼吸をしないクロの言葉は音量も常に一定であり、言葉の隙間は鱗道に聞き取りやすかろうとクロの裁量で挟まれているものだ。立て板に水という言葉が表すよりも流暢であり、整然と言葉を並べる様子には開いた口が塞がらないが、今回は常にも増して冴えている。
「本当に詳しいな……」
『私があった場所にたくさんあったでしょう? 知識は語られ、本物を目にし、そして学びましたからね』
クロの声には鱗道の呟きを喜ぶような、かつ己の知識を誇るような響きが混ざっている。実際、クロがいたとある廃墟の一部屋には骨董品や絵画、陶芸品などと共に多く宝飾品が並べられていた。廃墟に長らくそれらが放置されていた理由は持ち出すことが出来なかったからだが――それはまた、別の話である。
「普通じゃないもんが着いてるってことは、それが呪いを宿した呪物みたいだな。あとは呪いの性質だが……」
鱗道が蛇神を降ろして呪物を処理するとなった時に大事になる情報は、「何」に呪いが込められて呪物となっているかという点と、「何者」を「どのように」呪うかという呪いの性質である。特に呪いの性質は重要だ。蛇神を降ろして呪物や呪いの力を砕けば終わり、と言えば終わりにも出来る。問題は、その為に鱗道が近付かなければならないということにあった。
瘴気とは単純に不運や不幸と呼ばれる出来事を招く力であるが、呪いは呪い手の願望に従って瘴気の指向性を決める。近付く者全て、一定の条件を満たした者、区別はなく広範囲に――等というように瘴気が影響を及ぼす先を決めているのも呪いの性質である。また、単純に不運な事故や出来事を招く場合の他に、感覚を一時的に喪失させたり病などに陥らせて身体的不調を招く場合や、精神面に作用して攻撃性の増長や精神薄弱果ては希死願望にまで到らせる場合など、相手にどのような影響を与えるか決めているのも呪いである。呪いが「何者」に矛先を向け、「どのように」影響を与えるのか――その性質が分からないまま近付くことは無謀と言えた。蛇神を降ろして近付いても、人間である鱗道に影響が及んだ結果、近付く足や閉ざす蛇神の顎が動かせない、砕く物が見えなくなる、意識を喪失して昏倒する等という事態になれば目も当てられない。
また、呪いは強ければ強いほど、砕く瞬間やその後に気をつけねばならないことがある。呪い自体は意思を有していない。呪い手の願望に従って、瘴気を束ね指向性を与える力が呪いの本質である。そんな呪いを宿した呪物を砕けばどうなるか。
それまで呪いによって溜め込まれた瘴気が指向性を失って破裂するように放たれる。呪いが生み出された元へ帰ろうとするのに引きつけられて共に呪い手へ返ることもあれば、そのまま周囲に散乱して影響を及ぼすこともある。前者は自業自得と断ずることも出来ようが、後者を被るのは主に鱗道やシロ、そして蛇神の領地である。防ぐには呪物を完全に蛇神の口内に閉ざしきってから砕く必要があるが、それには鱗道が接近せねばならない。やはり、呪いの性質や呪物の詳細は知らねばならない事柄であった。
『これだけの距離があれば、貴方に呪いの影響はあまりなさそうですね』
クロの目が瘴気を映さないために、呪物の詳細を知ることが出来た。鱗道の呟き通り、後は呪いの性質さえ知ることが出来れば対策の道筋は見えてくる筈である。が、その呪いの性質を知る手段が問題だ。持ち込んだ人物から事の詳細を聞くことが出来れば一番良いのだが、その手段は既に失われている――と、考え込む鱗道を横目に、クロの声はあまりにあっさりと、事もなげに、
『箱から取り出してみましょう』
言葉を紡ぐ。鱗道からは、けっして言われない言葉を。
『首飾りが出す瘴気が箱の中に留まるが故に貴方に見えないのであれば、瘴気が留まらないように取り出してしまえば貴方の目で実物を確認することが出来ます。また、動かすことで何か反応が生じることも考えられますから、呪詛というものが語り出されるかもしれません』
「クロ、待て!」
許可なく触れてはならず、かつ不用意に頭を近付けてはならないという禁止事項を守りながら事を成すために、中身を掴むか箱を倒すかと目論んだクロの足が桐箱の縁にかかる。それを制する鱗道の声はいつになく厳しいものであった。脇に丸くなるシロの身体が大きく跳ねる。鱗道は立ち上がっていて、クロへと体を向けていた。あと少し、クロが止まるのが遅ければ歩み寄っていたところだ。
