Neetel Inside 文芸新都
表紙

グレイスケイルデイズ
-05-

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 扉に前足と体重をかけてひゃんひゃん鳴き喚くシロをどけて勝手口を開くと、確かに猪狩が立っていた。シャッターを閉め切っていた店内では気が付かなかったが、まだ日は沈んでいないものの傾きだしてはいるようである。そんな中で猪狩は何故か片足立ちをしていた。まるで、扉を蹴り込む寸前、というような体勢だ。
「お、なんだ。無事じゃねぇか」
「無事? ……おい、お前、今、何をしようとしてた」
 鱗道のいぶかしげな半目を受けながら足を下ろした猪狩は、かけていたサングラスを青いシャツの襟元に引っ掛けながら笑った。
「いや、店は閉まってたが灯りはついてるし、チャイム鳴らしてもシロの声がするだけで扉がなかなか開かなかったからよ。ぶっ倒れてんじゃねぇかと思って」
 蹴り開けようとしていた、とまでは言い切らずに、猪狩は鱗道の横から懸命に首を伸ばすシロに屈んで右手を伸ばしていた。完全にこのまま有耶無耶にしようという意図が見えている。
「……ちょっと立て込んでるんだ。何か用か」
 特別頑丈でもない勝手口の扉程度ならば、大柄な猪狩の蹴りに十――いや、五も耐えられるかどうか。愉快でもない想像をして溜め息をついた鱗道が、シロの頭を撫で回す猪狩を見れば、左手にはビニール袋を提げている。猪狩が鱗道に差し出したのは、そのビニール袋だった。
「麗子がお前に持ってけってよ。店先に賽銭箱を置き始めたんだって?」
 受け取った袋の中には半透明のタッパーが入っていた。中身は具材が大きめに切られた筑前煮がぎっしりと入っている。鱗道は思わず、短くも小さい感嘆の声を上げた。
 麗子、というのは猪狩の妻である。旧姓は仁木といい、猪狩とは正反対に几帳面で気立てが良い一方、猪狩の手綱を握っていられるほど気が強いしっかり者だ。高校時代からの同窓であり、猪狩との交際もこの頃から続いたものだった。惚れたのは猪狩からだったが告白やその結末は、今でも同窓会や当時の顔見知りが居合わせれば必ずと言っても良いほど話の種になる程だ。その後、紆余曲折を経て交際が始まり、猪狩が警察学校を卒業して警察官として働き出してから結婚、猪狩麗子は今、一男一女の母である。
「ああ、そうだが……なんか、悪いな」
「悪いもなにも、麗子がお前のカミサマについてどれだけ信じてるかは分からねぇが、俺が発端ってことは分かってるらしいからよ」
 猪狩ががっくりと頭を落とすのを見て、鱗道は肩を揺らした。惚れた弱みと言うには真っ直ぐ過ぎるほど、猪狩は麗子に今でも一途だ。さては「鱗道君を巻き込んだんだから」とでも強めに言われたのだろう。猪狩としては事実である以上、弁解の余地もない。
「お前が悪いわけじゃないだろ。今度、礼を言いに顔を出させてくれ」
「気にすんなよ、と言いたいところだが、出来れば駅前のケーキ屋でゼリー買ってきてやってくれ。ちょっと最近忙しくてな、なかなか買って帰れなくてよ。はっきりと言わねぇが、麗子の好物なんだ」
 ただでさえ大雑把で豪快な男であるが、自身の妻子には素直な愛情や感情を出し惜しんだことはなかった。特に学生時代から全く変わらずに素直で屈託なく、しかも気恥ずかしげに笑う猪狩など麗子に関わる話の時にしか見ることは出来ないだろう。
「ああ、わかった。こいつは有り難く受け取るよ」
 麗子は非常に料理上手であった。普段は野菜を好まない鱗道であるが、時折差し入れられる麗子の煮物は早々に平らげることも珍しくない。タッパーの中身を見て思わず声を上げたのもそれが理由だ。賽銭箱を置いて十円玉を選別し、神社に納める――クロは無報酬の慈善活動家と言ったが、麗子の煮物は報酬として充分だった。
