Neetel Inside 文芸新都
表紙

グレイスケイルデイズ
-05-

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 獣道を進んで数十分。空の色は未だに深い黒であるが、腕時計の時刻を確認すると午前三時を回ろうというところであった。夏のこの頃、日の出は四時を過ぎたあたりのはずだ。時間だけで見ればまだ先、と言えようが、
「……シロ。水源はまだ遠そうか?」
 ここからどれほど進むのか、は深刻な問題であった。鱗道達が進んでいるのは登山道ではない。シロは獣道を選んでいるようだが、凹凸や滑る苔が多いのが実際だ。加え、鱗道は四十を過ぎた男である。残念なことに運動不足を解消しようという気概だけはあって、とある事情様々な困難により実現には到っていない。しかも夏、睡眠不足、そろそろ膝が笑い出しそうだった。
「シロ?」
 鱗道の問いにシロは答えなかった。獣道を少し進んだ先で口を閉ざし鼻先に皺を寄せ首を伸ばし耳を立て、紺碧の眼は一点を見据えたまま全身を動かさない。風もなく揺れる白い被毛だけがざわめいている。
「何がいるんだ?」
『〝蛍〟を追っかけた奴だと思う』
 ぐるる、とシロの喉が唸った。その様子で思い当たるのは一つしない。シロの中にある、溶けた鉛のような熱源に変化は見られなかったが、シロの視線の先には全く同じ物――穢れや瘴気があるのだ。
「……お前、大丈夫なのか?」
 シロが苦々しげに目を細めた。やはり、体は一歩も動かさないまま――
『今は、まだ、大丈夫。そんなに凄い奴じゃない。でも、今よりも近付くと、ちょっとお腹がぐるぐるすると思う』
 暗い暗い、山の奥を見据えている。
『どうしたのです? まさか、邪魔者は荒神と呼ばれる存在なのですか?』
 鱗道の前で足を止めていたクロの問いかけに、鱗道は首を振った。
「そんな奴が入ってきてたなら、蛇神が俺に言ってくるはずだ。それに、シロがここまで気が付かんってこともないだろう。そんな大層な奴じゃない。だが、穢れや瘴気を持ってる奴で間違いない」
 と、なれば邪魔者を避ければよい、ということも出来なくなった。今は蛇神が気にする程ではないか、気が付けない程弱い存在だとしても、ずっとそのままで居続けて、いつか勝手に消えてくれるとは限らない。蛇神の領地を整地する、代理仕事をせねばならない鱗道にとって、穢れや瘴気を有した〝蛍〟の邪魔者は排除すべき存在になった。
 鱗道はシロの視線の先を追う。鱗道の目には何も映らない。ただただ深い黒が広がっている――と、思っていたが、目を見開いた。まだ遠いが、暗い闇の中にホタルに似たか弱い明滅が十以上は狭い範囲に集まっているのが見えたのだ。きっと、クロの背中に乗っている〝蛍〟と同じ物だろう。一つ一つが小さくとも、十以上も集まればちょっとした提灯灯りのようにも見えた。〝蛍〟の提灯はゆっくりと動いているのだが、その灯りは時に不自然に陰る。灯りを遮るような大きい物など山には木くらいしかないが、動く提灯を木が追うことなど有り得ない。
「シロ……水源は遠いのか?」
『遠くない。けど、アレの向こう側になっちゃう』
 そうか、と鱗道の返事は短かった。どうしたものか、と考えながら汗が滲む体を掻き毟る。引き返すという選択肢はない。考えるべきは、目的を達成するためにどうしなければならないか、のみである。
「シロはアイツに近付かんように山を回り込んで逆側から水源に行ってくれ。アイツをどうにかした後に進む時、お前を目印にしたい。お前の本気なら俺達がここから最短距離を進むよりも早く着けるだろ?」