「首飾りってことは身に付けた相手が呪いの対象で間違いないだろうが、他は安全と決まったわけじゃない。あの女の様子を見るに、一度標的になれば近くに置いておくだけでも充分危険だろう。俺が断言できるのは、正直に言って近付きたくないくらいとんでもなく質が悪いってことだけだ」
低く放たれる鱗道の声にクロは頭を上げて足を箱から離したものの、呪物を前にした時と同様に動じる様子は見せない。それどころか硬質な声は非常に淡々と、反論を並べ始めた。
『だから見極めねばならないのでしょう。その為に可能であると思われることは試していくべきです、鱗道。貴方が私に協力を求めた理由はなんですか。私は貴方が言う彼方の世界の影響を受けにくいからでしょう。そこに、求める情報を得る可能性を見出したからでしょう。それに、貴方は以前、私にこう言いました。呪いは生きているものにしか効かない、と』
溶けた金属が一切の抵抗を受けずに広がっていくように、クロの言葉は一切の淀みなく流れていく。だが、後半の言葉に鱗道は片眉を上げた。それは確かに、クロが「鱗道堂」にいるようになって最初に呪物を取り扱った時、説明を求められた鱗道が口にした言葉である。クロの言葉に淀みはなく、硬質な声に自嘲や卑下もないが――引け目を思わせる響きが混ざっていた。
「……クロ、お前、まだ」
『鱗道、利用できるものは利用すべきです』
それも、やはり淡々と続いた言葉と声に紛れてしまった。鱗道は言いかけた言葉を飲み込み、
「俺は」
改めて強い語調にて、クロを真っ直ぐに見据えて言い放つ。これは明確な主張であり、線引きであり、
「お前達の力を借りなきゃならんことが多い。が、お前達を利用すると考えたり、扱ったりしたことはない。お前を生きていないと思ったこともない」
鱗道が人間として譲れぬ矜持であり、シロやクロに対する敬意の表明でもあった。クロが自身を生き物と判断しきれず道具や物として扱う思考は悪癖であると鱗道は理解している。クロからすればあらゆる特徴から導かれる結論であり、現在も証明や判断の手段を模索している段階でしかない等と言うのだろうが、鱗道からすればクロらしからぬ結論ありきの話だ。妙に自棄めいた行動に出るクロの悪癖は垣間見える度に修正を繰り返してきた。
『失礼しました。訂正いたします。鱗道、借りることが出来る力は借りるべきです』
どんな時であろうとクロのリアクションは非常に薄いため、今回の鱗道の主張がどの程度クロに響いたのかは分からない。それでも直ぐに言葉上は訂正する辺り、「鱗道堂」に居着いて間もない頃と比べればかなり素直になっている。元々、クロの悪癖は根拠や定義、実験結果などを重んじすぎる性分と意思存在という曖昧な生まれ、そして意思存在を生み出した人物との関係など複雑な要素の相互作用で形成されてしまったものだ。クロは悪癖と曖昧さの打開のために周囲を観察して人間社会や他人との関係性などの他、彼方の世界についても学び続け、新たな判断材料や基準を集めて自身の再定義を行っている最中であることに間違いはない。
『私達の力を借りねばならない自身を省みることが出来るのならば、貴方はシロが傍を離れない理由や心情を察するべきです』
だからこそクロの視野は非常に広く、観察を絶やさず、見過ごさない。シロの名前が挙がり、鱗道はそこでようやくシロに視線を向けた。耳にも尻尾にも元気はなく、目が強く閉じている。呪いの瘴気に呼応する穢れをぐっと抑え込んで堪えているのだ。それでいて、立ち上がった鱗道の服の裾を咥えていた。鱗道が不用意に近付くことがないように、であろう。鱗道の視線を受けたシロが少しばかり紺碧の目を開いて、小さくか細く、クゥンと鳴いた。明確な言葉は特になかったが、
『貴方が私とシロの心配をするように、私とシロも貴方の心配をしていますし、可能な限り貴方の助けになりたいのです』
元気があれば似たようなことを、シロらしく舌っ足らずで幼稚な言い回しで言ったのだろう。クロの言葉に同意するように、ぱたん、とシロの尻尾が一度だけ揺れた。鱗道はシロの頭に手を置いて、耳や被毛を掻き混ぜるように乱暴に掻いてやる。すると、また尻尾が一度、ぱたん、と揺れた。