 クロ、と鱗道は顔を上げる。猪狩の来訪にすっかり気が緩んだせいか、クロのことを失念していた。首飾りの一件はまだ片付いたわけではない。道筋が見えたのだからこそ、早めに対処しなければならないのだ。
「うん? なんだ、なんかシロの元気がねぇな」
 シロの尾が大きく揺れないことや耳がしっかり立ち上がらないことから気が付いた猪狩がどうした、と優しげな声をシロにかけている。
「ああ。立て込んでるって言っただろう。それで少し――」
 シロの耳が跳ねるように立ち上がったことに気が付いたのは猪狩であり、店内の様子が変わったことに気が付いたのは鱗道であった。背筋を氷柱の鋒が真っ直ぐに撫で下ろすような悪寒、底なし沼からさらったような泥の湿気と匂い。シロが猪狩に撫でられていた頭を引っ込め、店内に向かって低く唸る。店内からガタンと大きめな物音が上がり、猪狩が鱗道を押し退けて勝手口に上がり込み、後ろ手に扉を閉めた。
「クロ、何があった」
 鱗道はシロを跨いで店の奥へ声をかけながら歩き出す。ちゃぶ台の上に差し入れの袋を置いた時にもう一度、ガタンと物音が上がった。途切れ途切れであるが羽音が聞こえている。しかし、クロからの返事はない。二階や店内を含めたこの家で、シロやクロが鱗道のはっきりと発した声を聞き逃したことはなかった。鱗道がはっきりと言葉を聞き取れないことは階が違う場合や対極の隅同士にいれば何度もあるが、同じ階にいる限りは声も聞き取ることが出来ない、ということはなかった。
 それに、
『ああ、やだな。また、すごく嫌な感じがする。ねぇ、どうしてクロは返事をしてくれないの?』
 クロが何かを発言したならば、シロには確実に聞こえるはずだ。精一杯の唸り声とキュンキュンとか弱い鳴き声に、気弱そうな響きの言葉。耳はぴったりと後ろに伏せられ、尾は腹に巻かれている。そんなシロに手を差し伸べていたのは猪狩であった。
「おい、グレイ。人間沙汰か? カミサマ沙汰か?」
 シロの言葉は聞き取れていないが、態度の奇妙さや鳴き声で異常は充分伝わっているのだろう。猪狩は靴を脱ぎながらシロの頭や背中を思いやるように撫でている。が、声は低く剣呑であった。鱗道の枯れた低い声とは違う、腹に留まる重さを持った声だ。
「半々だ。呪いの首飾りを押し付けられて、これからどうするかって話をしていたところでな。シロ、お前は来るなよ」
 鱗道の言葉に、シロが悲しげにクゥンと鳴いて猪狩の足下に身を寄せた。猪狩から慰められるように顔を撫でられながら、
『ねぇ、あのね、クロが持ってた宝石の声はさっきからしないよ。こんなに嫌な感じがするのに、あの声は全然しないの、なのにね』
 鼻から抜けてしまうような、すぴすぴと嘆く声が懸命に、言葉足らずを感情で補ってシロが分かる範囲の状況を訴える。それが、シロが出来る鱗道の手伝いであり、拙くとも情報を伝えることの重要性を分かっているからだ。
『クロは何も言ってくれてないのに、クロの声は聞こえてるの』
 鱗道は歩を大きくし、素早くサンダルを履いて店に下りた。奥にある机の上には何も乗っていない。桐箱も、クロもだ。灯りの影になっている机の下に、まず見付けたのは蓋も開かれ中身も入っていない桐箱であった。側にはビロードの貼られたアクセサリーケースが空の状態で転がっている。首飾りやクロは、床には見当たらない。
「クロ!」
