グレイスケイルデイズ
-05-
『我がオモテ、何ぞや』
鱗道は頭に届いた声と、猪狩の足下に並んだカルタの文面を比べながら、
「随分と短い質問なんだな」
と、率直な感想を零した。鱗道の感想は猪狩の前に並んだカルタが答えるべき質問の内容を表していることを示唆し、問いだと気が付いた猪狩は体を折ってカルタを睨み下ろす。
「コレがそうだって?」
敵意のある睨みではない。読み取ろう、とした結果、目つきが悪くなっているだけだ。ただ、睨まれているカルタに分かるはずもない。少し震えているのを、鱗道は気の毒に思うしか出来ないが。
「質問ってことは……濁点がねぇが……我がおもて何ぞやって、とこか」
「あってる。少し古い口調をしてるんだ。そうやって聞こえないお前に、カルタが並んで伝えてくれるつもりらしい」
『何もないよりは良かろうて』
蔵の主の言葉を再びカルタが捲れ表していく。確かに、全てのやり取りで鱗道を介していては、双方の手間も時間も無駄に食うだろうし、鱗道の伝え方次第では齟齬が生じる可能性もある。蔵の主の言葉を表す手段がもう一つがあるのとないのとでは、大きな差だ。
「曖昧だとか、分からん時は聞いてくれ。俺が補う」
と、言う申し出は鱗道から自然と出たものだ。鱗道の言葉に、ふぅんと短く息を吐いただけの猪狩はカルタ脇の床を爪で叩き、
「折角ここまでしてくれてんだ。もう一手間かけて、濁点や捨て仮名なんかには、後ろに余ってる札の裏面でも重ねてくれ。文の終いは札を横に置いてくれりゃァ、それで結構事足りるだろ」
『ほぅ。それは妙案だ。カルタよ、分かるね? やっておやり――我がオモテ、何ぞや』
蔵の主に言われるまま、猪狩の意思を汲んでカルタが再び文章を並べる。使われた札は十二枚になり、装飾のある文字と文章終わりは一目瞭然となった。実際は濁音の他に半濁音、拗音や促音などの捨て仮名、同じ音が使われ出す長文となれば表す方も読む方も速度は大して望めないだろうが、ただ絵札が並ぶよりは分かりやすい。猪狩は満足そうに頷いた後、折っていた体を起こし、
「これで足りねぇ分は、お言葉通りコイツに甘えるとするぜ」
と、鱗道の左肩に手を置いた。力加減が大雑把な男の動作は置くというより叩くに近く、鱗道の左肩は大きく下がる。が、猪狩は気にする様子もなく、
「しかしよぅ、確かにコイツの言う通り、短すぎる質問だぜ。これだけで何を答えろってんだ」
左手で、猪狩が乱れた前髪を掻き上げて箱を見る。視線は相変わらず鋭く、強い警戒心を隠していない。蔵の主は細く笑うと、
『やれ……頭が回る上に、妾の声や姿の一切が見聞出来ぬ割に適応力の高き人間だこと。もう少し動揺してくれた方が可愛げがあるというに』
と、憂鬱さに嫌味と僅かな愉快さを混ぜた声で小さな独り言を紡ぐ。カルタが捲れる様子はない。あまりに小さな声までは、カルタも表さないようだ。続いた声は華奢ながらも、独り言よりは張られた声であった。
『これだけで解を導け等と言う非道は通さぬ。そちらからの質問に、妾は是か非か答えをしよう。たとえ妾に不利になる質問であっても嘘は言わぬ。無論、例外はあるが』
声をカルタは捲っていった。蔵の主の声はカルタに合わせたものであり、会話の速度はやはり遅い。だが、猪狩と違って頭の回転が遅い自負がある鱗道にはむしろ有り難い展開だ。蔵の主の言葉を咀嚼する余裕が生まれるのだから。
「……例外ってのが気になるな」
鱗道の肩に手を置いたまま、今度は猪狩が酷く小さく呟いた。傍らの鱗道にすら聞き取りにくいほどの声量である。