「……分かった。が、クロはちょっと待っててくれ。シロ、耳を貸して欲しいんだが、出来るか?」
ひゃん、といつもより力のない鳴き声に、『うん』とやはりいつもより力のない言葉。苦手なものを鼻先にずっと置かれているような今の状況は、シロにとってかなり辛いはずだ。クロの言う通り借りられる力は全て借りて早めに対処してしまうのが、何よりシロのためになる。
鱗道に撫でられているシロの頭が手の平に吸い付くように溶けていく。溶けた白い被毛は鱗道の腕を上り、肩や首まで音もなく辿り着いた。鱗道には顔の皮膚や耳が後ろに強く引かれるような感覚が湧いている。この状態で鏡を見たことはないが、他の部位を借りた経験に基づいて判断するならば、白い被毛に覆われた犬の耳に形が変わっているのだろう。
蛇口からシンクに水滴が垂れる音は居間の水場からだ。低い冷蔵庫の駆動音も、少し集中すれば多くの機械音の重なりを聞き分けることが出来る。店の方に耳を向ければ、机上の首飾りが溢れさせる瘴気に対して警戒や疑問を交わす、様々な理由で店内に潜む彼方の世界の住人達の囁きを聞くことが出来た。
可聴域が広がったことに慣れるまでの間にクロへ視線を向ければ、クロの視線が鱗道の手元に注がれていることに気が付いた。つられるように鱗道も己の手元へ視線を下し、目に入った光景にたまらず噴き出す。鱗道に文字通り耳を頭ごと貸したシロであるが、身体がまるまるそこに残っているのだ。伏せたままの姿は頭のないスフィンクスか未完成の雪だるまのようである。
『常にその状態ならばさぞかし静かなのでしょうね……』
クロが感慨深くしみじみと呟くのだから、余計にたまらない。鱗道は肩の震えも堪えきれずに壁に手をついた。そんなクロの声であるが、硬質な響きの中に蜂蜜のように滑らかで少しの粘り気のある液体を掻き混ぜるような水音が混ざっているのを聞き取ることが出来る。鴉の贋作の中を満たして流動する液体金属の音であり、クロという意思存在単体の発声であった。
「いや、これでもシロだぞ。頭がなくても喧しさは絶対に変わらん」
『ああ、もう聞こえているのですか』
先程の呟きは、クロにとって誰かに聞かせるためのものではない完全な独り言であったのだろう。故に、鱗道に向けた言葉からは液体金属の響きがかなり聞き取りにくくなっている。少し離れた、あるいは普段の鱗道程度の聴力に届けるためには液体金属の声だけでは音量が足りないため、金属や鉱石が主原料の鴉の贋作である身体を通して響かせているのだろう。だから硬質な音として届くのだ。それでも、シロの耳を借りている今ならば、精密な人工物にはどこか不似合いでもある、不規則に泡を含むような流動音を聞き取ることが出来た。
「ああ。お前の声もはっきりと聞こえてる。呪物が言うこともこれで聞き逃さん」
鱗道が壁から手を離してクロに体ごと耳を向けると、クロの中から小さな泡が弾けるような音がした。普段は聞き取ることも出来ない音だ。その音が意味することは分からないが、
『そうですか。それでは取り出します。足で掴むより嘴で取り出した方が都合が良いのですが、首飾りに触れる許可および頭を近付ける許可を頂けますか』
禁止された行為をしたことはないという律儀な鴉の言葉に、鱗道は頷いた。
「違和感があったら直ぐに離せ、ってのは変えないぞ」
『かしこまりました』
「――頼んだぞ、クロ」
クロの頭部が桐箱の中に入り、鱗道には見えなくなった。だが、シロから借りた耳は僅かな音も聞き逃さない。硬質な嘴が開くための小さな歯車や金属糸の動作音がし、その嘴が小さな物を擦り上げる音は真珠が連なる部分を咥え上げた音である。柔らかい布の上を幾つもの物が滑る音は首飾りが持ち上げられようとしている音だ。クロの頭部が箱から出てくると、黒い嘴には真珠のチェーンが咥えられていた。他に比べて重たい音が布を擦り、離れ、嘴が高々と上げられた時――ようやく赤い宝石が鱗道の前に姿を現した。
赤い宝石で作られた菱形のペンダントヘッドは、クロよりも知識の乏しい鱗道には種類も価値も特定できない。が、鱗道がすべきは宝石の鑑定でも品定めでもないのだから問題はない。赤い宝石からは滲むように瘴気が溢れていたが、留める箱もない空中では姿を遮ることはなかった。赤い宝石には一筋、真横に真っ直ぐなヒビが入っている。宝石が割れた実際のヒビではないことは一目瞭然であった。ヒビは、口紅など引かないからだ。