 呼び掛けに返事はないが、梁や棚の上を不格好な羽ばたきが何度も跳ね回っている音が聞こえていた。この羽ばたきがクロのものであるならば――それ以外に、翼の生えた物などこの店にはないのだが――何らかの異常があるのは明らかだった。クロがこんなにも不規則で無様な羽音を立てるのを聞いたことは皆無に等しい。見上げたところで、クロの姿は見付けられなかった。しかし時折、飛行機が引く雲のように、黒い霧が素早い羽ばたきの後を付いて回っているのが目に入る。
「クロ! 何があった! 下りてこい!」
 やはり返事はない。シロの言う『クロの声』は、店に下りた今でも鱗道には聞こえなかった。厳密には声というより音のようなものは頭に届く時がある。しかし、言葉として聞き取ることは出来ず、それがクロの物であるかも分からない。
「シロ! クロの声がなんて言ってるかは分かるか!?」
『さっきの宝石もそうだけど、聞こえるんだけど、僕、なんて言ってるかはわからなくて』
 音として聞き取れてはいるが言語として理解できない、というのはシロにはしょうがないことだ。意思のない呪いが紡ぐ呪詛は抑揚も独特で、通常の会話や言葉とはまるで違う。また、シロはあくまで人間に寄り添ってきた霊犬である。人間に親しみ思われてきた存在で、悪意や害意とは無縁だった。鱗道が質屋を営み始めてから呪物が持ち込まれることも、他の様々な出来事に遭遇もしたが根が善良で人間好きなシロには人間の悪意は理解しがたいものなのだろう。
「その慌てっぷりはアレか? 押し付けられた呪いの首飾りでクロがどうにかしちまったって感じか」
 コンクリート打ちっぱなしの床に足音が増えて、鱗道は振り返る。真っ青なワイシャツの袖を捲り上げながら、猪狩が不敵に笑っていた。が、切れ上がった目は真剣である。羽音自体はクロの身体である鴉の贋作が立てる音だ。当然、猪狩にも聞こえていて、猪狩の目はすぐに天井を見上げていた。
「猪狩、お前は」
「半分は人間沙汰、なんだろ?」
 シロがひゃんひゃんと猪狩に向かって吠えているが、猪狩が耳を貸す様子はない。幼稚で舌っ足らずな言葉で一生懸命に危険を訴えるシロの言葉が聞こえたところで、結果は同じだ。猪狩は肩を竦め、筋肉質な腕を馴らすように振った。
「借りれる手は借りとけ。この状況で帰れ、なんて水臭ぇことは言うんじゃねぇぞ」
 笑い方から子供っぽさが抜けない男だ。それでも、年齢を重ねた男は可能な限りの現状把握と培った経験から最適解を探そうとしている。何事も侮らず、慎重な眼差しで――警察官時代も、そんな目をして現場に立っていたのだろう。
 鱗道が猪狩に帰れ、と言おうとしたのは事実であった。が、猪狩が遮らなくとも、素直に滞りなく言い切れたかは分からない。クロは明らかに異常事態にある。それが宝石に宿った呪いに関係しているならば、穢れが大きく呼応する可能性があるシロの力や手を借りることは出来ない。解決手段としては鱗道が蛇神を降ろした手で呪物である宝石を食ってしまうことになるが、その為には鱗道の両手は空けなければならない。普段ならば、呪物を持つのはクロに任せていたことだ。
 ケースに首飾りは入っていない。そして見つかってもいない。天井を見上げれば、瘴気が羽音の後ろを付いて回っている。と、なればクロと宝石はともに行動していると考えて良いだろう。クロが鱗道の声に何らかの理由で従えず移動し続けるならば、クロと宝石を固定する手がどうしても必要であった。
 人間一人の限界を鱗道は知っている。見限っている、あるいは諦めていると言われようと人間に出来る限界というものを認めなければ、人間の理外にある彼方の世界を跨いで蛇神の代理仕事などやってこられなかっただけだ。手を借りる必要がある時に頭を下げることに抵抗はない。が、借りる相手が猪狩であるとなれば、話は別である。
「頼めるか、猪狩」
「お前からの頼みを断ると思うか、ダチだろうが」
