グレイスケイルデイズ
-02-
店の奥にある古い机は、一番下に大きな引き出しが据えてある。引き出しの中は商品でも金目の物でもなく、鱗道が大事だと思うものを入れていた。例えば老眼鏡のスペアや、質草や買い取り品の台帳、シロの墓石などである。
鱗道はその引き出しから古い木箱を取り出してきて、居間のちゃぶ台に置いた。片手に収まるほどの大きさであるが、とにかく年代物の木箱である。角はすっかり丸くなり、表面は黒檀のように黒ずんで艶があった。ぴったりと嵌まっている蓋を開けると中には純白とも白金とも見えるレースのような薄い膜が何十枚と重なって、これまた箱にぴったりと収められている。
『これ、ヘビのにおいがするね』
「ヘビの抜け殻だからな」
鱗道の横から鼻を突き出したシロが、箱の中身を嗅ぎ取って言う。クロはバランスを取りながらシロの額から口吻の先へと歩みつつ箱の中を覗き込もうとしているようだ。シロには嗅ぎやすいように、クロには見えやすいようにと鱗道は箱を傾ける。すんすんと鼻を鳴らしながらにおいを嗅いだシロは、
『でも、普通のヘビとはちょっと違うにおい。なんか……鱗道からするにおいに似てる』
右へ左へ、不思議そうに鱗道と抜け殻を嗅ぎ比べ始めた。そうかと小さく笑う鱗道の前で、シロの頭上では落ち着かなくなったクロが低く飛び降りて、
『私に嗅覚はありませんが、それは、老成して枯れたにおいということでしょうか?』
問いは、シロに向けたものだろう。クロはじっと箱の中に興味深げな視線を送り続けている。思考の多くも好奇心に支配されて箱の中に注がれているに違いない。何せ、声は一律、硬質にして終始真面目である。故に、クロは感じたままを発言したのだろう。
だからこそ、鱗道はクロの言葉の意味を掴みきれずにいる。四十路も過ぎて若くあろうなどとは思っていないし、くたびれた中年という自負はある。ある、が、枯れたにおいがしていそうとクロから思われていたとしたらさすがに、胸中が淀むというものだ――等と考えあぐねていたことが表情に出ていたらしい。
『ああ、申し訳ありません、鱗道。誤解を招くような言い方でしたか? 貴方から連想したのではなく、視覚情報から連想したのです。もしかしたら貴方方には違うように見えるのかもしれませんが、私には乾燥し切断されたヘビの抜け殻にしか、しかも枯れた木の皮や葉脈のように乾ききったものにしか見えませんので』
クロは鱗道を見上げ、淡々と言葉を並べ立てた。弁明や弁解ではなく、事実と異なる訂正に過ぎないのだろう。クロの言葉から納得と少しの安堵を噛み締めながら、
「俺もにおいは分からん。が、シロが言う似てるにおいは、この箱のせいだろうよ」
箱本体の横に伏せていた蓋をひっくり返して見せる。すると、顔の前に突き付けられるようになったクロが小さな感嘆を漏らした。次いでシロが嗅ぎ分けていた鼻先を蓋へ向け顔を正面に正すと、耳も真っ直ぐにピンと立ててひゃんと一鳴きし――
『蛇神サマだ!』
と、紺碧の目を細めて尾を振った。
蓋の内側――蓋に限らず本体も、箱の内側全ては黒ずんだ表面とは対照的に光沢を帯びた絹のような、白練色に煌めいている。光に当たれば薄い油膜か螺鈿が貼られているかの如き白練色の正体は、五ミリにも満たない鱗が整然と並んだ皮だ。みっしりと箱に収まっている抜け殻とは全く違い、みずみずしく艶やかで煌びやか。なめされた革や精巧な合皮とは全く異なる、今にもうねり始めても驚きはしないほど生々しい――〝此方の世界〟のものとは全く異なる、蛇の皮である。
『蛇神? この美しい鱗は、蛇神のものだというのですか?』
「ああ。シロは、俺が蛇神を降ろした時に同じにおいを嗅いでるんだろう」
〝彼方の世界〟に対する視力が弱いクロの目にも、はっきりと鱗が見えているらしい。それだけの力を、箱の内側に貼られた皮は有している。クロの頭の近くに蓋を返したまま置いてやると、クロは頭を突っ込むようにして内側を興味深げに観察し始めた。
「俺が降ろしても、クロには白く見えるだけだもんな。蛇神の一部とはいえ、初対面……いや、まぁ……対面してるわけじゃないか……」
『僕ね、僕はね、お山で会ったよ! 鱗道が蛇神サマと混ざってる時はね、こんな風になってる! そう、においもこんな感じ!』