鱗道が今まで接した呪物には必ず口があった。呪う相手に張り付き剥がれぬように虫の爪や草木の荊めいたものを持つ呪物もあったが、口のない呪物は見たことがない。自らの意思や願望から始まって力を得た付喪神は、周囲を見るための目や目的をなすための手を必ず作る。が、呪いはそれ自体に意思や願望はない。呪い手が注いだ呪詛という意思を吐き出し、瘴気の指向性を定め放つための口だけがあれば事足りるからだろう。
真っ赤な口紅を引いた口が軋むように開くと、それまでとは比較にならない勢いで瘴気が口から小さな滝のように流れ出した。風が吹き込む、あるいは吹き出すような音が、汚らしい湿りを伴って言葉を――呪詛を、紡ぐ。
『にくい にくい あのひとは わたしの わたしだけのもの あのひと となりはわたし わたしのほか きえてしまえ』
彼方の世界の声の中でも呪詛ほど聞いて不快になる声は少ない。まず、意思を持たずに並べられる言葉は抑揚が通常の会話と全く違う。不気味な抑揚は言葉の意味など一切知らず、注がれた音を繰り返すだけの無機質さが強かった。次に内容の問題がある。呪詛というのだから恨み辛み嫉妬憎悪のどれかが必ず含まれていて、一方的で独善的な感情や言葉も目立つのだ。そしてどのような呪詛も、不幸や不運を願う悪意と害意に満ちている。
『され され あのひとだけ ほかは いなくなれ あのひと ひと ほかはされ され きえろ わたしのそば いないなら きえろ され わたし いがい いらない きえろ』
呪詛が注がれることが一度で終わることはない。何度も何度も繰り返し、そして新たに注がれて内容は重なっていき混ざっていく。呪いに意思がないために、修正や変更はされず、ただただ全てが重なっていくのだ。
呪詛の内容と、呪詛を並べる口紅を引いた口。店に首飾りを持ち込んだ女が呪い手で間違いない。最初の切っ掛けは恋愛関係。男を独占したいという思いから周囲の邪魔者の排斥を願って呪い、男が離れればその男に憎悪を向けて呪った。この段階で呪いは重なり、矛先も内容も複雑に混ざっている。だが、女は更に呪詛を注いだ。不幸や不運では足らず、呪った結果が、
『しね』
これだ。
『しね しね され され きえてしまえ わたし あのひと ほか みんな きえろ しね そば しね いないなら しね きえろ しね し ねしねしねしね』
手段を限定せず単純な結果を求める呪詛は、ただそれを叶えんと瘴気を可能なだけ溜め込み始める。多くの呪詛が重なった強い呪いの矛先は、もはや呪い手の望む特定の誰かという区別も失った。そもそも、呪いは判断をするような意思を持っていないのだから、宝石の『そば』にいる『みんな』が呪いの対象となれば、呪い手であった女であろうと矛先は分別をつけない。
己が望んだ呪いによって、己が呪われ始めていることに気が付いた女はどうにかしようと「奇っ怪なものを引き取ると噂の店」に辿り着き、持ち込んで、店主に押し付け手放した――というのが、事の顛末であろう。女は今頃、他人に呪物を押し付けたことで自分は助かった、とでも思っているのだろうか。女は呪い手だ。矛先が己に向く以前から呪いの側にずっといた。意思のない、区別のない、不運や不幸を招く瘴気とそれを集める呪いの側に。人を呪わば穴二つ。手放すだけで逃れるには遅すぎることを女は知らない。
『しねしねみんなしねしね』
同情はしない。出来るはずがない。呪うだけなら簡単である。ただ他人の不幸を願えばいい。だが、成就させるには相当な意思や代償が必要だ。思いとどまる機会には何度も遭遇するだろう。また、己が誰かを呪ったことを本当に後悔し、助かろう償おうとしたならば、無関係な鱗道に押し付けて逃げたりもしないはずだ。女は己の意思で他人を呪い、己の意思で助かる道を捨てたのだ。
「……シロ、もういい。充分だ。クロもそいつをしまってくれ。二人とも有り難うな」
鱗道が目を閉じて一度首を振った時に、耳を引っ張るような力が離れていった。白い被毛の塊が首から腕へと下りて行き、残されていた胴体に辿り着くと毛玉が膨らむようにシロの頭が形作られた。愛嬌のある滑稽なスフィンクスともお別れである。