 易く頼んで、易く受ける。猪狩の返事は二の足を踏まず、身体は大きく一歩を踏み込んで鱗道に並んだ。
「が、帰りが遅れて麗子に叱られて飯抜きになったら、一緒に土下座しろよ」
 袖を捲って歯を見せて笑う顔なぞ、元警察官と言われるより元暴力団と言われた方がしっくりくるほどの物騒さがあった。だが、状況を打開しようという決意に満ちた目は眩しいほどである。鱗道は肩を竦め、分かったよと短く応じた。
「クロと首飾りがどうくっついてるか分からんが、首飾りに着いている赤い宝石には触れんようにしてくれ」
 羽音は先程よりもけたたましく、小刻みに梁や棚の上を飛び回っていた。時折、棚に積まれた箱が大きく揺れるのは足を踏み外したか着地を見誤ったからだろう。翼が何かに強く打ち付けられる回数が増え、鱗道は痛々しさに顔を歪める。そんな脇を抜けた猪狩が音を追って店の奥へと進み始めた。
「見えねぇもん相手と違って気を付けようがあるのは気楽でいいな! しかし、呪いの首飾りねぇ――おい、棚、登らせてもらうぜ」
 鱗道の返事を待たず、大きく頑丈な棚の一つが体重をかけられて軋む音が上がった。猪狩ほどの長身ならば、二段も足をかければ梁の上を見ることは出来るだろう。だが、梁の上となれば灯りはない。暗い中でどの範囲が見渡せるかが問題である。
「なぁ、押し付けていった奴ってのは、ワンピースを着た女だったりしねぇか?」
 駄目だ、見えねぇと、苛立つような猪狩の声が続く。羽音は今、飛び回って移動すると言うより、棚の上かどこかの隙間で留まって悶えているようだった。
「……なんで知ってる」
「おいおい、ビンゴか。昼間、駅近くの大通りで街路樹がばっきり折れて大騒ぎだ。人一人、頭が――あれは、助からねぇ。もう生きちゃいねぇよ」
 猪狩は酷くあっさりと世間話でもするように、しかし淡々と無感情に言ってのけた。棚がまた軋みを上げ、少し間を置いて別の角度に設置された台が軋む。今度は、下りてくるのが早かった。
「グレイ、丁度お前が立っている近くだ。何かがバタバタ暴れてるぜ――はっ、仕事が増えたって面してやがる」
 角から姿を現した猪狩は鱗道の近くにある棚の一つを指差していたが、鱗道の苦虫を口に放り込まれたような顔を見て浅く笑った。実際、鱗道の仕事は増えている。元警察官が言うのだから女は助からないだろう。呪いの影響で長くはないと思っていたが、それにしても早すぎる。あれ程の呪詛を宝石に注いだ女が不慮の事故で命を失い、すんなり成仏してくれるとは思えなかった。
「慈善事業だ、治安維持だと割り切って、ちったぁ正義感抱えてヒーロー面しちまった方が楽なんじゃねぇか?」
 猪狩が棚から下ろした指で、トンと首の裏を突いて見せる。鱗道は首の後ろを掻いていた右手を下ろし、全く面白くないという顔で猪狩を一睨みした後、示された棚を伺った。
「お前とも長い付き合いだが、それでも伝染しなかったんだ。分かるだろ」
 猪狩が示した棚の上では確かに何かが暴れていた。比較的軽い紙箱や木箱が揺れ、除けられ、いくつかが落下してきている。様々な材質が床に落ちてぶつかり合った。だが、クロも宝石もまだ、見えない。
「おい、クロ! ちょっと乱暴な手段に出させてもらうぜ。痛ぇ思いをしても恨むなよ!」
 棚に壊れ物が入っていないことを確認した猪狩が両腕を棚にかけた。鱗道は落ちてきた箱の中で一番大きな紙箱を拾い上げて両手で持つ。棚の上からは今までと違う、硬質な音が二度程上がった。恐らく、嘴を棚に打ち付けた音だ。その音を聞いた猪狩が短くも大きく笑ってから、鱗道が持った箱の方へと棚を可能な限り傾ける。
