Neetel Inside 文芸新都
表紙

グレイスケイルデイズ
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「遠縁から引き取ることになったもんで」
 少しの間、実家の売買を待って欲しいと連絡をした後、鱗道が連れてきた大きな白い犬を見た不動産屋の友人は「これは仕方がない」と朗らかに笑った。先に大型犬飼育可能の賃貸を探すだけであり、家を売ることは止めないからと言う鱗道の言葉を了承した友人であるが、その条件の賃貸はかなり厳しいぞ、との忠告も承る。実際、友人が取り扱う中にも条件に合う賃貸物件はなく、新しい住居が決まるまでの間は一人と一匹になっても広すぎる鱗道の実家に暮らすことになった。
 シロが普通の犬でないことは犬の飼育経験がない鱗道にとって幸運であった。会話が出来るので躾を教え込む必要がなく、鱗道がシロへ出す要望もシロが納得するまで説明出来る。シロが慣れない環境で感じる不安や戸惑いもすぐに分かるし、解消してやれることも互いにとって幸いだ。また、いくつか必要な道具や玩具なども買ったが、棚にずらりと並ぶペットフードをあれこれ悩まずに済んだのも有り難かった。
 懸念事項であった穢れであるが、あれから「犬の社」で見せたようにシロが制御できないほど強く出て荒ぶることはなかった。穢れが共鳴し刺激されそうな場所に近付いたり、強い興奮状態になった時に蠢き出すことはあるが、その場所から引き離したり、水をかけるなどして頭を冷やしてやることで大事に到らず済んでいる。他にも、こごめから譲り受けたシロの墓石を出してやると山の匂いを嗅げて落ち着くようだ。これは日常的な不安や不満の解消にも大いに役立ってくれた。
 都会と呼ぶには半端な町であるが、山中の社や昔の集落に比べれば人も物も多い。初めて見る物に溢れる現代の暮らしはどうなるものかと思っていたが、シロにとっては新鮮で楽しいものらしく、散歩ですれ違う近隣住人との交流にも積極的に愛嬌を振りまいている。シロと送る生活に問題はなかった。
 ただ、一向に新居候補は見つからない。既にシロを連れてきて数ヶ月が経過しているというのに。

