グレイスケイルデイズ
-04-
蒸し暑くとも日の出前。水平線もまだ暗いだろう頃合いでは、なんとかTシャツ一枚であれば充分しのげる気温である。水源を探して進む山道に灯りなどはないからと大きめな懐中電灯を片手にぶら下げて、鱗道は先導するシロの後ろをついて歩いた。シロの足を借りて一気に山まで駆けてしまえば早かろう。が、そうなるとクロはシロの速度に負けぬように飛ぶ必要があり、そうすると――
『鱗道。あの、鱗道。ちゃんと〝蛍〟はいますか?』
「ああ。いる。ちゃんとお前の背中に乗ってるよ」
クロの背中に張り付いている〝蛍〟は容易く振り落とされてしまうだろう。
鱗道には店内の明かりを落としてようやく見える程度の〝蛍〟だ。外に出れば簡単に見失ってしまう。聞こえる音も大きなものではないから、一度見失ってしまうと鱗道では二度と〝蛍〟を見付けることは出来ない。シロならば見付けることは出来るが、シロには水源を探す仕事がある。また、シロに乗せようにも白い被毛では〝蛍〟が完全に溶け込んでしまって、これもまた鱗道には見えなくなってしまった。
〝蛍〟を連れて行くことが目的である以上、〝蛍〟を見失うことは許されない。考えた打開策がクロに乗って貰うという案であった。クロの黒羽根の上では夜明け前の外でも〝蛍〟の明滅が確認できる。街灯の下では流石に見えにくくはなるが、離れてしまえば確認可能だ。クロは非常にバランス感覚に優れているため、素早い飛行などを要求しない限り〝蛍〟を振り落とすこともない。現に、山道に入るまでの間もシロの背中に乗ったクロは一度とて〝蛍〟を危ぶませることがなかった。
それは現在、水源のある山に辿り着いて登山口として整備されている道から上り始めても変わらない。シロが地面を嗅ぎ回っていつ道をそれるか分からない以上、シロの背中に乗り続けるわけにも行かず、鱗道の肩も山道である以上安定は約束されていない。クロは自らの翼でゆっくりと飛行するか、地面を小刻みに歩いたり跳ねたりとして進むしかないが、この時点でも〝蛍〟を背中に乗せ続けている。
移動速度が遅いとはいえ、名案であり、殆ど完璧な作戦であった。が、欠点が一つ。
『あの、本当に〝蛍〟は私に乗っているのでしょうか』
「大丈夫だ。むしろ、何となく機嫌が良さそうだぞ」
『何故そんなことが言えるのですか、ああ、待ってください、石を跨ぐのに少し揺れてしまうかもしれません』
クロが〝蛍〟を一切知覚できないことだ。見ること聞くことが出来ないのは分かっている。クロの人工的な鴉の身体には振動関知などで多少の触角があるが、〝蛍〟が捕まる程度ではクロの触角は働かない。つまり、〝蛍〟を乗せるという重要な仕事を任されながら、クロには自分で〝蛍〟の無事を確認する術がないのである。その為に、何度も何度も鱗道やシロに〝蛍〟の存在を確認しなければならなかった。
普段、クロは冷静かつ論理的に動いている。質屋の鑑定には持ちうる知識と電子機器を使いこなしてのサポートをし、蛇神の代理仕事の時となれば飛行能力や冷静な判断力で鱗道を支え、感情的に動くシロを引き留めたりと、頼れる協力者としての振る舞いは殆ど完璧と言えるだろう。そんなクロが随分と不安げに、落ち着きなく何度も確認を取る様など数年に一度、否、この十年間殆ど見たことがなかったので、十年に一度の珍しい状態である。
『せめて箱に入って貰えれば良かったのですが』
「シャッターや引き戸を通り抜けられたからな。どんな拍子で箱から抜け落ちるか分かったもんじゃないぞ」
『ええ、分かっています。分かっていますとも』
クロの愚痴による口数の多さが、クロには悪いが意外な一面として愉快であった。
登山道を進んで間もなく、シロの歩みは人工的な道を外れた。鱗道が足下の安全を確認するために懐中電灯で照らしながら、低木や笹藪を掻き分けて後を追う。鱗道の歩く速さは、自分では分からぬ〝蛍〟を気遣って跳んだり跳ねたり歩いたりと進むクロに合わせていた。シロが多少先行しても、雪明かりのようにシロの姿は山の中に浮かぶ。あまりに距離が離れすぎればシロが自ら足を止めるか、鱗道が声かけをすれば済んだ。
『鱗道』
「どうした。〝蛍〟なら大丈夫そうだぞ。ちゃんとお前の背中にいる」
『ええ、ええ、それもですが、どうにも私の思考が常と違っている気がします。突拍子もなく、全く別のことを考え出す瞬間があるのです。昔のことを思い返したり、気に入ったレコードの再現を試みたり』
シロが道なき道を進む時間は短かった。低木も笹藪も、少し進めば獣道にぶつかったのである。シロは鼻先を地面に、時に宙にと向けながら基本的に獣道に沿って歩いていた。背中を確認させるため、鱗道の前を歩くクロの足取り自体は普段と大きく差はないのだが、
『現実逃避、というものかもしれません。これが、疲労感というものの一端でしょうか』
鱗道に届くクロの声から、いつもの凜と響く心地よい余韻が薄れている。ノイズというには大袈裟であるが普段は涼しげなばかりの高音の中に、掠れのようなものを感じるのだ。
「疲労感ってのを深く考えたことはないが……そうかもしれんな」
『そうですか。でしたら、普段、貴方が疲れたと言っている時はこのような感覚だったのですね』
それでも、クロの声からは新鮮さを喜ぶ感情が聞き取れる。いつ、どのような状況に置いても思考や学習を続けるクロの姿勢に、鱗道は改めて賞賛と尊敬の念を強くした。
「……クロ、お前って奴は……」
『疲労感がこれ程の物とは。貴方はかなりの頻度で疲れたと言う物ですから、半ば口癖かシロ同様に感覚の思い込みでそのように言っているだけなのではと思っていたのですが、これからは考えを改めねばなりません。ああ、ところで鱗道、〝蛍〟はちゃんと乗っていますか?』
「……なんだかなぁ……ああ、〝蛍〟はいる。ちゃんと乗ってるよ」