『例外は所詮、例外よ。深く気にする必要はない。答えられぬ時には答えられぬと返す。これは解か? アレは解か? 等と言う質問に一々答えるわけにはいかぬであろ?』
だが、蔵の主は猪狩の声を聞き取り、返答をカルタが並べる。猪狩はカルタが並び出すと、動きが止まるまで黙って見下ろしていた。最後まで終われば、口元をつり上げるように笑ってみせる。
「耳が随分と良いんだな。カミサマってのはそういうもんかよ。内緒話は出来ねぇらしいや」
猪狩にとって大事なことは例外の種類ではなく、僅かな声も聞き取られることであったようだ。肩を竦めて笑う男に、蔵の主もまた愉快そうに細く笑って見せた。その笑みは届かぬものだが、
『内緒話をする必要があるのかえ? 相談は存分にして構わぬよ。妾は横槍を挟まぬ。余程、愉快な話であれば別であるが』
カルタが捲れる文字に、蔵の主の笑みは読み取ることが出来そうである。ふと、カルタがまだ文字を並べている間に『代理殿』と、蔵の主の声が鱗道に届いた。鱗道がカルタから顔を上げ箱の方を見れば、
『流石、御柱様の代理のお連れよな。妾は構いませぬが、これをただの人間と呼ぶには語弊がありまするぞ』
華奢な声には嫌味と棘が大いに振りかけられていた。蔵の主は、また感情の振り子を大きく揺らしているようだ。基本的には低い位置で落ち着いているが、不規則に揺り動く声は聞いている方が不安になる。ましてや蔵の主は先程実行して見せたように、一瞬もあれば自らの力である薄布を自在に出来るのだろう。衝動的に動かれてはたまらない。
鱗道は蔵の主の言葉に同意も反論もせず、
「答えを言えるのは、やはり一回限りなのか?」
と、聞くに留めた。鱗道にとっては単なる確認でしかなかったが、蔵の主から返される声は、会話の応酬でしかない今までとは異なっている。
『是、である。脳が二つあろうと、二人いれば一対だ。解の機会は一度きり。一つの言葉、あるいは一つの物で解を提示して貰う。あまりに広義や曖昧な解は誤答とする』
酷く、ざらついた声であった。ヤスリや岩石の表面を撫でるかのような声で、大きな感情の揺れもない。蔵の主が問い掛けをしたことで、鱗道の質問は決まりに則った質問と認識され、確定した答えとして言われているのだろう。つまり、問答は既に始まっているのである。
「解答権が一回限りってのは厳しいが、やることは「ウミガメのスープ」か。面倒くせぇな」
鱗道の問いを耳で聞き、箱の返答を目で読んだ猪狩がようやく鱗道の肩から手を離して億劫そうに腰に手を当てる。曇った表情のまま、首を左右に動かす様は何らかの準備運動のように見えた。ようやく軽くなった左肩をさすりながら鱗道が、
「ウミガメのスープ?」
と、問えば、問われることは分かっていたと言わんばかりに、
「出題者に対して、回答者が色々と質問することで答えを探す、昨今流行りのゲームだよ。単純な犯人当てや矛盾探しから、ストーリー仕立ての長ったらしい出来事当てまで、色々と答えのパターンはあるが……大雑把に推理ゲームの一種と思ってくれ」
と、素早く返答がなされた。流行りに疎い鱗道が知らないことなど承知の上、という風である。推理ゲーム、とオウムのように繰り返した鱗道は、猪狩の顔を改めて見返した。猪狩が表情を曇らせた理由が分からないのである。
「それじゃぁ、お前の得意分野か」
何せ、猪狩は元警官だ。推理と言えば――十年以上の間があるとはいえ、前の仕事内容ではないか、と思ったのだ。鱗道の言葉を受けて、猪狩はわざとらしく大きな溜め息を吐いた。どうやら、この反応も予想されていたらしい。
