『鱗道、なんか動いてる!』
ヒャンヒャン! と鋭い鳴き声は扉向こうの猪狩にも聞こえたはずだ。反射的に指が中に引かれ、鱗道が扉から右腕を遠ざける急な動きにクロが腕から飛び立って離れた。
粘性のある銀色の液体が扉の亀裂から染み出し垂れて穴を塞ぐ。シロの大きな体が鱗道の脇から扉に強くぶつかったが、扉が少したわむばかりで水銀様の膜が破けたり零れたりとする様子はなかった。亀裂を埋めるような膜はよく見ればゆっくりだが絶えず流動しており、明確に乾いた湿度が鱗道の感覚に触れる。シロは違う、と言ったが鱗道には同じように感じる――呪いの名残の、意思存在独特の感覚だ。
「この水銀みてぇのが、お前が言ってた屋敷にぶちまけられた奴か?」
「ああ、そうか……液体金属自体は此方の世界のもんだからお前にも見えるんだな」
水銀様の膜によって見えなくなった扉向こうで、扉を切りつけたような音が立った。音自体はパフォーマンスで、もし扉に近付いているならば離れるようにという言葉代わりだろう。数秒をおいて水銀様の膜からサバイバルナイフの刃が突き出してきて、膜を掻き混ぜたが液体金属の名に恥じない流動性は切り開くどころか穴が開いたところから新たに埋められていく。
「こうして屋敷中に染み込んで、色々動かしてるってことらしい、が……こうもあからさまに出てくるとは思ってなかった……やたらと邪魔されてるじゃないか、猪狩。心当たりはないのか?」
「それに関しちゃ、今はノーコメントだ」
猪狩の返事は素早かった。この状況になっても言えない、という事は、まだ鱗道に知らせたくないことである、ということだ。鱗道が顔をしかめたのを、猪狩は知る術もない。よって、続いた言葉は特別普段と変わりなかった。
「しかし、オカルトも叶っちまうととんでもねぇな。ここまで来ると笑えもしねぇや。グレイ、お前、コイツはなんとか出来るのか?」
亀裂を快く思わずに塞ぎに来るのであれば、もっと早く来ることも出来たはずだ。にも拘わらず、まるで猪狩とクロが触れ合うのを拒んだかのようなタイミングに明確な意図を感じる。意図を持って行動しているならば、意思を有しているはずだ。液体金属に直接触れようと右手を伸ばすと、腕を離れていたクロが鱗道の左肩に足を着けた。
『お止めください、鱗道。昴は取扱時は必ず手袋を着用していました。人間の肉体に染み込めないとは限りません』
言われてみれば確かに、と鱗道は手を止めた。子どもの頃、温度計から取り出した水銀で遊んでいて酷く叱られた記憶がある。後に科学畑の友人から実際に危険なのは有機水銀であって――と難しい説明をされたこともあった。水銀を主原料に他に色々溶かし込んだとクロが言っていたのも思い出し、鱗道は右手を完全に引っ込めて耳を澄ませることにした。クロの声が聞こえているのだから、屋敷に染みた意思存在の声も聞こえるはずである。が、頭に響くのは蜂蜜やペンキを掻き混ぜることで上がるような、粘性の高い空気を含んだ流動音だけだ。
「……何も聞こえんな」
『意思だけの存在も、液体金属もけっして安定的な存在ではありません。どちらも昴が作り出してしまった、もともとこの世に存在する物ではないからでしょう』
クロの言葉は硬質な響きの音だけで紡がれているように聞こえる。クロが金属や鉱石で作られた贋作の器の中に密封されているからだろうか。クロという意思存在単体の声を聞ければ、シロが水音を聞いたように粘性のある音を聞くことになるのかもしれない。
『ガラス瓶や私のように密封されて外気との接触がなければ、揮発や蒸発、乾燥などによって減少や凝固することはありません。が、屋敷の内部に染み込んでいたとしても、それは密封された状態とは言えないでしょう。単純にこの場に現れている量が少ないという可能性もありますが、意思が――もう、私と同程度の思考力を持てていない可能性もあります』
ぐっと首を前に伸ばすようなクロの仕草と、言葉に散らばる緩急からは口惜しさが強く滲んでいるような気がした。サバイバルナイフが抜かれた水銀様の膜は、一切の言葉もなく流動し続けている。クロの言葉から察するに、一部分だけが長く外気に接触し続けることがないようにしているのだろう。で、あるのに今は――乾燥や揮発、蒸発の危険性よりも亀裂を塞ぐことを優先している、ということになる。
「どうした、流石にお手上げか?」
猪狩からすれば、鱗道の長い沈黙でしかなかったはずだ。先程までのように互いの様子が見えていたわけでもない。それでも、猪狩の声に不安はなかった。どこまでも軽く、面白がるように笑っている。
「難しそうなら無理すんな。俺を見捨てて逃げてくれ。なぁに、俺なら大丈夫だ。なんとかするぜ」
