グレイスケイルデイズ
-03-
「〝鯨〟ってのがどういうもんかは、俺もはっきりとは知らん」
箱を元の引き出しにしまい込み、座布団に座って麦茶を一口飲んだ頃に、鱗道は頭の中で続けていた探し物をついに諦めた。迫る大事というものをシロとクロにどう説明したものか、何から説明すべきかと一応は道筋を模索していたのだ。が、元々話好きでもない話下手な男である。結局は普段通りに、思い付くままに話し始めることにした。それが出来るのも、
「俺が前に〝鯨〟が来るってことに取り掛かったのは代理を引き継いで一年と少しくらいの……中学を卒業した頃だからな。よく分からんまま、蛇神の言う通りに動いてただけだ。今ならまぁ……やってたことは分かるが」
『数十年に一度の事態であるから、情報そのものが少ないということですね』
一を聞いて十を知り、司会進行として有能なクロがいてくれるからだ。シロの頭からちゃぶ台へ足場を移したクロの合いの手に鱗道は頷く。
「そんな昔のことなもんで、記憶は曖昧だし……蛇神は〝鯨〟について話したがらんし……ただ、まぁ」
鱗道は腕を組んで目を閉じた。自然と眉間に皺が寄る。若さ故の好奇心と達成感を求めて、山中から見下ろした冬の海。そこに〝鯨〟を――
「……俺は、その一件から、冬の海が怖いんだ。特に、夜の海が」
――それと思しきものを、鱗道は見た。見てしまった。
イヌ用のおやつを噛んでいたシロが丁度噛み砕いたらしいパキンという軽い音に、鱗道はゆっくりと目を開けた。ちゃぶ台の正面ではクロが、普段と全く変わりようがない顔で鱗道をじっと見ている。
『鱗道も怖いの、あるんだ』
シロの言葉に、妙に気恥ずかしさと居心地の悪さを覚えて鱗道は低い呻きを漏らした。
「あのなぁ、俺をなんだと思ってるんだ。当然、色々とあるぞ……グロテスクなもんも嫌だし」
『恐怖と嫌悪はまた別の感情だと思われますが、話が脱線してしまいますね』
やはり、司会進行としてクロは最適な人材であった。硬質な声でさっと話を遮ると、翼の先端を向けて鱗道に続きを促す。
「……とにかく、そんなわけで〝鯨〟に関しては答えられることは殆どない。他のことなら聞かれれば答えられる……いつも通りにな」
鱗道がシロやクロに蛇神の代理仕事を手伝って貰うとなると大雑把な目的を言った後、クロに疑問点を挙げて貰ってそれに答える形を取っていた。いつも通り、というのはそのことで、
『では、腰を据えて話を致しましょうか。私の場合、どこが腰に当たるのかは判断が難しいところですが』
クロは了承したと言う代わりに、嘴を開いたまま足を折って座り込んだ。クロのユーモアを含んだ言い回しに、鱗道は肩の力を抜く。クロなりに鱗道の妙な緊張を見抜いて気を紛らわせようとしてくれたのだろう。まったく、観察眼と気が利く鴉であるから――
『膝をつき合わせて、の方が良いのでしょうか。その場合でも膝がどこかは難しい問題ですし、つき合わせるにはかなり接近せねばなりませんね』
――いや、案外ただの、普段通りの独特な悩みなのかもしれない。ユーモアなのか本気なのか判断するには、クロが通常と変わらない無表情で声が一律であることが最大の障害である。
さて、とクロは開いたままの嘴を鱗道に向け直した。
『まず、貴方はこれから何をするのですか?』
「街に、蛇神を降ろすための準備をする」
クロからの質問は短く、鱗道が急かされることはない。考えて、思ったままに答えれば、
『街に蛇神を降ろす、というのは?』
こうして、クロから次の質問が投げかけられるからだ。これを繰り返していけば、クロは話を上手く纏めてくれるのである。