「呪物相手は精神的に堪えるな……内容が直接的で力も強いが、首飾りの宝石にしか宿っていないのが幸いだった。流石に呪物があの大きさじゃ、力が強くてもため込める限度がある。即効性はないだろうし、近付いて砕くだけなら大した影響は受けずに済みそうだ。宝石だけ食わせる分には両手に降ろすだけで大きさも充分だろう。クロに支えてもらって――」
シロがブルブルと頭を振り、身体に馴染ませるように全身を伸ばしているのを眺めながら、鱗道は分かった情報を共有する意図を持って口にしていた。が、シロが中途半端な姿勢で動きを止めたために鱗道の口も止まる。シロの紺碧の目はクロに向けられていた。視線を追えば、首飾りを咥えたまま動かぬクロが鱗道の目にも入る。
「……おい、クロ?」
まるで最初からこのようにデザインされた彫像のようだ。普段から微小な動きも少ないクロであるが、鱗道の呼び掛けに返答はなく、まるで時が止まっているかのように制止している。
「クロ。おい、どうした、クロ」
鱗道のサンダルが店の床を擦った音を切っ掛けにしたように、クロの頭が首飾りを咥えたまま急に振り返った。
『なんでしょう、鱗道』
鱗道の聴覚では硬質な音のみしか聞き取ることが出来ない冷静な声が、常と変わらずに言葉を発する。しばらく制止していたことを自覚していないか、それは意図した振る舞いであったかのような語り口に、鱗道は困惑しながらクロを見た。
「なんでしょう、じゃない。そいつをしまってくれ」
『了解しました。蓋も閉じた方がよろしいですね?』
何事もなかったようにクロは返答を寄越し、鱗道の目には見える瘴気で出来た水たまりのような黒い淀みを平然と歩いて、嘴に咥えた首飾りをケースの中に入れる。動作は当然滑らかである。桐箱の中で嘴が動き、蝶番の強い反動でケースが閉ざされたようだ。桐箱が揺れるのを足で器用に押さえている。首飾りが垂れ流した瘴気はこの間にすっかり霧散していて、ケースにしまわれれば桐箱から溢れることもない。
鱗道は目を離さずにクロの動きを見ていた。なんの変哲も、異変も見えない。正確無比ないつものクロである。先程の間が無ければ。そのような間などなかったかのようにしていなければ。
「……なあ、大丈夫か?」
『具体性に欠ける質問ですね、鱗道。何がです?』
クロの細い足が横に並べた桐箱の蓋の端にかかって止まる。それは不自然な動きではなく、鱗道の問いかけに対し顔を向けるためであったようだ。頭部を傾いで鱗道を見返す、赤い目がきらりと電気スタンドの明かりを反射する。
「……いや、大丈夫ならいいんだが……お前、今……なにか――」
異変がないように見える。動きにも会話にも違和感はない。だからこそ言い知れぬ不安が拭えないが、困惑を具体的な言葉にするのは難しかった。言い淀んでいる鱗道の思考に入った横やりは、勝手口から鳴った来客用のチャイムである。滅多に鳴らされない年代物のチャイムは鋭い音を店中に響かせ、
『猪狩だ!』
次いで、ひゃん! と本日一番元気に満ちたシロの鳴き声と言葉に、鱗道の思考は完全に中断された。真っ直ぐとは言い難いが耳を立て、立っているとは言えないが丸められてもいない尻尾を揺らしてシロがバタバタと勝手口に向かい、扉を前足で引っ掻き出す。
「猪狩? なんでアイツが」
シロを追った視線をクロに戻せば、クロはげんなりとするように細く長い尾羽を机に引きずりながら箱の蓋に両足を乗せている最中であった。暗い影が落ちているのは、猪狩の来訪を知ったからだろう。心の底から嫌っているわけではないだろうに、と鱗道は呆れながら、ふと思い返す。「こっくりさん」の十円玉を処理したのがつい先ほどであり、処理し始めた頃の話が出たのもあったからだ。元々、性分として猪狩を苦手としていたクロだが、可能な限り顔を合わせなくなったのはあの時、鱗道の肩から飛び立った時である。あの後、鱗道が思い当たった原因が正解だとしたら、猪狩を避けるようになったのはやはり、子供っぽい理由で――
『鱗道! 開けて! 早く開けて!』
シロの吠え声が鱗道を急かした。鱗道は少し迷ったが、サンダルを脱いで勝手口に向かう。クロが羽ばたいて箱を持ち上げるのを見たからでもあり、勝手口の扉がシロによって壊されんばかりの軋みを上げ始めたからだ。首飾りはケースにしまわれているし、クロに先程の間について問うのは後に回しても構うまい。