 鱗道はシロに近寄りながら言った。真っ直ぐ、邪魔者がいる先を見据えて動かないシロの頭を乱暴に撫で回す。
「俺は……偉いヘビガミ様の手伝いをしてる凄いヤツなんだろ。なら、任せとけ。駄目だったら、ちゃんとお前を呼ぶから」
 鱗道の言葉を受けてシロが顔を上げる。紺碧の目には光が一条。最早、苦々しさはなく、常の純粋な瞳があるばかり。
「行け」
 鱗道がシロの背中を叩いた次の瞬間、そこにはもう何もいなかった。この真夏に全ての熱気を消し飛ばす、冬を思わせる冷たい突風が山を駆け上がっていく。
 短い間は引いた汗だが、すぐに滲み出した。
「クロ、お前は距離を取って俺の後を追いかけてくれ」
 懐中電灯で自身の足下を照らしながら、鱗道はクロに呼び掛けた。光の下にゆっくりと歩くクロの姿を見付ければ、そのまま懐中電灯を地面に置く。
「お前のペースで構わん。危ぶむならここにいてくれていい。生憎だが……俺は、お前の声を聞いてやれなくなる」
『蛇神を降ろすのですね?』
 クロの足はゆっくりと大きめな懐中電灯の持ち手を掴んだ。鱗道は頷きながら、
「……〝蛍〟には少し、残酷に聞こえるかもしれんが……邪魔者が集めてくれてるんで、今のままでも方向くらいは分かる。が……どうこうするには、蛇神を降ろさなきゃならん」
 両手の平を胸の前で合わせて捻った。蛇の頭を象るような手を、前に突き出す。目は閉じなかった。皮膚から音もなく生えるように湧く白い鱗が、爪先から鱗道の腕を覆いながら登ってくる。
「〝蛍〟は任せた。お前なら大丈夫だろ?」
 クロからの返事は一拍置いてからであった。その一拍の間に、鱗は肘を過ぎて肩を覆いつくそうとしている。
『最後に確認をさせてください。〝蛍〟は、ちゃんと私の背にいるのですね?』
 クロの言葉に鱗道は視線を下ろした。すでに鱗は首を上り、頬にかかっている。ずっと繰り返されてきた確認に、鱗道が思わず笑って歪めた薄い唇も、すでに鱗に覆われているのだろう。
「ああ。大丈夫だ。〝蛍〟はいるよ」
『有り難うございます。鱗道、それでは』
 クロの言葉は、それで終いであったはずだ。彼方の世界を見ることが不得手なクロにも、鱗道が蛇神を降ろすと鱗道の肌が白んでいくのが見えている。その鱗が鱗道の目の近くまで上ってくると、クロの声が――それに限らず、彼方の世界の声や音の一切が聞こえなくなることも知っていた。よって、語っているという主張のために開いていた嘴を、音を立てて閉ざすことで言葉の終わりを鱗道に知らせたのだ。
 鱗道が一度、瞬きをした間に、夜の山はまるで昼間のように明るくなっていた。当然、日が昇ったのではない。鱗道の目にまで蛇神の力が降ろされて金色に変わり、周囲を見通す眼力を得たのだ。独特の視界に色味は少ない。全体的に白と濃淡のみの世界だ。そして、やはり彼方の世界の音声は一切が聞こえない。鱗道が足を進めることで踏みつけた石の音や、風が揺さぶる枝葉の音がなんの特徴もなく鼓膜を揺さぶるばかり。学生時代から続く蛇神の代理仕事を負う中で、ただの人間である時の静寂を思い出せる唯一の時だ。懐かしんだり、惜しんだりすることはここ十年程は滅多になかった。ともに歩み、協力してくれるシロとクロの声が聞こえない方が、今では落ち着かないのである。