「あのなァ、警官の仕事ってのは推理よりも捜査なんだぜ? 情報や証拠の収集と足固めだ。エンタメの探偵と一緒くたにすんなよ。それに、ゲームの経験はあるが、突拍子も現実味もねぇ答えもある。その点――アレは、明らかに俺の常識範疇じゃねぇだろ」
呆れの溜め息から続いた奥歯を噛み締める音に、鱗道は返す言葉が見つからない。蔵の主に対して猪狩を「ただの人間」だと説明した己の言葉を自分でも改めて胸に納める。いくら鱗道より頭が回ろうとアンテナが広かろうと適応力が高かろうと、猪狩にはけっして触れられない領域があるのだ。蔵の主の問いに対する正解が〝彼方の世界〟のみの存在や知識を要求する物ならば、猪狩だけでは辿り着くことが不可能である。
『ならば、一般的な知識のみで答えられるかどうかを質問し、確認すべきでしょう』
凜と冴える硬質な声に、鱗道はうな垂れかけていた頭を越した。声の方を見ても相変わらず真っ白なミノムシが揺れもせずにあるだけだが間違いなくクロの声である。カラスを忌避する蔵の主を刺激しないように黙り続けていたのだろうが、状況を考慮して発言すべきだと判断したのだろう。
「っと、おいおい、なんだ? どうしたんだ?」
猪狩が声を上げたのは、目の前でカルタ達が戸惑うように動き始めたからだ。鱗道は大丈夫だ、と猪狩に先に告げてから、
「クロが喋ったんだ。一般的な知識で答えられるか確認すべきだ、ってな。蔵の主とは声が違うが、お前に聞こえない声には間違いない。多分、それで迷ってるんだ」
言うと、鱗道の言葉に頷くようにカルタがパタパタと音を立てる。クロの声はいつも鱗道に落ち着きを取り戻させてくれるな、と姿の見えないクロを見つめた。クロからは鱗道の顔が見えているのだろうか。だとしたら、思わず口ならぬ嘴を挟ませるような顔をしていたのだろうか、と思って頬を掻く。
「ああ、成る程な。なんだよ、結構気の利く、可愛い奴らじゃねぇか」
突然の動きに驚いていた猪狩であるが、その表情が一気に緩んで破顔する。猪狩にとってはカルタも、クロを拘束し奇妙な決まりに引きずり込んだ蔵の主の一派として多少の警戒心を持っていたのだろう。が、今の戸惑いでカルタがただの盲目な手先ではないと知れたのだ。今まで触れようとはしなかったカルタの、適当な一枚に手を伸ばすと撫でる代わりだというように指で弾く。
『鴉の参加を許可した覚えはないね』
猪狩に弾かれたカルタは、そのまま叩かれて動かない。思い思いに様子を窺っていた箪笥や行李の中身達も些細な動きすら止めて、蔵の中が静まりかえる。鱗道もゾッと背筋が粟立つような冷たさを感じていた。振り子が、今までとは違う方向に揺れたのだ。華奢な声の氷点下に放置した金属の如き冷たさは、拒絶、拒否、敵意の感覚を強く纏っている。
『奇妙な鴉。お前は人間ではなかろう。お前の参加は認めない。代理殿の遣いとはいえ黙っていられぬならば、持ちうる手段を用いて黙っていられるようにしてやろうかえ』
カルタは、蔵の主の言葉を並べなかった。鱗道や猪狩に向けられた言葉でないことも理由だろうが、表せなかったと言うべきだろう。それ程蔵の主の声は冷たく、鋭利であったのだ。蔵の主が繊細さの中に苛烈な性格を秘めていることは察していた鱗道も、ここまでの物とは思っておらずに息を飲んでいた。それを、
「おい、今度は何だ。なんつーか……雰囲気が違ぇぞ」
猪狩から呼び止められたお陰で吹き返す。どっと胸が鼓動を再開したような感覚すらして、鱗道は自らの胸に手を当てた。それを、猪狩は目を細めて見ている。
「クロが口を出すのは許可しない、と言われたんだ。随分とカラスが嫌いらしくてな……実力行使も辞さないと言ってる。クロ、すまんが……従ってくれ」