シロの尻尾が大きく振られ、鱗道の背中を何度も叩く。嬉しげにひゃんひゃんと鳴き喚く口が箱をひっくり返しそうになって、鱗道は落ち着けと言いながらシロの頭を撫でながら抑えた。
クロは箱の内側を覗き込んだまま動かない。あまりの珍しさに見入っているのだろう。クロが発する雰囲気は――当人に、直接言うことは出来ないが――ショーケースに張り付いて玩具や菓子などを見つめる子どもとよく似ているのだから間違いない。
「これは、蛇神の代理仕事をする者が引き継ぐ箱で、蛇神の領地で見付けるヘビの抜け殻をしまっておくんだ。中に貼られてる皮は、蛇神が巣穴に引き籠もる前に残していったもんらしい」
『鱗道、貴方の』
『なんで?』
鱗道の頭の中で、ほぼ同時に対照的な声が響く。シロに関しては、鳴き声が耳を突いていた。シロとクロの声が重なることは滅多にない。大抵の場合、クロの方が周囲の状況を把握していて余程緊急でもない限り、咄嗟かつ感情的に動くシロの動向を判断してから発言するからだ。クロは素早く箱から顔を上げ、シロを見つめていた。しまった、と声が聞こえてきそうな雰囲気がある。鱗道は小さく笑ってから、いつもと変わらず鱗道の顔を見ているシロの頭を撫で付け、
「クロからだ」
シロからは素直な『うん!』という了承が耳と頭に返された。が、クロからはしばらく発言がなかった。優先されたことを意外に思って驚いているのか、同時発言のバツの悪さを引き摺っているのかまでは分からない。が、嘴が開かれ、
『鱗道。貴方の一族は辿りきれないほど昔から代理仕事を請け負っていると聞いています。蛇神から切り離されて箱に貼られた皮はそれ程の長い年月、私にも視認できる形で残り続けているというのですか?』
発せられた声は、常と同じ硬質さと一律を保っていた。クロが驚くのも無理はない。〝彼方の世界〟の存在から切り離されたものが〝此方の世界〟に残り続けることの異常さを、クロは、
『シロの毛など、私が抜いても気が付けば消えてしまっているというのに』
少し特殊な視点からであるが理解しているのだ。
クロは実に様々な理由でシロから毛を抜く。が、シロから抜かれた毛束が長く残り続けることはない。ゴミ箱に捨てようと、クロが咥えっぱなしにしていようとしばらく経てば消えてしまっている。そもそもクロがシロから毛を抜けるのは、シロが力を消費して〝此方の世界〟に顕現し続けているからだ。力の源から切り離されてしまえば、いずれ力を失って〝此方の世界〟に在り続けられないのは当然のことである。
「その通りだ。残り続けてる。一柱ってのは、それくらい特別な存在だってことなんだろう」
鱗道の言葉に短い感嘆を漏らし、クロの頭は再び箱の中に向けられた。
『……触れることは出来るでしょうか?』
「試してみても構わんよ。お前の嘴がいくら頑丈でも、少し引っ掻いたくらいで剥がれるもんじゃない」
鱗道の言葉を受けて差し込まれる嘴は、非常に神経質で慎重なものだ。嘴の先端が引っ掻くような仕草で蓋の内側に触れた後、
『――木の感触ですね。それ以外の感触はありません』
と、残念がるような声が続いた。
『しかし、私の触覚は優れたものとは言えません。温度も分かりませんし、繊細な違いを感じ取ることは出来ません。見た目と触覚の差異が非常に奇妙な感覚ではありますが、これは触覚とは別のものですし』
残念がってはいるものの、クロの声にある僅かな抑揚は興奮由来のものである。失敗すら楽しむ鴉には、口惜しさも新たな刺激に他ならないようだ。
「流石に触れてはっきり分かるもんじゃないか。かくいう俺も、なんとなくしか分からんもんなぁ」
鱗道がクロの嘴の横から指を突っ込んで、箱の内側に触れる。見た目の美しさに反し、指先を占めるのはヤスリがけされた木の感触だ。ただ、クロと違って温度が分かる鱗道の触覚は、木とは違う温度を感じている。似ているのは、半分透けているときのシロに触れたときだ。シロの場合は冷たさや涼しさ、穢れが昂ぶっていれば熱として感じる、実体のない温度。濃密な〝彼方の世界〟の力の塊。蛇神の皮は呼吸をしているものの体温めいた温さを砂地のような乾きと共に感じ取れた。