 棚の上に残っていた木箱などが傾いた先から落ちてきた。鱗道は頭に当たらない限りそれらを避けようとはせず、一際大きな影が落ちてくるのを待ち続けた。木の棚を擦りながらそれが滑り落ちてくると、紙箱の上で受け止める。海苔か煎餅かが入っていたような大きく頑丈な紙箱に落ちてきても、それは翼や尾羽を溢れさせながら悶え続けていた。
「クロ!」
 箱の中で悶える鴉に、普段の落ち着き払った正確さや彫刻の如き静かさは全くなかった。翼も足も、頭の動きすら錆び付いた玩具のようにぎこちなく、嘴は開かれているようだが細かく振動し続けている有様だ。これほど近くにクロがいるというのに、鱗道の頭には明瞭な言語が全く聞こえてこない。金属や鉱石がぶつかり、擦れて軋むような、聞き慣れない音ばかりが届くだけである。
「なんだこりゃ。なんか絡まってるんじゃねぇのか」
 棚を元の位置に戻した猪狩が、紙箱のクロに手を伸ばすのを鱗道は止めなかった。しかし、注意深く見続けて目を離すこともない。クロの動きは確かに、海辺で釣り糸に絡まってしまったトンビのようにも見えた。ばさばさと暴れる羽根の隙間から白い反射が覗く。真珠だ。数珠つなぎの小さな真珠が、クロの身体に絡まっている。
「気を付けろ。首飾りが巻き付いてるみたいだ」
「呪いのってやつか。宝石には触れるなって話だったな」
 ――呪いの。クロに手を伸ばしている猪狩の言葉を、鱗道は己の中で反芻した。クロが鱗道の言葉に従えず、梁や棚を不格好に飛び回り落下してきたのは首飾りが絡まって身体の自由が利かなかったから、と言うことで説明は付く。だが、何故、ケースにしまったはずの首飾りがクロに絡まっているのか。何故、クロがその状況について鱗道に何も言わないのか。その二点の説明にはならない。
『ね』
 ぎゅるりと音を立てるように、クロの首が鱗道に不自然に向く。嘴の中で赤い宝石が店内照明を受けて光を返す。唐突にラジオの周波数が噛み合ったように、
『し』
 鱗道の頭の中でクロの声が言葉を結んでいく。しかし、金属や鉱石から連想されるようなクロの声は聞いたことがないほど、
『ねしねしねしねしねしねしねしねしね』
 錆び付き軋んで傷付いて、濁りきった不快な音になっていた。
「待て、猪狩!」
 反射的に口にしたが、それで猪狩が止まるとは思っていない。とっくに猪狩はクロに手を伸ばしていたし、長い付き合いの中で猪狩を言葉だけで制止できたことなど――本人にそのつもりがなければ、一度としてなかったからだ。鱗道は紙箱から手を離し、両手の平を合わせて捻る。やはり止まらなかった猪狩の右手が紙箱と共に落下しかけたクロの首と右翼を鷲掴みにした。
「嘴の中に宝石がある! 嘴には本当に触るなよ!」
 暴れる左翼と両足を猪狩の左手が掴みに行くが、なにせ大きな翼と細くとも鋭い足だ。左翼は何度も猪狩の腕や顔を打ち付け、鋭い足がその腕や手を引っ掻いている。
「嘴は絶対アウトか! じゃぁ、どうしたらいい!」
 多くの引っ掻き傷を刻まれながらも、猪狩は怯まずに翼と胴体を押さえ込んだ。足は不規則に暴れ続け、嘴もまた細かく震動し続けている。鱗道の合わせた手――蛇の頭を象った手は、指先から既に白い鱗を纏い始めていた。開いてはいないが手の平側も、漆塗りのような鮮やかな朱色で染まり始めているだろう。
「まず俺の方に向けてくれ。クロ! 聞こえるか! 聞こえてはいるんだよな!」
 白い鱗は手首から肘までを上り、そこで止まった。意思を持った彼方の世界の住人であれば、宿った意思そのものや要となる物を蛇神の腹に収める必要があるために顔や身体の大半まで降ろさねばならない。だが、今回のように意思なき力や呪いであれば力そのものを砕いてしまえば終わりである。呪いの抑制を失った瘴気が溢れるのを防ぐために宝石を包み込んでしまう分には、我が身を守ることを考えても肘までで充分だ。それに、顔の方まで蛇神を降ろせば鱗道には彼方の世界の声が、クロの声が聞こえなくなってしまう。