幾度か呼吸を整えて、鱗道はゆっくりと口にした。クロからは声による返答はなく、僅かだが嘴を開いて閉ざす音が一度だけした。それで、充分である。
「アンタが、俺を贔屓してくれてるのは分かってる。クロはもう口を挟まん。今回は見逃してやってくれ」
『――随分、この鴉が可愛いようですなぁ、代理殿。当然だとも。御柱様の代理の言葉、聞ける範囲は聞きましょうぞ』
振り子が再び、今までと同じ――不安定な軌道に乗ったのを感じて、鱗道は息を吐こうとした。それを邪魔したのは、バシンと鋭く、
「痛っ!? 何するんだ、お前……!」
強く、背中を叩いた猪狩の手だ。思わず悲鳴を上げてむせて咳き込み、それから猪狩を睨み付ける。一、二歩前につんのめったものだから、足下に群がりだしていた玩具達が踏まれまいとして慌てふためき逃げ出していく。
「酷ぇ顔色してやがるからよ、気合い入れてやったんだろうが」
猪狩は、全く悪びれもなく体を揺すって笑っている。が、ひとしきり笑い終え、鱗道が呼吸を整えた頃には、右腕を伸ばして肩を組み寄せ、
「お前がカミサマで解決するより奴さんの方が手が早ぇんだな? しかも、些細な切っ掛けでやりかねねぇってわけか」
と、低く親しげな語調は、珍しく神妙に鱗道に語る。鱗道がひりつく背中をさすりながら頷くと、
「正直に言うとよ、穏便に、なんざ悠長なことを言いやがってとマジで苛ついてたんだが……悪かったな。誤解してたぜ」
と、苦々しく笑っているものの、謝罪の言葉を口にされる。それに対し、鱗道は首を横に振った。猪狩の苛立ちは伝わっていた。殆どの状況において間接的でなければ把握できないもどかしさにも、説明不足である鱗道の言動にもヤキモキしていたに違いない。猪狩が謝る理由はどこにもなかった。機会も言葉も足らなかった己の手落ちだ――と、猪狩は鱗道に言わせなかった。
「クロが宙ぶらりんじゃ、お前もクールぶっていられねぇもんな。相手に乗って正解を見付けるのが一番、穏便に済むってのに納得したぜ」
組まれた肩が解放され、軽い右拳がそのまま鱗道の胸を叩く。そして、猪狩はその場にドサリと座り込んだ。左の片膝を立てて抱え込むようにし、
「クロの堪え性は知ってるが、なまじ頭が切れるっぽいからなァ。下手に時間をかけりゃ、焦れったくなってまた口を挟んできちまうか――ああ、クロは口じゃねぇから嘴か?」
軽口はいつも通り、笑みも不遜で若々しい。が、目だけは笑って居らず、
「クロも無事に返して貰わねぇとな。そうじゃなきゃ、穏便になんか済まなくなっちまう。グレイもその気になりゃァ、手段を選ばねぇ奴だからよぅ」
じっとりと箱を――一度、鱗道を見上げる視線を挟んでから睨み付ける。笑みや軽口が余裕の表れかブラフなのか、鱗道には判断がつかない。だが、猪狩は文字通り腰を据えて蔵の主とのやり取りに臨もうと腹を括ったようだ。笑みを浮かべた猪狩の隣に鱗道も胡座をかいて、
「人聞きの悪いことを言うな」
と、言って猪狩の横顔を睨み付けた。猪狩は笑わず、不可解そうに鱗道を見返してくる。まるで、何を指摘されたか分からないと言わんばかりの表情に、
『そうであろうよ。御柱様の代理となれば、手段を選んで失態など出来ぬであろうもの。そうでなければなるまいよ』
と、蔵の主からの意外な同意を大変愉快そうな笑い声交じりでされれば鱗道も面白くはない。蔵の主――箱がある一角にじっと視線を向ける。文字を並べだしたカルタをゆっくりと読みながら猪狩が「おいおい、言われてんぞ」などと言ってくるが、鱗道はそちらを見返さなかった。