「もういっそ、小さな家でも買っちまったらどうだ? ほら、あそことか」
 人通りも他の車通りもない十字路の赤信号にきっちりと従って停車させた猪狩が窓の外を指差している。角の公衆電話横に立つ古い空き家の二階建て。「売り物件」と書かれた看板に、鱗道は複雑な感情を抱いた。いつか、己の実家にあの看板がぶら下がることになるのを想像すると、流石に少しばかりの惜別の情というものが湧くような気がしたのだ。
「買うにしても二階建てなんかいらん。俺とシロで住むだけだぞ」
 助手席の窓から空き家を見て、鱗道は溜め息をつく。シロがいる以上、賃貸物件では限界があることは分かってきた。とは言え、家を買うにしてもS町周辺は家族暮らしが前提の大きな家ばかりだ。S町から離れたH市内全域で探し始めてはいるが、車を持っていない鱗道には生活の足がネックになってしまってそれもなかなか進まない。
 ふと、窓の外に白い鼻先が見えたので後部座席を振り返った。開け放たれた窓からシロが大きな頭を出している。
「シロ、危ないから頭を出すな」
『止まってても駄目なの?』
「信号はすぐに動くから駄目だ」
『ふぅん』
 鱗道が信号を指差して教えてやり、シロは鱗道の言葉に従って白い頭を車内へ引っ込めた。黒い鼻が窓枠に残っているが、それぐらいならば大丈夫だろうと目を瞑る。信号が青に変わり猪狩がアクセルを踏み込めば、空き家が過ぎ去って見えなくなるのはあっという間だ。
「住むだけじゃなくてよ、一階で店でもやればいいじゃねぇか。まだ仕事も見付けてねぇんだろ?」
 猪狩の言葉は正しかった。新しい住居が決まらなければ、通勤面から就職先を絞ることも探すことも難しく、定職につけていない。僅かな生活費で充分な一人暮らしでは生活費にまだ余裕があるとは言え痛いところを突かれて顔をしかめた。が、猪狩の方に顔を向けたのは、
「店?」
 突拍子も無い提案に驚いたからだ。
 光に弱い右目を庇ってなのだろう、映画で見るような偏光グラスをかけている。最近の多忙故に伸びてきた無精ヒゲと、ゆるいウェーブのある茶色に染められて首に掛かるほど長くなった髪が風に流されているのもあり古い映画のポスターのようだった。
「俺にどんな店をやれっていうんだ。占い屋か祈祷師か?」
 黙っていれば様になる男であるが、鱗道の言葉を聞いて破顔したことで台無しになる。猪狩が車内に響くほどの大きな声で笑い出したものだから鱗道は思わず右耳を塞ぎ、後部座席のシロは耳をピンと立てて座席の間に顔を覗かせた。ひとしきり笑い終えた猪狩が手探りでシロの顎下を撫でながら、悪い悪いと宥めすかす。
「それは流石に胡散臭すぎるぜ。お前がやりゃぁ、カミサマのお陰で的中率は高そうだがよ」
「じゃぁ、何をしろって言うんだ。俺が接客業に向いてないことは知ってるだろ」
「俺も別に、カフェだアパレルだをやれとは言ってねぇし思ってねぇよ――駄目だ、想像しちまった、ちょっと待ってくれ」
 シロの顔から離した手を、猪狩は自身の口元に持っていき体を揺らし続けた。ハンドルを握っているのが猪狩でなければ殴ってやったのにという思いも、
『かふぇだあぱれるだって、そんなに面白いの?』
 ただただ純粋に聞き慣れない言葉を繰り返すシロに毒気も抜かれていく。『ねぇ』という催促に耳を貸さずに、鱗道は窓の外に視線を移した。車は駅前の大通りに差し掛かろうとしている。
「昔、いろんな所にあったじゃねぇか。爺さん婆さんがやってる駄菓子屋とか質屋とかよ。実際に食っていけるかどうかは知らねぇが、ああ言うのはどうだ」
 ひとしきり笑うのに満足したらしい猪狩が上げた候補に対し、鱗道は眉をひそめた。今度は、業種に問題があったのではない。
「それが同い年に勧める仕事か? 髪色で爺さん扱いされるのはうんざりだ」
 低く掠れた鱗道の声が珍しく苛立ちを浮かべていることに慌てたのは猪狩の方だ。
「っと、おいおい。そいつはうがち過ぎだぜ。今更、お前の髪色を俺がからかうかよ」
「……いや……すまん。分かってる」
 猪狩の言葉に、今度は鱗道が少し慌てる側となった。そこまで強く反応したつもりはなかったのだ。生まれつき灰色の髪は揶揄される機会は実際に多い。古い馴染みとなれば言うはずがないことも分かっていたのだが――馴染みの多い土地を離れて都会に揉まれたことで慣れが拭われ、過敏に反応したのだろう。
「俺はいいけどよ……あれだぞ、老け顔って奴は年食ってくと年齢相応になって、そのうち若返るって聞くぜ?」
「……釈明にも励ましにもなってないんだよなぁ」
 猪狩らしいと言えば猪狩らしい言葉である。駅前の信号に捕まった車が止まり、猪狩が首を傾げながら窓の外に視線をやった。鱗道は苦く笑いながら横目で猪狩を伺う。髪色もあって年齢以上に見られることも多い鱗道に対し、猪狩は年齢以下にしか見られない。特別に若作りをしているわけではないから充分三十代には見えるが、少し驚かれることの方が多そうだ。無精ヒゲを剃れば三十手前でも通じるだろう。真っ赤なワイシャツに革ジャケットなどという恰好を、今日も黒のタートルネックに黒のナイロンジャケットと色など皆無で全身を固めている鱗道はしようと思ったこともない。
 猪狩の言葉通り、灰色の髪も違和感のない年齢になれば鱗道も年齢相応に見られるのだろう――それより先に達観に至って気にならなくなるかもしれないが。年齢を重ねていく鱗道自身は思い描くことが容易であるが、同じように年を重ねていくはずの猪狩は想像がしにくかった。鱗道がH市に戻って猪狩と数年ぶりの再会を果たし、あまりに変化のない猪狩を見た時には――母親の葬儀の最中という忙しなさもあって――時間が止まっているのじゃなかろうかなどと思ったほどだ。勿論、そんな筈がないことは家の片付けで出て来た写真を見れば一目瞭然である。性格や見た目に変化があっても、猪狩の場合は変わっていない部分が目立ちすぎるのだ。
「――店、か」
 ぽつりと零した自分の言葉に、鱗道は思考を傾けていった。大した資格を持っているわけでも専門的な技術や知識を持っているわけでもない、接客業に不向きな男の再就職の間口が非常に狭いのは現実だ。ただ、浪費家でもない、健康が取り柄の一人暮らしではあくせく社会の歯車となって働く必要がないのも事実である。個人経営で店をやるとなれば時間の自由が利いて、蛇神の代理仕事もつつがなく取り組めるだろう。
 駄菓子屋。今は見掛けなくなったが、昔はよく見掛けたものだ。詳しい仕事内容は知らないが、鱗道がいくら不向きと言っても駄菓子屋程度の接客ならばこなせそうな気がする。子どもの相手は得意ではないが、そこはシロという強い味方がいるのだ。人間好きなシロならばいくらでも相手をするだろう。思い当たる問題は、それで食っていけるかどうか、というくらいだ。
 信号が変わって車が再び動き始める。駅の周囲をぐるりと回りながら線路を跨ぎ、H市の中心から離れていく。猪狩が鱗道達を連れて行こうとしている目的地は内陸の、山中に作られた別荘地の奥――蛇神の領地の端の端、にあたる場所だ。

       

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