「……逃げるもなにも、俺が外に出られるかは分からん。それに、車のキーを持ってるのはお前だろ」
鱗道の溜め息と呆れた声に、猪狩の笑い声が返ってきた。
「それもそうか! しかし、お前、相変わらず俺とノリがズレてるよな。「お前を見捨てるなんて真似するか! 俺達、友達だろ!」とか、そういう胸が熱くなるような台詞で返してくれよ」
「俺が言うと思うか?」
「いいや、全く」
再び扉が大きくたわんだのは、猪狩が体重をかけたからだろう。扉の下の方から大きな軋みが上がったので、出来ることは全てやったとでも言うように座り込んだのかもしれない。分厚い扉に亀裂を開ける程度には暴れていたのだから、いくら猪狩であろうと疲労もあるはずだ。それを、見せなかっただけで。
「……悪ぃな。また、単純に事は終わらねぇらしいや」
猪狩の声は軽く、恐れを知らず不遜でありながらも、いつもと変わらない正直さで言葉を落とした。だからこそ、言葉に滲む少しばかりの弱気も見て取れる。それを指摘されてはこの男も格好が付かないだろうと思った。この期に及んでまだ隠し事をしている男であるが――
「お前に引っ張り出されて単純に事が済んだ例しがない。いつも通りだ」
目を瞑ってやる友情、という形を取った。そんなことを考える自分らしからぬ思考に苦く笑い、水銀様の膜が細かく振動していることに気が付く。扉に寄りかかった猪狩もまた、自分らしからぬ言葉であったと苦く笑っているのだろう。
「少し気になることがあるんでここを離れるが、シロを置いていく。シロ、何かあったら吠えて猪狩に知らせてやってくれ。猪狩、お前はシロが吠えたら壁や扉から距離を取れよ」
「おい、シロに言い聞かせるのと同じように言うなよ」
「お前がシロより聞き分けが悪いのが問題なんだ。ああ……それと、シロ。俺を呼ぶ時は俺が顔を出すまでずっと吠え続けてくれ。出来るか?」
シロは吠え上げて返事をしようとした口を慌てて閉ざした。そしてすぴすぴと鼻を通すような鳴き声を上げ、いつもと比べれば酷く小声で『わかった』とささやくように言葉を寄越す。屋敷に染みた意思存在に聞かれることを警戒しているような、早速無駄吠えとならぬように気を遣う真剣なシロに鱗道は思わず微笑んで頭を撫でた。シロと違って聞き分けの悪い男の、酷ぇ言われようだと嘆くような声を耳にしながら、である。
「ところで、グレイ。気になるってのは、どこのことだ」
「階段下の部屋だ。何故気になったかは……今の所、ノーコメントにしておく」
鱗道の言葉に、扉と水銀様の膜が細かく震えていた。意趣返しとしては伝わった、と思って良いのだろう。
「いいさ。そうか、宝物庫か……目をくらませるなよ、グレイ」
肩を竦めて見せたが、それでは伝わらないことに遅れて気が付いた。仕方がなく、分かってると告げてから扉を離れる。鱗道が離れた扉にはシロが代わりにと言わんばかりにぴったりと前に座り込み、前足でがりがりと扉を引っ掻いた。吠えることは危険を伝えることであると承知した以上、吠えずに扉の前に座っていると猪狩に伝えるために考えた手段である。手段は功を奏し、猪狩の楽しげな声が「シロか!」と上げられた。
「そういや、お前も俺の言葉は分かってるんだよな……よし、返事が「はい」なら一回、「いいえ」なら二回、扉を引っ掻いて見ろ。分かったか?」
ガリッとシロが一回だけ扉を掻いて見せたので、猪狩が満足そうな笑い声を上げて褒めている。それを背後に聞きながら、鱗道は宣言通り階段下の宝物庫――昴らしき人影が指差した部屋へと歩み出した。
「――やけに、静かだったな、クロ。二階じゃ随分とお喋りだったが」
扉を少し離れてから、鱗道は左肩のクロにそっと話しかけた。物事の説明に助言や訂正をしてもらえると思っていたのだが、期待したほどには口を挟まれなかったのだ。
『イガリアキラと話していたのは貴方です。また、私の声を聞き取ることが出来るものは限られている、と貴方の発言から推測していました。現に、イガリアキラは私の声が聞こえていないようです。その状態での私の発言は二人の会話を邪魔するだけでなく、無駄な行為に当たるでしょう。それでも、必要な発言はしたつもりです』
「……そうかい」
確かにクロは昴に関して訂正を要求し、意思存在に触れようとした鱗道を止め、屋敷に染みた意思存在から何も聞き取れなかったことに対し推論を述べている。だが、猪狩に説明をする時の鱗道に助言や曖昧さの訂正などもせず、他の発言は殆どない。そして今は、それまでの分を語るように流暢な言葉が鱗道の頭に流れてきている。
「ところで、猪狩をフルネームで呼ばなくともいいんじゃ――ああ、そうか。クロにとっては猪狩っていうと昴もそうか」