「〝鯨〟は蛇神がいないと陸に上がってこようとする。ただ……〝鯨〟は陸に上げちゃいかんそうだ。だから、蛇神は健在だと見せつけるために街に蛇神を降ろして〝鯨〟に蛇神の姿を見せるんだ。〝鯨〟は潮に流されてるもんで、また流され出すまで……なんか……少し世間話をしていくらしい」
殆どが伝聞で要領は得ないが、〝鯨〟に関しては分からないと事前に鱗道が申告していたため、クロは弁えて追及はしてこない。それでも、
『世間話、ですか?』
クロは意外そうに首を傾いだ。鱗道も頷きながら、
「俺達が想像する世間話、とは全然違うだろうがな。前は離れたところで見てたんで内容は聞こえちゃいなかった。〝鯨〟は今の領地に人間の代理を立ててることを知ってるらしいんで潮目が向くとやって来るが……蛇神の姿が見えてるうちは、様子を見て世間話をして、また潮に流されてく」
『冬の海より来たる凶悪なるインベーダー。それを迎え撃つ領地の神聖なるガーディアン――と、いうものを想像していたのですが、どうやら違ったようですね』
クロにしては子どもっぽい発想に苦笑いを零しながら、鱗道は髪を掻いた。そのまま顔を撫で下ろした手は、発想だけなら構わないのだが、と硬い唇を指で掻いて、
「難しいな……〝彼方〟側には俺達の価値観や常識は通じんだろ? 向こうが良かれと思ってることが、俺達にも良いとは限らない。凶悪かどうかは分からんし、俺達や蛇神にとっては侵略だが、向こうはそう思っていないなんてこともあり得る。どっちが良い悪い、ってもんは考えない方がいい。まぁ……少なくとも蛇神は〝鯨〟の上陸を良しと思っていない。だから姿を現して阻止する。俺は代理なもんでその通りにする……それだけだ」
完全に〝彼方の世界〟の存在であり、生前はイヌという動物であったシロには不要の説明だが、人間によって生み出され人間と共に過ごしてきたクロの思考は〝此方の世界〟に偏っている。一般的な人間の考え方で〝彼方の世界〟に対峙すると、あっさりと足下を掬われてしまう。鱗道も常々、己にも言い聞かせていることだ。
『貴方が繰り返す忠告の一つですね』
クロも分かっている、と頷いて見せた。一度は閉ざされた嘴だが、また開かれて、
『鱗道。話は少し変わりますが、貴方は冬の夜の海をどのように感じているのです?』
鱗道は唐突に変わった話の方向に戸惑いながら、クロの目を見た。赤い鉱石の目はじっと鱗道を見つめている。鉱石の目は自ら光ることはないはずだが、時折中からキラリと照り返すように光ることがあった。鴉の器に収まっている液体金属の輝きなのか、単純に気のせいかは分からない。だが、直前に光量を増す落日のような目は、何らかの思惑がある時の眼差しであった。
問われてから少しして、鱗道は視線をクロから外した。畳に向けて、自分の中を掘り下げる。とは言え、思考は短時間だ。
「……嫌いだし、苦手だ……何がいるか分からんし、いないという保証もないし……暗くて、怖い。だが……まぁ、そういうもんだとは思ってる……なぁ、おい、この質問はなんなんだ」
飾る言葉も適切な言葉も禄に探さず、思うがまま見付けたままに言葉を発する。鱗道に視線を戻されたクロだが、
『もしも、そんな冬の夜の海を、全て無くせてしまうとしたら、無くしますか?』
クロらしくない突拍子もない質問を、硬質で一律な声と口調で言い切った。
「いいや。俺が嫌いだとしてもそれで無くしていいもんじゃない」
鱗道はクロの質問を訝しむことなく、自分でも驚くほどすんなりと返答した。妙なやり取りだなと鱗道が疑問に思った頃、
『分かりました。有り難うございます、鱗道。では、私も共生出来ずとも共存せねばならない相手だと心得て今後の話を聞きましょう』
クロは嘴を閉ざして頷いている。クロの出した答えは感覚的に正しい。だが、そこに自身の返答がどう関わっていたのかと首を捻る鱗道に向いた嘴は、