 山の中で〝蛍〟を集める提灯の姿も、鱗道の金色の目ははっきりと捉えていた。白く開けた視界の中でも黒々とし、僅かだが錆色めいた赤黒さを有するのは笹らしい植物で編まれた球体状の虫篭である。虫篭には八本の、これまた細い足が生えていた。虫篭を構成する笹らしいものには細長い葉も残っていて、虫篭が蠢く度に異形に反して涼しげな音が鳴る。
 虫篭は鱗道が近付いてくるのを分かっていたようである。何処が前で後ろか、ということは一切分からなかったが、笹の球体から飛び出した一本の触角からは夏の熱気とは全く異なる、溶けた金属のような高温を感じ取れた。触角の先端は錆色であり、渦巻く熱気から穢れと瘴気の塊であることが窺える。
 付喪神や幽霊のように明確な元が分からない形状からして、これも妖精や精霊の一種なのだろう。偶然か必然か、集まった先が穢れの渦巻く場所であったか、集まった力が瘴気ばかりであったか――それが〝蛍〟との違いになった。
 虫篭の大きさは一メートルを優に超えている。生えている足を伸ばせば、鱗道に比肩するだろう。だが、虫篭は長い足を折りたたんで低い体勢を維持していた。声も音も聞こえない鱗道には、虫篭が何を考えているかは分からない。動物のように表情もないため推測も出来ない。だが、触角の先端からは、明らかな敵意を向けられていた。それもそうだろう。穢れや瘴気にとって、清め祓われ消滅させる蛇神は捕食者のようなものである。
「通じるかは分からんが……一応、言わせて貰う。普段なら穏便に事を済ませたいんだが……お前のような穢れや瘴気は放っておけん」
 虫篭の球体が、大きく歪んだように見えた。八本の足の内、鱗道に近い二本を大きく振り上げた姿勢は威嚇のようである。
「悪く思わんでくれ」
 白い鱗に覆われた手の内側は艶やかな朱漆であった。蛇の口内を思わせる牙やヒダはない四本指の上顎と親指一つの下顎というアンバランスな蛇の顎。振り上げられた二本の足のうち、一本を左手の蛇で掴むと、乾燥した枝を折った時のような感触が手の平から肩まで伝わってくる。強く握力を込めたわけではない。強いのは、鱗道が降ろした蛇神の力である。
 感触はあれど音はなく、虫篭が何か声や音を発したとしても鱗道には届かない。踏み込んだ右手の蛇が、虫篭の編み目に食い込んだ。そちらも飴細工のように砕いていく。いつぞや――液体金属に宿った意思だけの存在を食らった時のように、手の平の蛇が噛み砕いた場所から虫篭は瓦解した。奇妙な形の虫篭は、足一本を失い顔か腹かの篭を砕かれて大きく体勢を崩した。割れて砕ける篭の中から散り散りに飛び出す十数個の〝蛍〟も、至近で蛇神の眼を通して見れば電球を目の前にぶら下げたような眩しさである。
 倒れた虫篭の中に足を踏み入れ、鱗道は先程見えた触角を探した。付喪神の目のように、あの触角の先にあった錆色の熱塊がこの虫篭の要の筈だ。それさえ食らってしまえば、一々細かくこの虫篭を砕き散らかす必要はない。
 砕かれ開かれた篭の奥に、蠢く球体を見付けた。小さくとも隠しようもない、異常な熱塊。穢れや瘴気の塊。急ぎ細く黒い笹篭を編んで中に閉じこもろうとしても、蛇神の力に叶わないことは分かり切っているだろうに。鱗道は真っ直ぐに笹篭と熱塊に両手を伸ばした。右手を上顎、左手を下顎にした蛇の頭部を象った両手を、地面に転がった虫篭の中にしゃがみ込むようにして。
 音は一切ない。現実の、常識的な――山で言えば風や枝葉の音以外は、何もなかった。そこに、子犬の無理な遠吠えのような鳴き声がなければ鱗道は両手を急がせなかっただろう。両手を合わせた蛇の顎は錆色の熱塊を覆う笹篭を容易に砕いて、逃げ場もなく錆色の熱塊を包み込む。手の平で熱塊を押し潰せば、何処というでもなく、飲み下す感触が鱗道の中にある。落ちる先は、鱗道にある巣穴の奥、誠の蛇神の棲まう領地の根底――そして、穢れを清め祓いて消滅させる蛇神の腹の中だ。