それは確かに、クロにとってはややこしい話になるのだろう。妙に馴染まない呼び方になっているのは、猪狩と顔を合わせられずにイメージがついていないのも原因にありそうだ。
「なぁ、クロ。お前は随分と博識だが、字は読めるのか?」
イメージ、と思い付いて鱗道はクロに問う。クロの嘴が僅かな音を立てて開いた。
『ええ、可能です。昴がいる間は書かれる文章や読まれる書物から文字を学びました。昴にとっては無駄な戯れだったのでしょうが、お陰で私は書斎に残された時間の多くを取り出すことが出来た本を読むことで過ごしたのです』
一を聞いて十が返される、これが如何にもクロらしいと思えてきたところである。そして書斎の本、と聞いて鱗道は納得したように声を上げた。棚の下から順序よく取り出され、表紙を上向きに積まれていた本。どうみても自然落下ではないと思ってはいたが。
「床に積まれてた本は、クロが読んだ後の本ってことだったのか」
『ええ、取り出すことが出来ても戻すことは非常に困難を極め、あのような惨状で放置せざるを得なかったのです』
「……あれだけきっちりと積んでれば惨状、っていう程でもないと思うが……ああ、あった」
クロが字を読めると聞いてから、ジャケットの胸ポケット漁っていた手が財布を取り出し、中から名刺を一枚引っ張り出した。猪狩から連絡用にと、鱗道がH市に戻ってきてから貰った物である。シンプルな名刺にジャーナリストという肩書きと猪狩の名前だけが並んでいるのがどうにもあの男には不似合いな気がしてならず、殆ど財布から取り出したことがなかった。クロの顔の前に名刺を差し出しながら、鱗道も改めて名刺の文字と対面する。
「こういう字で、晃ってのがアイツの名前だ。これで少しはイメージがつくといいんだが……こうしてみると、字面も似てるんだなぁ。スバルってのは、漢字一文字で書くんだろ?」
クロが乗っている左肩に近い、左耳には時折、歯車が擦れるような、細いワイヤーが引かれるような音が聞こえることがあった。昴が作った贋作、組み込まれた機構、などとクロが自身を説明する時に並べた言葉の意味が分かるような気がする。単純な動物では立つことがない音であり、鴉の中に密封された液体金属がロボットやからくり人形を操るように作られた体を動かしているクロならではの音だ――と、口にしたならば、クロには不正確だと言われそうであるが。
『字面も、と言いますと?』
「ほら、顔も……って、そうか、お前は顔を合わせられてないから知らんだろうが、どことなく似ているんだ。俺は剥製部屋にあった写真と……さっき見掛けた宝物庫前の人影でしか昴の顔を知らんが、健康的にして感情豊かにして若返らせて――」
『それは最早別人なのでは』
鱗道の言葉に、クロが傾いだ首につられて鱗道もまた首を捻った。そう、確かに、そこまで改造してしまえば別人なのだ。普通ならば。だが、と鱗道は名刺をしまいながら呻いた。
「いや、確かにそうだが……なんというか、雰囲気とか、何か共通点があるんだよ。他の親戚からも言われてたみたいだしな……クロがどう受け取るかは分からんが」
『昴はあのような粗野な言葉遣いなどはしませんでした』
やり取りのテンポは変わっていない。しかし、はっきりと言い捨てたクロの言葉には、硬質さを研ぎ澄ました棘と言うべき響きが目立っている。
『昴は非常に静かで無駄な行為をしない理性的な人物です。顔を見てはいませんが、あの人物――晃とは似ても似つかないでしょう』
クロの顔は正面を見たままである。鱗道が歩いて揺れる以外の挙動は一切なく、まるで剥製のふりをしているかのようだ。
「いや……アイツが書斎の扉を開けようとした時や外を歩いてた時に昴かと思ったってお前も言ってたじゃないか……なんでちょっと不機嫌なんだ」
『不機嫌ではありません。私はただ、感想を述べただけです』
その感想が不機嫌なんじゃないか、とまでは鱗道は追及しなかった。確かに鱗道は昴当人と会ったことはない。が、クロが語る昴評には疑問がつきまとっていた。普段は物静かな人物であったかもしれないが、自分が作りだした物を失敗作だと言い捨て、水槽を破壊し実験室をガラスまみれにしたのは他でもない、昴当人であるらしい。また、クロに事あるごとに失敗作だと言っていたのも事実であり――一方で、文字を教わっていたかのようなことをクロは口にしている。クロが語るほど、理性的で完璧な人物ではないはずだ。
だからこそ、クロのコンプレックスが際立っている。尊敬と畏怖、愛情と劣等感、理想と恐怖。実際の人物像と、様々なフィルターを通して思い描く人物像。複雑な感情を整理しきれていないクロのコンプレックスは、クロには申し訳ないが――非常に人間くさくて好ましいと思えるものだった。