ただ、それも夢の中で出会う蛇神とは違う感覚である。会話や仕草、挙動や感情で常に動き、さざ波立つように乾いたざわめきを引き連れる雄大さを、箱に貼られた皮は有していない。所詮は――そして当然、蛇神から切り離された皮でしかないのである。そう考え付くと触れていても気分が良いものではないと思うようになり、
「この箱も、俺の代で役目を終えるし……これだけ力が残ってれば充分なんだろう」
鱗道は浅く溜め息を吐いて蓋から指を引き抜いた。
『役目、とは?』
クロの嘴もまた、鱗道の指に遅れて蓋から引き抜かれる。赤い鉱石の目が鱗道に向いたが、鱗道は首を横に振った。
「次はシロの番だ」
クロは反論も同意も述べずに、鱗道に向けていた頭をシロへと動かす。何のことだろうと言わんばかりに首を傾いでいたシロであるが、
「お前は何が、なんで、なんだ?」
鱗道に質問を促され、思い出したように耳をピンと立て直して、
『そう! あのね、なんで蛇神サマの箱にヘビの抜け殻が入ってるのかな、って!』
ひゃんひゃんと鳴きながら語る。鱗道は両手を胡座の上に組み直し、
「クロの質問にも答えられるな」
と、一呼吸を挟んだ。
「この箱にヘビの抜け殻を長くしまっておくことで、抜け殻に蛇神の力を移すんだ」
『移す?』
かくん、とシロの首が傾げられる。じっと見ているとつられそうになるものだから、鱗道は視線を移した。箱の中を満たす、純白とも白金とも言える、薄らとした輝きを持ったヘビの抜け殻へと。
「蛇神の皮と一緒にしておくことで抜け殻に蛇神の力やにおいが移るんだ。俺が蛇神を降ろすのと似てると思ってくれていい。蛇神の力が移った抜け殻は……依り代なんて呼ぶこともあるな。他の一柱や通りがかりの〝彼方の世界〟の存在に蛇神の存在を示唆するために蒔いたり、俺が蛇神を降ろせん時に一時しのぎで穢れや瘴気を祓ったり……俺じゃないものに蛇神を降ろすために使ったりする」
鱗道は箱の中から抜け殻を一枚取りだしてちゃぶ台に置いた。小さく細かな鱗が揃った抜け殻は、箱から取り出されても輝きを失わない。クロの頭がシロから抜け殻に移ってじっと見下ろしている。クロの目には何色として映っているのだろうか。
『箱の役目は、その依り代を作ることなのですね』
「そうだ。ただ、蛇神を直接降ろせる俺とは違って、力を移すもんだからな。急ごしらえの非常手段として使うにも数年はかかるし……ちゃんと役目を果たせる依り代にするには十年以上は仕舞っておかなきゃならん。それに、一枚に宿せる力も限られてる。使うときは、何枚かまとめて使わないと効果がない」
箱の中にはみっしりと、依り代となったヘビの抜け殻が詰まっている。それでも枚数にして四十枚もない。また、箱そのものが片手に収まるほどの大きさだ。一枚を砕いて粉にしたならば一つまみより少し多いくらいにしかならない。
『成る程。非常に便利なものですが易々とは使えない、まさに奥の手ということですか』
『ねぇ、なんで?』
鱗道の手が箱の中に抜け殻をしまいきる前に、シロの前足が鱗道の腕を掻いた。鱗道が促すより前に、クロが何かを言うより前に、
『なんで鱗道はその箱を出してきたの?』
鱗道は、その質問はクロからされると思っていた。鱗道が思っていたよりも、クロは初めて目にする蛇神の皮やその片鱗に夢中になっていたのだろう。シロの問いを聞いたクロが嘴を素早く鱗道に向ける。鱗道は箱の中に抜け殻をしまって蓋をきっちりと閉じて、
「……ちょっと大事が控えててな。それで使う。まぁ……この依り代自体、それに使うためにあるようなもんだ」
言った声は、自分の想像以上に気重であった。
『おおごと』
シロが言葉を繰り返している間に、クロがシロの頭に飛び乗った。鱗道の視界に二人とも収まるように気を遣ってくれたのだろう。鱗道は二人の方へ体ごと向き直った。真っ直ぐに向けば、少し目線を上下するだけで紺碧と鉱石の目と視線を合わせられる。
「それで、お前達の力を借りたい。特にシロ、お前が重要になるかもしれん」
僕? と、言いながらシロが首を傾げなかったのは頭上にクロが乗っていたからだ。ましてや、そのクロが顔を見合わせるようにシロの顔を覗き込めば、クロを落とさずに首を傾げられなどしない。鱗道はしばらく黙ったまま、二人の視線がこちらを見るのを待ち、その後に発した声は、
「取り掛かると俺は蛇神を降ろせん。その間に何か起こったら、シロ、お前が頼りだ」
やはり、自分が思っているよりも気重であった。