 熱塊に触れる直前にあった皮膚を刺すような感触は、熱塊を飲み下した直後に失せた。素早く背後を振り返れば、虫篭にしゃがみ込んだ鱗道の背に七本の足が鋭い先端を向けて閉じようとしている。要であった熱塊を失って塵となって消えていく虫篭同様、七本の足も消えていくが――もし、犬の遠吠えが聞こえなければ、聞こえた時に急がなければ、先端は皮膚だけでなく肉まで届いただろうと考えるとぞっとした。
 顔や肩から蛇神の鱗が剥がれ落ち、鱗道の目に映る山が一般的な暗さになる。が、蛇神を降ろす前よりも山の輪郭が見て取れた。空の暗さに底が見えている。日の出まで、時間が残されていないのではなかろうか。
 鱗道は顔を上げ、遠吠えの方向を見た。紺碧の目までは確認できないが、薄ぼんやりとした白い獣の姿が見えている。四肢に力を込めて真っ直ぐに立つ獣の姿は当然シロであり――山中に放置された社に佇むかつての姿を想起させる荘厳さすらあった。虫篭から解放された十数個の〝蛍〟と、シロのいる水源周囲にいたのだろう数十個の〝蛍〟が小さな渦を作るようにシロを取り巻いている。
 鱗道はその場に腰を下ろした。首や背中の数カ所に残っている浅くも鋭い痛みもあるが、散々山を登り続けてきた足が限界だった。その横を、また一つの〝蛍〟が抜けていく。鱗道の眼前を踊るように渦を描く〝蛍〟の中心に、蛇神の目を通してでは眩しすぎた小さな金平糖のような石を見た気がした。
 遅れた一つの〝蛍〟が合流した渦はそのまま天へと伸びていく。シロを取り巻く程の大きさの円が高度を上げる度に細くなり、やがて淡い一筋の光となった。シロがまた、下手な遠吠えをする。別れの言葉を告げているようであった。
「……あれは、確かに空に上がるとしか、言い様がないな」
 はぁ、と鱗道が息を吐く頃には〝蛍〟の渦は見えなくなっていた。濃密な紺色が追いやられ、僅かな橙を緩衝材に薄く冷たい水色が広がっていく。日が昇り、朝が来たのだ。
 草や枝を分けて歩む、鳥類にしては重すぎる音が聞こえていたからこそ、鱗道は先の言葉を言った。が、飛ぶことなく歩んできた鴉は引きずってきた懐中電灯を鱗道の手元で手放すと、
『あの様な時には、発声手段を有するものを羨ましく思います』
 と、硬質な声で語り、鱗道の視界に回り込んだ。
『貴方に危険が迫っているのは私にも見えていました。しかし、私では伝える術がない。それが酷く口惜しい』
「……そんなに危なかったか?」
『私が生き物かどうかはまだ結論が出ていないことはさておき、生きた心地がしないというのはあのような瞬間を言うのでしょう』
 多弁な鴉は、鱗道に頑なに背を向けたまま嘴を開いている。
「出来る出来ないは、どうしたってあるもんだ。その中で、やれることをやればいい。お前は今日、一番大事な仕事を果たしたんだ」
 ずっと天を見上げていたシロが、頭を下ろして走り出している。近付き迫る白い獣を見ながら、鱗道はゆっくりとクロの後頭部に手を伸ばした。既に白い鱗は一枚たりとも残っていない。筋張って乾燥し、ささくれた男の指先が、
「もう、お前の背中に〝蛍〟はいないぞ」
 冷たいガラス繊維の羽毛をゆっくりと撫で下ろした。

       

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Neetsha