『しねしねしねいきているものしねきえろきえろみんなしねしねきえろ』
 聞いたことがないほど濁っていようと、確かにこれはクロの声だ。クロの声、なのだ。声帯を持たない贋作の身体が鱗道に己を伝える手段を、硬質な音の他にクロは殆ど持っていない。クロの陥っている状況を知るためには、この声を聞き逃すわけにはいかなかった。
 猪狩によって抑えられて鱗道の顔の高さに持ち上げられるクロの身体には、やはり数珠つなぎの真珠が絡み付いていた。開いた嘴からは瘴気が細い滝のように溢れている。嘴の奥には嘴が閉じるのを阻害するようにかっちりと嵌まった赤い宝石が見えた。
「クロ、宝石を離せ」
『きえろきえろいきているものにくいしねあのひとにくいにくい』
 クロは嘴に宝石を挟み込んだまま、猪狩の手の中で大きく身体を震わせていた。猪狩の太い腕には血管がはっきりと浮き、歯を噛み締める顔には汗が滲んでいる。抑えるのに相当な力を使っているのだ。
「結構キツいぞ! どうにかしろよ!」
「クロが宝石を咥え込んで離さない。なんとか離させんと、このままじゃクロも一緒に食いかねん」
『しねきえろみんなにくいにくいにくいいきているものしねしねあのひとわたしあれもこれもしねきえろ』
 奥に咥えられ嵌まった宝石からどくどくと流れ出し、嘴に溜まって溢れる瘴気。猪狩に抑え付けられたクロが身震いするのもあって、まるでクロ自身から吐き出されているようであった。頭に響く声は濁って錆び付き涼やかさは皆無で、ざらついた感触まで伝わってくるようである。この状況を把握できているならば――恐らく、鱗道や猪狩の声は聞こえていて、全てではないが把握は出来ているはずだ。クロは一度、猪狩に返答をしている――さぞかし、屈辱であろう。否、そうとも限らない、か。
「そういうことなら早く言え! 宝石を離させりゃいいんだな!」
 猪狩が奥歯を噛んで頭を後ろに引くのが見えた。何をやろうとしているのか、鱗道には想像が付く。だが、クロの嘴は強固だ。宝石はしっかり咥えられ嵌まり込んでいる。少しでも力を緩めさせなければならない。
『しねしねしねしねみんなのろわれろいきているものみなのろってやるみんなしねしねしね』
 絶え間ないクロらしからぬ言動に、鱗道はずっと耳を澄ませていた。赤い目は何処を映しているのか定かではなく、埃にまみれた七色の黒羽根も瘴気を垂れ流す嘴も、クロにとっては不本意であるはずだ。しかし、鱗道の考えが正しければクロは恐らく、この状況を自ら作り出している。
「クロ、お前――呪われているぞ」
 呪詛を紡ぐ声がついに途切れた。首がゴキリ、と音を立てて鱗道に赤い目を向ける。鱗道は一瞬だけ目を伏せた。すまん、と口の中で言葉にする。クロには後にもしっかりと言うことになるだろう。クロの嘴を強固に開き続けていた宝石であるが、強く嘴を閉ざそうとするクロの意思と力に負けてついに嘴の中で倒れた。ガツン、と硬く重たく強い音が鳴り、宝石は嘴の先で挟まれる。
 宝石はまだ嘴に挟まれたままだ。あと少しで落ちる、という最後の一撃はすでに振るわれている。両手を塞がれた人間が、何か衝撃を与えようとして振るう物は大抵の場合、頭しかない。猪狩の頭突きに一切の手加減はなかった。骨と金属がぶつかる音が店中に響き、衝撃で嘴から宝石が零れ落ちる。鱗道はすでに、外側は鱗が覆い内側を朱に染めた蛇神の顎を降ろした手を開いていた。零れ落ちた宝石を蛇神の口内で受け止め、閉ざし、潰す。

       

表紙

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Neetsha