『貴方は〝鯨〟について知らない、分からないと曖昧過ぎました。全く想像も出来ない正体不明が相手では、どうにも話がしにくいのです。なので別の角度から貴方の印象を聞き出して、少し輪郭を描かせて頂きました。貴方は無理に〝彼方の世界〟を〝此方の世界〟に落とし込むなと言いますが、話を円滑に進めるには必要な時があるのですよ、鱗道』
唇ほどと言わなくとも柔らかければ笑みを浮かべていたに違いない。それ程、クロの声は満足げであった。直接的に聞いても埒が明かない。故に間接的に、別の方向や視点から聞き出し探り出す――というのはつい最近に経験がある。だからこそ、珍しく鱗道の感想が素早く、明確に浮き彫りにされた。
「……なんか、お前、時々猪狩に似てるよな」
浮かんでいたかもしれない笑みも鱗道の呟きで完全に消えてしまったようだ。クロの返事は言葉になっていない、硬い金属同士がぶつかって奏でた一音だけである。クロが受けた衝撃が音になったものであって、返事と言えるものではないのかもしれない。
シロのおやつがまた丁度良いところで噛み砕かれて、パキンと鳴った。クロは気を取り直すように嘴を翼で何度か撫でてから、
『それで、街に蛇神を降ろす準備とは、具体的に何をするのです?』
鱗道の曖昧な説明に輪郭を描くための質問を続け始めた。
「さっきの抜け殻……依り代を使う。この街には囲うようにいくつか水源があって、ゆっくり海に流れてるらしい。そこに依り代を撒くと、街全体に依り代が行き届くそうだ。最後に海の近くに撒く。後は〝鯨〟が近付いたら蛇神を街に降ろしてやり過ごせば……全部、終いだ」
『成る程。この街は山に囲まれていますからね。水源は豊富ですし地下水として流れていて当然でしょう。ヘビは水の神として結びつけられることもありますから、それを利用してのことでしょうか』
「そうかもしれんし……そうじゃないかもしれん。都合が良すぎる時は、大抵の理由は後付けだろ」
嘴を撫でていた翼の先が、嘴の下を支えるように添えられた。ついでに首でも傾げられて、クロが模しているのは、
『理由や仕組みはどうあれ、やることは明確にして単純ですね。更に確認すべきは――貴方が自身に蛇神を降ろせなくなる、ということです。準備をし始めると、貴方には出来なくなってしまうのですか?』
古い映画で描かれる探偵の仕草のようであった。
「ああ。蛇神は……巨大だが、一匹の蛇だ。分身が作れても分裂が出来るわけじゃないし、分身では力が足らずに〝鯨〟を満足させられない」
『〝鯨〟は蛇神がいないと上陸してくる。共生は出来ないような相手ですから上陸されてはならないというのに、分身と言うハリボテでは蛇神不在と思われて上陸されてしまいかねず、上陸されてしまえば止める手段はない』
実際、クロは自らも探偵を意識した行動を取っているようだ。立ち上がったかと思うと、細い足でちゃぶ台の上をゆっくりと歩き回る。言葉の合間に頷く仕草などは、それ以外に理由のない行動だ。
『だからこそ、蛇神は長い時をかけ充分な力を宿した依り代を撒いて、街そのものに己を降ろさせて主張する、と――確か、鱗道、貴方には蛇神そのものと通じている巣穴というものがあると言っていましたね。そこを閉ざして、一時的に街に巣穴を開く。それが、貴方が蛇神を降ろせなくなる理由と、貴方がこれから行う準備の目的と考えて良いのでしょうか』
現場に出向かず与えられる情報だけで事件を解決に導く探偵を安楽椅子探偵と言うらしい。クロの場合だとちゃぶ台探偵と呼ばれるのだろうか。それは――クロの美的センスに拒絶されてしまいそうだ。
「完全に閉ざす、ってわけじゃないがな。〝彼方の世界〟が一切見聞きできなくなるわけじゃない。ただ、やっぱり鈍るし、蛇神は降ろせなくなる」
クロの総括に、鱗道がした修正はこの一言ぐらいである。遠回りであるが、鱗道達にとっては最短距離のやり取りだ。鱗道もクロもこうして情報を共有し、目的を明確にしてから行動を決定する。無駄な行動や効率性という点で、鱗道はクロという協力者に随分と助けられていよう。
『成る程。それ故に、シロの出番ということですね』
黒の翼が嘴の下から離れ、真っ直ぐにシロを指した。シロは粉々になったおやつを飲み下したところらしく、ゴクンと喉を鳴らす。豊かな被毛に覆われた顔に、輝く紺碧が瞬きを繰り返して、
『僕?』
と、見上げた先は鱗道であった。
『元々、鱗道よりもシロの方が〝彼方の世界〟の感覚に優れています。そのシロに率先して〝彼方の世界〟の干渉や変化を察知、必要な対処を取って貰おうというわけですね。つまり、シロは蛇神代理の、さらなる代理を担える存在である、と』
大袈裟に翼を振るいながら語るクロは、探偵ドラマのワンシーンを演じているかのようだ。シロの目が鱗道からクロに移り、
『僕が鱗道の代理?』
舌っ足らずの幼い口調の声はすっかり上擦っている。おやつを食べている間は弛んでいた耳がピンと真っ直ぐに立ち、力の抜けていた尾がこれまたピンと真っ直ぐ伸びている。
「……まぁ、そうと言えば……そうだが、そこまで大袈裟なもんじゃない。異常や異変は知っときたいが、依り代を撒き始めてから〝鯨〟が去るまでの間、他のいざこざは避けたいんだ。無理に対処する必要はない。〝鯨〟より優先しなきゃならんような緊急事態が重なるとは思えんし」
『鱗道、それはフラグと呼ばれるものですよ』
「なんだ、それ……まぁ、あれだ。いつもと違うことがあれば知らせてくれる程度でいいんだ」
真面目に探偵の真似をし続けるクロに溜め息を吐いてから、鱗道はシロを見た。クロが煽ったが、鱗道が告げた内容は肩透かしであろう。さぞかし水を差されてしょぼくれたかと思えば、
『僕、役に立てる?』
立ち上がっていたシロの顔が鱗道の間近にあった。紺碧の目に入る一条の光が満月を思わせ、澄み渡った冬の夜空のようである。耳にさざ波の幻聴を聞いたのは、〝鯨〟が来る夜は今回も満月と重なりそうだと蛇神から聞いていたからだろう。鱗道はさざ波を振り払うべく、強く目を閉じた。
「……まぁ……そうだ。お前に、頑張って欲しい」
シロからは常日頃、冬のにおいがする。隔絶された孤独な冬を耐え忍んだ結果、シロの身に染み付いたにおいだ。目を開けても閉じても、目の前には冬がある。鱗道はやむなく目を開き、
『僕、頑張る!』
超至近距離、シロの鼻先から漏れる冷たい鼻息を顔面に浴びた。
ひゃん! と眼前の一鳴きは鼓膜に一切の配慮はなく、頭に響く声にも力が満ち満ちている。鱗道の顔を覗き込む紺碧の目には満月めいた一条の光の他にも幾つもの小さな星のような光が差し始めていた。シロも、確かに冬である。だが、〝鯨〟が塗りつぶした冬の夜の海とは全く違う冬だ。シロの冬は、しんしんと降り積もった雪明かりで白く照らされて夜だというのに明るい――春を待ち望む山の夜である。
「ああ……頼む」
鱗道は深い溜め息を吐いてから、近すぎるシロの顔を横にずらした。嘴の下に翼の先端を添えたクロが、
『シロ。貴方は、自分が何をするか理解出来ましたか?』
と、硬質で怜悧な声で問う。シロからは、
『鱗道の代わり!』
と、普段よりも旺盛な返事がされる。振り回される尻尾に背中を打たれる鱗道を見ながら頭を横に振ったのはクロであり、
『シロがやる気に満ちていることは良いことですが、シロがすべきことは改めて具体的に言い聞かせる必要がありそうですね』
クロの言葉に深々と頷くことしか出来なかったのが、苦笑いを浮かべるばかりの鱗道であった。